1話・最強ぽかぽかクリーム
冬が来た。
トレセン学園の朝は、白い息から始まるようになった。グラウンドの土は硬く、水道の水は刺すように冷たい。廊下を歩く子たちの肩が、少しずつ丸くなっていく。
最強メンタル計画ちゃんは、自分の手を見ていた。
指のつけ根のところが、少し荒れている。昨日より、少し広がった。
水仕事と、冬の練習と、ノートの書きすぎ。原因はたぶん全部だった。
ペンを持つと、ささくれが引っかかる。気になる。気になると、ノートに集中できない。集中できないのは、メンタルによくない。
それから、隣の机を見た。
赤ペン先生が、かじかんだ手に息を吹きかけてから、赤ペンを持ち直していた。
最強メンタル計画ちゃんは、しばらくそれを見ていた。
手が荒れる。手が冷たい。冬は、手からつらくなる。
ノートを開いた。新しいページに、書いた。
最強ぽかぽかクリーム
手が、荒れない
手が、あったかい
冬でも、だいじな手のまま
書き終えてから、ペンを置いた。
そして、いつもなら次に材料を出すところで——止まった。
約束があった。
作る前に、相談する。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートを持って立ち上がった。
「相談していい?」
赤ペン先生が、赤ペンを持ったまま固まった。
ゆっくりとこちらを向く。
「……今、なんて?」
「相談していい?」
「作る前に?」
「作る前に」
赤ペン先生は、赤ペンを置いた。両手が空いた。少しの間、何かを噛みしめるような顔をした。
「……いいよ。聞く」
ノートが差し出される。赤ペン先生はページを読んだ。最強ぽかぽかクリーム。手が、荒れない。手が、あったかい。
「ハンドクリーム?」
「ん」
「真V5の?」
「真V5を、少し。あと、日焼け止めの膜のやつを、少し」
「組み合わせるんだ」
「荒れないのと、あったかいの。両方ほしいから」
赤ペン先生は、ページをもう一度読んだ。
真V5は、良品だった。台帳の上でも「安全」がついている数少ない作品だ。自分も普段から使っている。フィジカルV8の日焼け止めも、夏の終わりに条件付きで通った実績がある。
どちらも、単体では安全。
「香りは?」
「控えめにする」
「控えめって、どのくらい」
「ほとんど、しないくらい。残りすぎると、よくないって、学んだ」
「学んだんだ」
「旧V5で」
「あれは学びというか大事故というか」
赤ペン先生は少し考えてから、ノートを返した。
「たづなさんにも見せて。それで通ったら、いいよ」
「ん」
「材料も全部書くこと」
「書く」
「作るところ、見ててもいい?」
「いい」
最強メンタル計画ちゃんは、こくりと頷いた。それから、少しだけ嬉しそうに、ノートを胸に抱えた。
相談は、できた。
たづなさんの確認は、翌日の放課後だった。
管理室の机に、ノートと材料の一覧が並ぶ。たづなさんは一行ずつ読んでいった。
「真V5の改良、ということですね」
「はい」
「成分はこの一覧で全部ですか」
「全部です」
「香料は」
「前の半分より、もっと少なくしました」
「塗る範囲は」
「手だけです」
「配布は」
「希望者だけ。無理にすすめません」
たづなさんは、ページの端に小さく確認印を入れた。
「申請として受理します。試作ができたら、提供前に一度見せてください」
「はい」
帰り道、赤ペン先生が隣で言った。
「ちゃんと通ったね」
「通った」
「えらいとは言わないけど、正しかったよ」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんの耳が、少しだけ上を向いていた。
試作は、週末に行われた。
赤ペン先生立ち会いのもと、調理室の端を借りて、湯せんでベースを溶かすところから始まる。
