無人島演習プロローグ・出発まで
合宿が始まってから、一週間と少しが過ぎた。
朝の砂浜には、まだ少しだけ夜の涼しさが残っている。波の音がして、遠くで誰かが走る足音がして、宿泊所のほうから朝食の匂いが流れてくる。
最強メンタル計画ちゃんは、練習着の上着を羽織りながら、廊下を歩いていた。
その途中で、少し前を歩いていた別の班のウマ娘たちの声が聞こえた。
「この前のあれ、おいしかったよね」
「あの夕方っぽいやつ?」
「そうそう。私、昨日やっと飲めた」
「前に飲んだ子が言ってたやつ?」
「うん。色きれいだったし、普通においしかった」
「また飲みたいねー」
足が、少しだけ止まった。
耳が、ぴこ、と動く。
同室の親友が横からその顔を見る。
「……嬉しい?」
「ん」
短い返事だった。
けれど、耳はもう一度、小さく揺れた。
商店街で考えた飲み物が、誰かの「おいしかった」になっている。少しずつ、飲みに行った子が増えているらしい。それは大きな事件ではない。掲示板が燃えるような話でもない。ただ、朝の廊下で、通りすがりに聞こえた小さな会話だった。
それで十分だった。
「よかったね」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、ほんの少しだけ頷いた。
そして、次の瞬間。
合宿担当トレーナーの集合の声が響いた。
「本日の朝礼後、二年生以上の一部班に特別メニューの説明があります。該当者は朝食後、浜辺の集合場所へ移動してください」
同室の親友は、そこで足を止めた。
「特別メニュー?」
「ん……」
最強メンタル計画ちゃんの耳が、さっきとは違う角度で立った。
「新しい……?」
「その反応、ちょっと待って」
同室の親友は、早めに言った。
早めに言ったつもりだった。
けれど、親友の視線はもう、集合場所の方へ向いていた。
浜辺の説明会
朝食後。
浜辺の集合場所には、数班分のウマ娘と、それぞれの担当トレーナー、救護担当、合宿スタッフが集まっていた。
その前に、小柄な影が立っている。
大きな帽子。
掲げられた扇。
理事長だった。
「奮起ッ!」
朝の浜辺に、よく通る声が響いた。
「諸君! この夏合宿も、すでに多くの学びと成長に満ちている! そこで本日より、さらに新たな特別演習を行う! 自然を知り、仲間と支え合い、困難な状況でも冷静に判断する力を鍛えるための実践の場である!」
ざわ、と空気が揺れた。
理事長は扇をぱっと開く。
「詳細ッ! 担当トレーナーより説明する! 安全管理をよく聞き、各自、全力で取り組むように!」
短い挨拶だった。
けれど、浜辺の空気は一気に引き締まった。
理事長が一歩下がると、前に立った合宿担当トレーナーが、手元の資料を確認した。
「今日から三週間、特別メニューとして、無人島サバイバル演習を行います」
ざわめきが、今度は言葉になって広がった。
「無人島?」
「サバイバル?」
「え、急に?」
「遭難するやつ?」
「しません」
合宿担当トレーナーの声は、そこだけ少し強かった。
「今回の演習は、あくまで安全管理下で行う教育メニューです。目的は、普段と違う環境でも落ち着いて状況を見て、仲間と相談しながら行動できる力を身につけることです」
トレーナーは、資料を一枚めくった。
「島は合宿地近くの管理区域内にあります。浜辺にはトレーナー、救護班、補給班が常駐します。飲水と食料は支給制です。危険区域には立ち入り禁止表示と確認用センサーがあります。天候悪化時は即撤収。夜間の単独行動は禁止。班行動が原則です」
さらに、島の簡単な地図が掲げられた。
「島内には、いくつかの簡易トレーニング施設とチェックポイントを設置しています。班ごとにルートを確認し、各地点で指定されたトレーニングや判断課題を行い、スタンプを集めてください。いわゆるスタンプラリー形式です」
「スタンプラリー?」
「それはちょっと楽しそう」
「無人島で?」
「無人島で」
