エピローグ・台帳と、冬の折り返し
終業式が終わった翌日、学園は静かだった。
寮に残る子もいるが、半分くらいは帰省の荷物を抱えて、朝のうちに駅へ向かった。グラウンドに足音はなく、中庭の星空のアーチは、昼の光の中で、ただの白い骨組みに戻っていた。
たづなさんは、管理室に来た。
台帳を棚から出した。
椅子に座った。
お茶を一杯、淹れた。今日は、長くなる予定だった。
開いた。
今冬の項目は、順番に並んでいた。
最初のページから始めた。
最強ぽかぽかクリーム
現物、封印済み。中廊下の手すり、再清掃済み。中庭へ移設した手すりも、点灯式の翌日に再清掃済み。これで余韻の残存箇所は、確認されている限り、ゼロ。
評価欄に書いた。
保湿・保温効果:本物。手荒れへの効能:確認済み。ただし、香りの引き方と温度の組み合わせが連想を誘発し、接触物を媒介して伝播する。新分類「触媒型」の初例。
一拍おいて、もう一行。
クリームとしては、今冬最も惜しい一品だった。
書いてから、少し考えて、「惜しい」に線を引いた。主観的記述。理事長に言えた義理ではなかった。代わりに「効能は確認されたが運用不能」と書き直した。
ペンを入れた。処理完了。
最強ふわさらマフラー
封印なし。条件付き運用中。使うのは本人。一人で使うこと。二人で包まらないこと。
運用状況:良好。条件違反、初回の一件以降なし。
評価欄に書いた。
防寒具として優秀。条件を守る限り、安全。
それから、報告の補足資料の欄を見た。空欄だった。赤ペン先生が撮ったという現場写真は、結局、台帳には提出されなかった。「私物です」と言われた。あの生徒があそこまできっぱり言うのは珍しいので、それ以上は求めなかった。
ペンを入れた。処理完了。
最強あったかスライム
保温封印、継続中。冷蔵保管庫、施錠管理。点灯式当日も異常なし。色の変動、保管中は一切確認されず。
評価欄に書いた。
冷えている限り、完全に無害。新分類「保温封印」の初例。春以降、保管庫の温度管理を強化すること(夏季の停電に注意)。
「夏季の停電に注意」と書いた自分の字を、たづなさんは少し見つめた。
停電。真夏。冷蔵庫の中で、ゆっくりあたたまっていく水色。
考えるのをやめて、設備課への依頼書を一枚、別に起こした。非常用電源の点検。理由欄には「保管物の性質上」とだけ書いた。
ペンを入れた。処理完了。
最強お花お世話セット
運用中。事故なし。セットそのものは、今冬を通して一度も問題を起こしていない。
遮光カバー、機能良好。観察記録、毎日継続中(記録者:後輩ちゃん。全四十六枚。全部前向き)。
評価欄に書いた。
模範的な管理協力。特記事項なし。
書いてから、観察ファイルの方を開いた。台帳ではなく、観察ファイルの方を。
株数の推移のページ。三輪。芽、七つ。点灯式の夜以降、芽の生育速度が、わずかに上がっている。誤差の範囲かもしれない。冬の土の中で、生育速度が上がる植物は、普通はいない。普通は。
点灯式の夜、カバーが内側から脈打っていた映像は、記録として保存してある。再生は、していない。する必要が生じないことを、願っている。
観察ファイルに、一行書いた。
芽七株:生育良好。リズムへの反応:未確認(確認方法が安全でないため、保留)。
ペンを入れた。処理は——完了ではなく、継続。
最強冬の鍋計画
運用中。提供方式変更後、事故ゼロ。強化期間の終了とともに、提供も終了予定。レシピは食堂に正式採用の打診あり。
評価欄に書いた。
鍋:良品。レシピ:無実。提供条件(蓋は厨房で開ける・湯気を客席に向けない)を守れば、通常メニューとして問題なし。
それから、特記事項の欄の、自分の字を読み返した。
当職でも防御不能であることを確認した。
今読んでも、重い一行だった。でも、書いてよかったと思っている。この一行があったから、点灯式の警備計画で、自分を現場に置かなかった。あの夜、もし中庭に立っていたら、数百の光の呼吸を正面から浴びていたら——台帳を書く者が、また理事長になるところだった。
ペンを入れた。処理完了。
自然発生型・雪像(元雪だるま)
完全融解済み。終了。
評価欄は、すでに書き終えてある。対処不能。自然融解を待った。学園史上初の「待つ」という封印。
追記欄に、一行足した。
融雪水:花壇方向へ流出(既報)。影響:観察中。