真V5のベース。日焼け止めの保護膜の成分。それから、ほんの少しの香料。
最強メンタル計画ちゃんの手つきは、丁寧だった。混ぜる速度。温度。冷まし方。容器への移し方。一つ一つが、静かで正確だった。
赤ペン先生は、横でそれを見ていた。
この子は、こういう時だけ手際がいい。最強メンタルが懸かっている時だけ、何かのリミッターが外れる。普段の家庭科の成績は普通なのに。
「できた」
小さな容器に、白いクリームがおさまっていた。
香りは、本当に控えめだった。鼻を近づけて、やっと何かが分かるくらい。それも、石けんのような、なんでもない優しい匂いだった。
「……いい匂い、ではあるね」
「ん」
「変な要素は?」
「ない。色も白。音もしない。光らない」
「光らないは当たり前であってほしい」
最強メンタル計画ちゃんは、自分の手の甲に少しだけ塗った。
すっとなじむ。荒れていたところが、しっとり落ち着く。そして、塗ったところから、じわっとあたたかい。
「あったかい」
「貸して」
赤ペン先生は、容器を受け取って、匂いを確認して、それから自分の指先に少しだけ塗った。
なじむ。あたたかい。荒れがおさまる感じがする。
「……普通に、いいクリームだと思う」
「ん」
「たづなさんに見せて、それで配ろう」
たづなさんの最終確認も通った。塗布試験、本人問題なし。赤ペン先生問題なし。成分一覧と申請内容に相違なし。
台帳には、こう書かれた。
最強ぽかぽかクリーム:申請どおり。提供可(希望者のみ)。
ここまで、全部正しかった。
月曜日の昼休み、教室で配布が始まった。
「手、荒れてる子いたら、どうぞ」
最強メンタル計画ちゃんが容器を机に置くと、クラスメイトが数人集まってきた。
「え、くれるの?」
「ん」
「たづなさんの確認は」
「通ってる」
「赤ペン先生の確認は」
「通ってる」
「じゃあ安心だ」
確認の順番が完全に出来上がっているあたり、二年間の積み重ねだった。
最初の子が、手の甲に塗った。
「あ、すごい。なじむ」
二人目も塗った。
「あったかい。何これ、あったかい」
「荒れてたとこ、落ち着いた気がする」
「いい匂い。ほんのりだけど」
好評だった。普通に、好評だった。
赤ペン先生は教室の端からそれを見ていた。今のところ、何も起きていない。匂いは控えめ。成分はまとも。手続きは完璧。
大丈夫。今回は大丈夫かもしれない。
そう思いかけた時だった。
最初に塗った子が、ふと、自分の手の甲を見た。
じわじわと、あたたかさが広がっていく頃合いだった。
「…………」
その子は、手を見たまま動かなくなった。
「どうしたの?」と隣の子が聞いた。
「……この匂い、なんかいい」
「ほんのりだよね」
「ほんのりが、なんか……残るというか……ふわって、引いてく感じが……」
「分かる。すっと消えてくのに、消えたあともなんか、いる」
「いる?」
「いるっていうか……なんだろう、配信終わりの、またねのあとの、あの感じ……」
赤ペン先生の背筋に、冷たいものが走った。
その子は、まだ手を見ていた。
「……あったかい」
「うん、あったかいよね」
「手が、あったかい……この温度……」
じわじわと、頬が赤くなっていく。
「この温度、なんか……手を、握られてるみたいな……」
「え?」
「……握手……?」
教室の空気が変わった。
「スピカさんに……触れられてる、気がする…………」
その子は、自分の手の甲を胸に当てて、世界で一番幸せそうな顔で、ゆっくりと机に沈んだ。
静かだった。
苦しそうではなかった。むしろ、これ以上ないほど満たされた寝顔だった。
残ったクラスメイトたちが、自分の手を見た。
「見るな!」
赤ペン先生が叫んだ。間に合わなかった。
「……あ、ほんとだ、握手……」
「言葉にするな! 連想が完成する!」
「あったか……スピカさんの手って、こんな……」