「体力トレーニングも入ります。砂浜、坂道、林間コース、バランス系、休息管理、水分管理。遊びではありませんが、楽しみながら鍛えられるように設計しています」
そこで、一人のウマ娘が手を挙げた。
「スタンプ全部集めたら、何があるんですかー?」
合宿担当トレーナーは、少しだけ表情をゆるめた。
「全チェックポイント達成班には、演習終了後にスペシャルニンジンハンバーグの引換券を配布します」
一拍。
浜辺が、揺れた。
「スペシャル?」
「ニンジン?」
「ハンバーグ?」
「引換券!?」
「全チェックポイントって全部だよね!?」
「全部行こう」
「行く」
「絶対行く」
さっきまで「無人島」「サバイバル」という言葉にざわついていた空気が、急に前向きな熱を帯びた。
同室の親友も、思わず笑う。
「分かりやすいねー」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんも、資料の端を見つめる。
スペシャルニンジンハンバーグ。
スタンプ。
全チェックポイント。
メンタル。
フィジカル。
「……全部」
「今の全部は、スタンプの話だよね?」
「ん」
「本当?」
「ん」
「ちょっと信用が薄い」
説明が続くたび、さっきまでのざわめきは少しずつ落ち着いていった。
「なんだ、安全なやつか」
「サバイバル風?」
「水と食べ物出るんだ」
「それはありがたい」
同室の親友も、少しだけ息を吐いた。
「無人島って言うからびっくりしたけど、安全管理はちゃんとしてるんだね」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、資料の文字を見ていた。
無人島。
自然環境。
困難な状況。
冷静な判断。
班行動。
制限された道具。
スタンプラリー。
トレーニング施設。
水分管理。
休息管理。
緊急時対応。
耳が、ぴんと立つ。
「……メンタル」
小さく、声が漏れた。
同室の親友が横を見る。
最強メンタル計画ちゃんの目が、少しだけ輝いていた。
「今、目が光った」
「ん」
「困難な状況でも冷静にいる訓練って聞いたから?」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、資料をもう一度見る。
困難な状況。
冷静。
判断力。
つまり。
「メンタル」
「うん。そうなんだけど、その顔はちょっと待って」
「……新しい環境」
「今、新しいって言った?」
「ん」
「そこは返事しなくていい」
合宿担当トレーナーは、さらに説明を続けた。
「私物のスマートフォン、タブレット、電子機器類は、出発前にすべて預けてもらいます。水没、破損、紛失、充電切れ、位置情報管理の混線を避けるためです」
今度は、別の種類のざわめきが起きた。
「スマホ預けるの?」
「三週間?」
「え、家族への連絡は?」
「緊急連絡は本部経由です」
合宿担当トレーナーが、頷いた。
「班ごとに防水、耐衝撃、長時間バッテリーの非常用GPS携帯を支給します。連絡先は浜辺待機所、担当トレーナー、救護班、緊急本部のみ。位置情報は常時共有されます。私用の通話やメッセージには使えません」
その瞬間、最強メンタル計画ちゃんの動きが止まった。
同室の親友は、その変化にすぐ気づいた。
「……後輩ちゃんと、連絡できないね」
「ん……」
小さな返事だった。
耳が、少し下がる。
合宿中、毎日ではなくても、後輩ちゃんから連絡が来ていた。今日の練習のこと。学園でのこと。先輩が安心して合宿に集中できるように頑張るということ。
その声が、三週間、届かなくなる。
最強メンタル計画ちゃんは、しばらく黙っていた。
「三週間」
「うん」
「帰ったら……話す」
「そうしようね」
同室の親友は、そこまでは優しく頷いた。
けれど、その直後。
最強メンタル計画ちゃんの視線が、配られた資料の別の行に落ちた。
私物電子機器、使用禁止。
自然環境下での判断力。
限られた道具での対応。
耳が、また、少しだけ立つ。
