第一被弾
トレーニング帰り
夕方、赤ペン先生は寮の廊下を歩いていた。
坂道メニューが多かった日だった。タオルが重い。脚が張っている。最後の一本で思ったより粘れたのはよかった。ただ疲れた。早くシャワーを浴びたい。荷物を置いて、水を飲んで、できれば少し横になりたい。そう思いながら、部屋の前まで来た。
扉の下から、灯りが漏れていた。
「ただいまー」
扉を開けた。
止まった。
最強メンタル計画ちゃんが、扉のすぐそばに立っていた。
椅子ではなく。机でもなく。窓際でもなく。
扉の近くに、手を前で軽く握って、立っていた。
待っていた。それが分かった。
「おかえり」
声が、いつもより少し明るかった。
「……ただいま」
「今日、遅かった」
「……少しね」
「トレーニング、長かった?」
赤ペン先生は、バッグを肩にかけたまま動かなかった。
おかえり。今日、遅かった。トレーニング、長かった?
三文だった。普段は、「ん」一文字だ。
靴を脱ぎながら、部屋の中を見た。
机の上に、なんちゃって化学セットが出ていた。ビーカー。スポイト。小瓶。安全ゴーグル。空のコップ。開いたノート。
「……何、これ」
「化学セット」
「知ってる。何してた」
「作ってた」
「何を」
「なんでも受け入れる薬。小さいって言われても大丈夫になる。自分だけ飲む。配らない。材料、全部飲んでいいやつ。ちゃんと確認した」
赤ペン先生は、靴を脱いだまま、しばらく動かなかった。
聞かれたから、全部答えた。順番に。隠す様子もなく。淀みもなく。
それが、怖かった。
「……飲んだの?」
「飲んだ」
「いつ」
「さっき」
「どのくらい」
「全部」
「……」
「大丈夫。自分だけだから」
大丈夫。自分だけだから。
赤ペン先生は、その言葉を噛み砕いた。
「ねえ」
「なに」
「なんで、そんなに喋ってるの」
最強メンタル計画ちゃんは、少し首を傾げた。
「喋ってる?」
「普段の三倍は喋ってる」
「そう?」
「そう」
「……分からない」
自覚がなかった。それが一番、怖かった。
ノートを手に取った。ページを開く。
なんでも受け入れる薬
目的:小さいと言われても大丈夫になる
何を言われても、受け入れる
配布なし。自分だけ。大丈夫。たぶん。
「"たぶん"」
赤ペンを探した。バッグの中だった。今は赤ペンより確認が先だ。
「材料は何」
「牛乳。はちみつ。背すじ応援ミルクのメモ。メンタル強化メモ、少し」
「少しはどのくらい」
「少し」
「……そこが問題なんだけど」
「大丈夫」
「大丈夫かどうか、私が判断したい」
「判断して」
「今してる」
最強メンタル計画ちゃんが、横に来た。一緒にノートを覗き込む。顔が近い。
赤ペン先生は、少しだけ体を引いた。
「近い」
「見てた」
「何を」
「ノート。あと」
「あと?」
「……顔」
「見ないで」
「なんで」
「今は見ないで」
「ん」
素直に視線を外した。ためらわずに。
それもいつもと違った。
「怒ってる?」
「困ってる」
「ごめん」
「謝らないで、今それも危ない」
「危ない?」
「危ない」
最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。
「怒ってないなら、よかった」
「困ってるって言った」
「困ってる、でも怒ってない」
「……そうだけど」
「ならいい」
赤ペン先生は、ノートを閉じた。状況の整理が必要だった。たづなさんへ連絡する前に、もう少し確認する必要がある。
「座って。話す」
「一緒に?」
「そう」
「……嬉しい」
「嬉しいのは後にして」
「後に」
「そう」
ふわっとした返事だった。普段なら、「嬉しい」とは言わない。
話しながら、気づいた。
袖を、掴まれていた。
いつからか分からない。気づいたときには掴まれていた。指先だけで、そっと。
「……袖」
「つかんだ」
「なんで」
「いてくれるから」
赤ペン先生は、壁を見た。
いてくれるから。
理由が、まっすぐだった。普段は言わない。そもそも袖を掴む理由を言わない。
「帰ってくるたびに、うれしかった」
「……聞いてない」
「言えなかった。でも、うれしかった」
「……」
「毎回」
「……それは後で」
「後で、言える?」
「薬が切れたら言えなくなると思う」
「そっか」
少しだけ、残念そうにした。
赤ペン先生は、目を閉じた。落ちるな。まだだめだ。まだ状況が全部分かっていない。たづなさんに連絡していない。赤ペンも入れていない。ここで落ちたら終わる。
「名前、呼んでいい?」
動きが止まった。
「……何て呼ぶつもり」
「親友」
机の角を掴んだ。
布石を打たれた、と思った。
「……呼ばないで」
「呼んでいい?」
「今は呼ばないで」
「今は、呼ばない」
「……そう」
「じゃあ」
「じゃあ?」
「遊ぼ」
声が、弾んでいた。普段なら絶対に出てこない軽さだった。
「……何を」
「分からない」
「分からないのに」
「一緒にいたい」
視界が白くなった。
踏みとどまった。踏みとどまった。踏みとどまった、はずだった。
顔が、少し近くなった。
「親友」
そこで、終わった。
赤ペン先生は、床に座り込んだ。
正確には、座り込む途中で意識が一度途切れた。トレーニングバッグが、ぽすん、と床に落ちた。ノートも落ちた。赤ペンは、まだバッグの中だった。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ首を傾げた。声をかけた。返事はなかった。
しゃがみ込んで、顔を見た。苦しそうではなかった。何かを耐えきれなかったような顔だった。
「疲れてた」
トレーニング帰りだった。だから、疲れて寝たのかもしれない。そう思った。
近くのクッションを持ってきて、頭の下に置いた。タオルをかけた。
「お疲れ」
小さく言った。返事はない。
それから、後輩ちゃんに会いたい、と思った。来てくれて、うれしいと、言いたい。
静かに部屋を出た。扉は、少しだけ開いたままになった。
床では、赤ペン先生が、まだ目を覚ましていなかった。