「知らないでしょ! 握手したことないでしょ!」
「ない……ないのに、分かる……」
二人目が沈んだ。三人目は、ぎりぎりで自分の手から目をそらして耐えた。耐えたが、机に突っ伏して動かなくなった。意識はある。あるが、使いものにならない。
最強メンタル計画ちゃんは、容器を持ったまま、それを見ていた。
「……塗っただけ」
「そう、塗っただけ」
「クリームに、変なものは入ってない」
「入ってない。知ってる。確認したから」
「なのに」
「なのに、なんだよ」
赤ペン先生は、頭を抱えた。
成分は安全。香りは控えめ。手続きは完璧。
でも、「控えめな香りの引き方」と「じわっとくる温度」が同時に手の甲にあると、ウマ娘の頭の中で勝手に「誰かに手を握られている」が組み上がる。そして、この学園で「あたたかい手」から連想される相手は、一人しかいない。
誰も、そんなこと、申請書に書けない。
昼休みのうちに、被害は教室の外へ出た。
原因は、ドアノブだった。
クリームを塗った手でドアを開けた子がいた。ほんの少しだけ、余韻がドアノブに移った。
次にそのドアを開けた子は、クリームを塗っていない。塗っていないのに、手のひらに、ほんのりあたたかい何かと、ふわっと引いていく匂いを受け取った。
廊下で、その子は自分の手のひらを見た。
「……え、なに、これ……あったか……」
そして、沈んだ。
塗っていない子が落ちた、という報告が赤ペン先生に届いた時、赤ペン先生はちょうど三人目の机に毛布をかけているところだった。
「……どこで」
「二組の前の廊下です! ドアノブ触って落ちたって!」
「ドアノブ!?」
赤ペン先生は走った。走りながら、頭の中で被害の広がり方を計算した。塗った子が触ったもの。ドアノブ。手すり。水道の蛇口。机。借りた消しゴム。
移る。
このクリーム、移る。
「全員、手袋!」
廊下に出た赤ペン先生は、ありったけの声で言った。
「クリーム塗った子は手袋! なければ何も触らない! ポケットに手を入れて歩いて!」
「ポケットに手を入れて歩くのは校則的にどうなんですか!」
「今日だけ特例!」
体操用の手袋、防寒手袋、調理用の手袋。学園中の手袋がかき集められた。塗布済みの子たちは全員、両手を手袋に封じられた。
廊下のドアノブと手すりは、放課後までに全部拭かれた。拭き掃除をする子たちも手袋をした。バケツの水は、念のため三回換えられた。
たづなさんが教室に来たのは、午後の授業が始まる前だった。
机に沈んだままの三人を確認し、呼吸と顔色を確認し、保健室への搬送を手配した。全員、幸せそうだった。
それから、机の上の容器を見た。
「回収します」
「はい」
最強メンタル計画ちゃんは、容器を両手で差し出した。手袋越しに。本人も手袋をさせられていた。
たづなさんは容器を受け取り、台帳を開いた。
「成分に問題はありませんでした。申請にも相違はありませんでした」
「はい」
「ですが、提供は中止します」
「……はい」
「香りの引き方と温度の組み合わせが、連想を起こします。さらに、接触した物品を経由して、塗っていない方にも影響が出ました」
たづなさんはそこで一度ペンを止めて、少しだけ考えた。
それから、台帳に新しい一行を書いた。
触媒型:本体が安全でも、接触物経由で連想が伝わるもの。
「新しい分類です」
「触媒……」
「あなたが言わなくていい言葉です」
「ん」
たづなさんは、容器を保管袋に入れた。
「ノートは返却します。赤ペン先生の確認を入れてください」
「入れます」
赤ペン先生が、手袋をしたまま即答した。
夜、寮の部屋。
ノートが机に開かれていた。
最強ぽかぽかクリーム
手が、荒れない
手が、あったかい
冬でも、だいじな手のまま
赤ペン先生は、赤ペンを持った。少し考えて、書いた。
成分は安全だった。
手続きも正しかった。