「……アナログで」
「何を?」
「ん」
「今の『ん』は返事じゃない」
同室の親友は、ゆっくりと深呼吸した。
「合宿中のルールを決めます」
「ん」
「まず、非常用携帯は分解しない」
「しない」
「非常用携帯で後輩ちゃんに連絡しようとしない」
「……」
「返事」
「しない」
「浜辺待機所の備品を勝手に改造しない」
「しない」
「テント、ロープ、補給箱、飲水タンク、救護用品、立ち入り禁止札。全部、勝手に改造しない」
「しない」
少しだけ間が空いた。
「……観察は?」
「観察は、触らずに。記録だけ」
「ん」
「あと、何か思いついたら、作る前に言う」
「ん」
「タイトルをつける前に言う」
「……ん」
「今ちょっと嫌そうだったね?」
「なかった」
「あった」
同室の親友は、指を二本立てた。
「とにかく、無人島演習は遊びじゃない。まずは演習。班行動。水分補給。休息。危険区域に入らない。いい?」
「ん」
「何か考えるのは悪いことじゃない。でも、作る前に言う。これは約束」
「うん」
短い返事。
同室の親友は、その返事を聞いて、少しだけ安心した。
少しだけだった。
スマホを預ける
出発前、私物電子機器の回収が行われた。
スマートフォン、タブレット、イヤホン、腕時計型端末。ひとつずつ名前を確認され、専用ケースに入れられていく。
最強メンタル計画ちゃんも、自分のスマートフォンを両手で持っていた。
画面には、最後に届いたメッセージが表示されている。
『先輩! 無人島演習、頑張ってください!』
『三週間連絡できないのは少し寂しいですけど、私も学園で頑張ります!』
『帰ってきたら、たくさんお話聞かせてくださいね!』
文字だけなのに、後輩ちゃんの声が聞こえるようだった。
最強メンタル計画ちゃんは、少し迷ってから、短く打った。
『帰ったら、話す』
送信。
すぐに既読がついた。
『はい!』
『楽しみにしています!』
『先輩、いってらっしゃい!』
耳が、少しだけ揺れた。
それから、スマートフォンの電源を切る。
画面が暗くなった。
「預けます」
スタッフに渡す声は、いつもより少し小さかった。
同室の親友は、隣で自分のスマートフォンを預けながら、最強メンタル計画ちゃんの肩を軽く叩いた。
「三週間、頑張ろうね」
「ん」
「帰ったら、ちゃんと話そう」
「ん」
少し間を置いて。
「後輩ちゃんにも」
「うん」
その返事は、少しだけはっきりしていた。
島へ
出発の時間になった。
参加者たちは、浜辺から小型船に乗り込んでいく。荷物は最低限。私物電子機器はない。代わりに、防水ケースに入った非常用GPS携帯が、班ごとに配られた。
「これは非常用です」
担当トレーナーが念を押す。
「点呼、体調不良、危険区域の報告、緊急連絡のために使います。遊びや雑談には使いません」
「はい」
同室の親友が先に返事をした。
最強メンタル計画ちゃんも続く。
「はい」
返事は真面目だった。
視線は、少しだけ防水ケースに向いていた。
「分解しない」
同室の親友が言う。
「しない」
「観察は?」
「触らずに」
「よし」
船が、ゆっくりと浜辺を離れた。
合宿地の建物が少しずつ遠ざかっていく。代わりに、沖の先にある小さな島が近づいてくる。
島は、思っていたよりも緑が多かった。
浜辺。木々。少し高くなった場所。風で揺れる草。遠くからでも分かる、白い立ち入り禁止表示。
最強メンタル計画ちゃんは、船の縁に手を置いて、その島を見ていた。
耳が、少し緊張している。
けれど、目は離れない。
新しい場所。
知らない環境。
限られた道具。
三週間。
最強メンタルには、まだ遠い。
だから。
「頑張る」
小さく、そう言った。
同室の親友は、その横顔を見た。
心配はある。
とてもある。
けれど、親友が新しいことに向かう時の顔を、止めたいとは思わなかった。
止めるべきところは止める。
危ないところは減らす。
でも、頑張ろうとしているところには、赤丸をつけたい。
「うん」