書いてから、その一行と、お花のページの「生育良好」を、頭の中で並べた。
並べただけにした。推測を台帳に書いてはいけない。台帳は、事実だけの場所だった。
ただ、観察ファイルの「要注意事項」のページに、こうとだけ書き足した。
来春、開花期の観察体制について、年明けに計画を立てること。
ペンを入れた。処理完了。
最強イルミネーション計画(三組・冬の星空)
点滅プログラム:台帳預かり。記録媒体、封印棚に保管済み。
電飾本体:常時点灯に改修済み。展示継続中。終業式後に各クラス一斉撤去の予定。
評価欄に書いた。
作品:優秀(投票二位)。電飾・配線・施工:すべて規格内、模範的。事故原因は点滅リズムのみ。リズムは物品ではないため、封印対象の定義を「物品」から「物品および記録された手順」に拡張した。
書き終えて、封印棚から、点滅プログラムの記録媒体の保管封筒を取り出した。封の状態を確認する。異常なし。
封筒を裏返したとき、たづなさんの手が、止まった。
封緘のラベルの横に、うっすらと、指紋があった。
たづなさんの指紋ではなかった。たづなさんは、封緘のとき手袋をする。赤ペン先生のものでもない。あの生徒は、この封筒には触れていない。
大きめの、堂々とした指紋だった。
たづなさんは、しばらくその指紋を見た。
封は、破られていない。中身も、無事。閲覧の形跡——いや、閲覧未遂の形跡、と言うべきか。封筒を手に取って、眺めて、おそらく開けようかどうか迷って、戻した。そういう指紋だった。
たづなさんは、新しいラベルに「開封厳禁・閲覧には当職の立ち会いを要する」と書いて、封筒に貼り足した。
それから、内線の受話器を取った。
「理事長。お時間あるとき、管理室までお願いします。……いえ、急ぎではありません。指紋の照合にご協力いただきたいだけです」
受話器の向こうで、何かを倒す音がした。
ペンを入れた。処理完了。容疑者への確認、年内予定。
全部の処理が、終わった。
たづなさんは、台帳を閉じる前に、今冬のページを、最初からゆっくりめくり直した。
触媒型。
保温封印。
複合警戒。
自然発生型。
新しい分類が、四つ。台帳の冒頭にある分類一覧表は、この冬だけで一段と長くなった。二年前、この台帳を使い始めたとき、分類は三つしかなかった。封印、回収、経過観察。それで足りる世界だった。
今は、冷蔵庫の温度と、雪の溶け方と、光のリズムまで、台帳が見ている。
たづなさんは、お茶を一口飲んだ。冷めていた。
最後のページに、ここまでの総括を書いた。
今冬発生事案(終業式まで):七件。
封印:二件。条件付き運用:三件。終了:一件。展示継続:一件。
負傷者:ゼロ。
新分類:四件。
数字だけ見れば、忙しい冬だった。
でも、と、たづなさんは思う。
七件のすべてで、あの生徒は、事前に相談に来た。申請を出した。条件を守った。事故のあとは、現物を差し出し、頭を下げ、赤ペンを受け入れた。雪像にいたっては、本人は何もしていなかった。
二年前は、完成してから見つかっていた。一年前は、作っている途中で見つかっていた。今年は、作る前に、向こうから来る。
それでも事故は起きる。書類の外から、季節の側から、リズムの隙間から。
管理は、永遠に追いつかない。
追いつかないが、追いかける形は、確実に良くなっている。負傷者ゼロというのは、そういうことだった。
たづなさんは、ペンを持ち直して、総括の下に、最後の一行を書いた。
特定管理植物区画、来春の開花数:観察中。
台帳を閉じた。
棚に戻した。
窓の外では、午後の日が、中庭の雪をゆっくり溶かしていた。星空のアーチの骨組みが、白い光を反射していた。花壇の遮光カバーは、静かだった。今は。
カレンダーに、目をやった。
終業式は終わった。でも、冬は終わっていない。
クリスマス。年末。年始。冬休みの寮には、帰省しない生徒が残る。行事があり、自由時間があり、雪が降り、そして——あの生徒も、寮に残る組だった。
「……冬は、まだ半分ですね」
誰に言うでもなく、言った。
台帳の続きのページは、まだたっぷりと白かった。何も書かれない冬休みであることを願いながら、その白さが少し頼りなく見えるのは、二年分の経験のせいだった。
管理室を出て、鍵を閉めた。
廊下の窓から、冬の真ん中の空が見えた。よく晴れて、よく青い、冬の空だった。
あの生徒が「きれいな色」と呼ぶ、あの青だった。