でも、余韻は申請できない。
最強メンタル計画ちゃんは、その赤字を見ていた。
「……相談した」
「したね。ちゃんとした」
「申請も通った」
「通った。全部正しかった」
「なのに、だめだった」
「だめだったというか……」
赤ペン先生は、赤ペンを置いた。
「相談は正しかったの。そこは変えなくていい。今回のは、申請の外で起きた。誰も書けないところで」
「申請の外」
「香りの引き方とか、あったかさの感じ方とか、そういうの、紙に書く欄がないでしょ」
「ない」
「ないんだよ。だから、今回のは、相談が足りなかったんじゃない」
最強メンタル計画ちゃんは、少しの間、黙っていた。
それから、自分の手を見た。手袋はもう外していい時間だった。指のつけ根の荒れは、すっかり治っていた。しっとりして、あたたかくて、ペンを持っても引っかからない。
「……手は、治った」
「そうなんだよね」
赤ペン先生も、自分の指先を見た。最初の試作で塗った場所。荒れていない。あたたかい。
「クリームとしては、本当に良かったんだよ。今年いちばん惜しい」
「惜しい」
「惜しいけど、封印」
「……惜しい」
「うん。惜しい」
二人は、しばらく自分の手を見ていた。
窓の外では、雪がちらつき始めていた。今年最初の雪だった。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートの隅に小さく書いた。
手は、治った。
冬は、まだ長い。
赤ペン先生は、その二行目に赤線を引くかどうか、少しだけ迷った。
迷った末、線は引かずに、横に小さく書いた。
次も、先に相談。
「ん」
返事は、すぐだった。
今度は遅くなかった。
トレセン学園スレ
【手を】自分の手を見て落ちる子が続出【見るな】
レス 1〜50
今日の昼休み、二組で何かあったらしい
ハンドクリームで三人沈んだ
ハンドクリームで!?
例の子の新作。ちゃんと申請通ってたやつ
申請通ってたのに!?
成分は完全に安全だったらしい。たづなさんも確認済み
じゃあ何で沈むの
塗ると手があったかくなる→香りがふわって引いてく→「この温度、握手……?」
やめろ
「スピカさんに触れられてる気がする」って言って落ちたって
聞いただけで分かってしまうのが悔しい
分かるな
分かってしまった子から落ちるんだよこれ
自分の手を見るな。今日はもう手を見るな
手を見ないで生活するの難易度高くない?
しかもドアノブで二次被弾があったらしい
ドアノブ!?
塗った子が触ったドアノブから、塗ってない子に余韻が移った
移るのか……
概念が物を経由するな
台帳に「触媒型」って新分類ができたって
たづなさんの台帳、また進化してる
赤ペン先生が廊下で「全員手袋!」って叫んでたのそれか
今日の学園、手袋率が異常に高かった理由
冬だから違和感なかったのが余計に怖い
ちなみにクリーム自体はめちゃくちゃ良かったらしい
荒れが治ってあったかいって、普通に欲しいんだけど
欲しいよな
欲しいけど、塗ったら自分の手で落ちるんだぞ
自分の手に負ける冬、嫌すぎる
でも今回、本人ちゃんと相談してから作ったらしいよ
えらい
申請も通って、成分も安全で、手続き完璧で、それでもこうなる
手続きが完璧でもこうなるって、逆に怖くない?
書類の外から来るんだよ、あの子のは
「余韻は申請できない」
誰の言葉?
赤ペン先生がノートに書いたらしい
名言集に追加で
本人に許可取って
沈んだ三人は全員回復した?
した。起きた瞬間「手は?」って自分の手を確認してまた危なかったらしい
二次被弾ならぬ自己再被弾
冬、始まったばかりだよね
始まったばかりだね
初雪と同時にこれ
今年の冬、長くなりそう
やめろ
でも今日は誰も怪我してないし、手荒れは治ったらしいから
それはよかった
レス 51〜100
手袋して見守ろう
見てる