合宿組・ラストスパートの日々
奮起ッ!
無人島から帰ってきた翌日の朝礼に、理事長が来た。
大きな帽子。扇。いつもの姿。だが、その背後に、緑の制服がちらりと見えた。たづなさんが、少し離れた場所で立っていた。
理事長は、ウマ娘たちを見渡した。
「奮起ッ!」
朝の浜辺に、よく通る声が響いた。
「諸君! 無人島演習、お疲れ様だったッ! 諸君の頑張り、私がしかと見届けていたッ! 帰還塔のシルエットに至っては、実に壮観だったッ!」
ざわっ、と空気が揺れた。
「ぁ……」
「あれ知ってんの」
「理事長に見られてたんだ」
「そりゃ合宿地にいるんだから」
「それにしても壮観て」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ耳が下がった。
理事長は続けた。
「さてッ! 合宿もいよいよ大詰めだッ! 最後まで全力を尽くしてくれたまえ! 諸君ならできるッ! ラストスパートッ!」
ぱっと扇を開く。
「今宵は私もともに走ってやろうかッ!!」
「理事長」
担当トレーナーの声が来た。静かな声だった。
「……」
「安全管理上、理事長のメニュー参加は別途調整が必要です。のちほど改めて」
「……天晴ッ。ならば今日は、しかと見守るとしようッ」
理事長は、扇を胸元に収めた。
「以上ッ! 励めッ!」
短く締めた。
ウマ娘たちから、小さな笑いと拍手が起きた。
最強メンタル計画ちゃんは、その拍手を聞いた。
壮観、と言われた。耳は下がったままだったが、どこかに少しだけ温かいものが残った。
朝の浜辺
朝礼が終わって、合宿担当トレーナーが続けた。
「残りの期間はラストスパートになります。メニューの強度を上げます。身体的に無理な場合は必ず申告してください。ただし、今ここにいる全員には、乗り越えられる体力がついています。信じてやってみてください」
波の音がしていた。
誰も何も言わなかった。でも、空気が変わった。合宿が終わりに向かっていることと、まだ本気でやれることが、同時に来た感じがした。
最強メンタル計画ちゃんは、朝の浜辺を走った。
砂が重い。足が沈む。でも、慣れていた。無人島の砂浜で三週間走ったから、これくらいなら分かっていた。
ペースを作る。一定にする。速くない。でも遅くもない。この合宿のどこかで身についた、自分のリズム。
海風が来た。額を冷やした。
「……走れる」
声に出た。
隣を走っていた同室の親友が、ちらりとこちらを見た。
「走れてるね」
「ん」
「無人島の前より、走り方が変わった気がする」
「変わった?」
「迷ってない感じ」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ考えた。
迷っていない。確かに、今は何かを考えながら走っていない。足を出して、息を整えて、前を見て。それだけをしている。
「……走るだけにしてる」
「うん、そうだね」
それだけのことだった。でも、前はそれだけのことが難しかった。走りながら何かを考えていた。走りながら何かを思いついていた。今日は、走りながら走っていた。
終点のコーンが近づいた。越えた。
普通の朝だった。
きつい、午後
昼を越えると、メニューが本格的になった。
丘の急坂を繰り返し上る。スタミナ施設の階段を規定本数こなす。体幹の追加セット。班で連携するドリル。
班の子たちが、少しずつ口数を減らしていく。悲鳴でも泣き言でもなく、ただ、動くことに集中する静けさだった。
「きつい」
「でも、いける」
「いける?」
「いける」
「どっちも本当だな」
最強メンタル計画ちゃんも、きつかった。足が重い。肺が熱い。腕を振るのが億劫になってくる。でも止まると遅れる。班が遅れる。
一歩。
また一歩。
丘の上から、海が見えた。
無人島が、水平線の向こうにあるはずだった。今は見えないけれど。
「もう少し」
同室の親友が言った。
「もう少し」
「ん」
最後の上りを越えた。
班全員で、坂の上に立った。誰も喋らなかった。海を見た。息を整えた。
それだけで、少し、報われた気がした。
赤ペン先生のペース走
夕方のメニューの最後に、個人の自主練時間があった。
同室の親友は、周回コースに入った。
最強メンタル計画ちゃんは、コースの外に立った。
無人島演習のときのことを思い出した。あの日、旗を出しかけて止めた。差し入れを出しかけて止めた。ノートを出しかけて止めた。全部止めた。でも目が大声になった。
今日は、ちゃんとやる。
旗は出さない。差し入れも。ノートも。目も、大声にしない。
ただ、横にいる。
同室の親友が走り始めた。一周目。一定のリズム。ここまでの練習の疲れが残っているはずだけれど、ペースが揺れない。揺れないことが、この人のすごさだった。
最強メンタル計画ちゃんは、少し離れた場所から見た。
目を大声にしない。見守る、のではなく、いる。そこにいる。それだけ。
一周が終わった。二周。三周。
親友が、コースの外に出た。タオルで顔を拭いた。
「……見てた?」
「いた」
「いた、ね」
「目、大声じゃなかった?」
同室の親友は、少しだけ笑った。
「大声じゃなかった」
「よかった」
「うん。よかった」
タオルを肩にかけて、二人は並んだ。
夕方の光が、砂浜に伸びていた。
積み重なる
その日から、メニューが続いた。
朝の浜辺走。丘の坂道。スタミナ施設。体幹。ドリル。また浜辺走。
毎日ではないが、どの日もきつかった。
班の子たちの消耗が、少しずつ見えてきた。
夜、宿舎に帰ってくる足取りが重くなった。ご飯の量は減らないが、食べ終わった後すぐに眠る子が増えた。海の家で休憩する時間に、ベンチや床で動かない子が出始めた。
最強メンタル計画ちゃんは、それを見ていた。
助けたい。
無人島の「休む練習」を思い出した。水を近くに置く。日陰を確保する。タオルを渡す。声をかけすぎない。あれは、できた。でも今回の疲れは、もう少し深いところにある気がした。
水とタオルでは、足りないかもしれない。
「何を考えてる?」
同室の親友が聞いた。夕食後、二人で廊下を歩いていた。
「みんな、疲れてる」
「そうだね」
「助けたい」
「……どうやって?」
「まだ分かんない」
「まだ分かんないなら、今日は寝なさい」
「ん」
そうだった。今日は分からない。分からない日は、寝ればいい。
寝て、また走る。走って、また疲れる。疲れて、また眠る。
合宿というのは、そういうものだった。
「おやすみ」
「おやすみ」
廊下の窓から、海が見えた。
暗くなった海は、昼間と別の顔をしていた。波の音だけが、変わらずに続いていた。