同室の親友は、少し笑った。
「今から始まるんだね」
「ん」
船は、無人島へ向かって進んでいく。
学園側
一方、その頃。
トレセン学園では、後輩ちゃんが自分のスマートフォンを見つめていた。
最後のメッセージ。
『帰ったら、話す』
それを何度か読み返してから、後輩ちゃんは両手でスマートフォンを胸元に抱いた。
「三週間……」
少しだけ、寂しい。
でも、先輩も頑張っている。
だから、自分も頑張る。
後輩ちゃんは、机の上に置いてあったノートを開いた。
表紙には、丁寧な文字でこう書かれている。
最強引き継ぎ計画
ページをめくる。
白い紙が、待っている。
後輩ちゃんは、ペンを持った。
「先輩が帰ってきたら、ちゃんとお話できるように……」
明るい声だった。
そのまま、最初の一行を書き始める。
ちょうどその時、廊下を通りかかったウマ娘が、ふと足を止めた。
「……ん?」
尻尾が、ざわっとした。
理由は分からない。
風が吹いたわけでもない。誰かに触られたわけでもない。怖い話を聞いたわけでもない。
ただ、尻尾が、勝手にざわっとした。
「え、今なんか、尻尾ざわっとしたんだけど」
隣を歩いていた友人が振り返る。
「何それ」
「分かんない。なんか、こう……始まった感じ?」
「何が?」
「分かんない」
「じゃあ気のせいじゃない?」
「かなぁ」
二人は首をかしげながら、そのまま歩いていった。
嫌な予感。
と言うには、少しだけ気が抜けている。
けれど、何かが始まったような感覚だけは、廊下に薄く残った。
教室の中では、後輩ちゃんが明るい顔でノートに向かっている。
海の向こうでは、船が無人島へ向かっている。
合宿側でも。
学園側でも。
何かが、始まろうとしていた。
トレセン学園スレ
【出発前】スペシャルニンジンハンバーグ引換券、発表される【無人島演習】
レス 1〜50
スペシャルニンジンハンバーグ。
スペシャルニンジンハンバーグ。
スペシャルニンジンハンバーグ。
最初の三レスで目的を見失うな。
いや、全チェックポイント達成で引換券だよ?
全部回るしかないじゃん。
無人島サバイバル演習の目的、覚えてる?
困難な状況でも冷静に判断する力を鍛える。
冷静に判断した結果、スペシャルニンジンハンバーグは必要。
それはそう。
冷静な判断。
冷静な判断って便利な言葉だな。
いやでも普通に楽しそうじゃない?
島内チェックポイント回って、トレーニングして、スタンプ集めるんでしょ?
安全管理済みスタンプラリー。
サバイバル演習で野生に帰るウマ娘、出る?
出ない。
三週間後、浜辺に立つ一人のウマ娘。
風を読み、砂浜を駆け、スペシャルニンジンハンバーグの匂いだけで方角を知る。
野生に帰ってない。
食堂に帰ろうとしてる。
でも無人島サバイバル演習って聞くと、ちょっとそういう気分になるじゃん。
ならないよ。
野生っていうか、合宿でテンション上がってるだけでは。
学生なので。
それはそう。
無人島とは。
浜辺にトレーナー待機。
飲水と食料支給。
非常用GPS携帯あり。
安全管理された無人島。
それはそれでトレセンっぽい。
理事長の「奮起ッ!」から始まったらしい。
大きめイベントだ。
理事長が出てきて、詳細はトレーナー説明。
ちゃんとしてる。
理事長が詳細説明までやると勢いで全部押し切りそうだから。
やめろ。
でも「困難な状況でも冷静に判断する力」って聞いた例の子、反応してた?
してた。
耳が立った。
目も少し光った。
メンタルって言ってた。
でしょうね。
最強メンタル計画ちゃんに「メンタル」という単語を与えるな。
でも演習目的としては正しいんだよ。
困難な状況でも冷静にいる。
つまりメンタル。
本人の理解も正しい。
正しい理解から正しい出力が出るとは限らない。
このスレの基礎。
ちなみにスマホは預けるらしい。
三週間?
三週間。
つまり後輩ちゃんと連絡できない?
合宿側は安全になったのでは?
レス 51〜100
学園側は?
考えるな。
後輩ちゃん、最後に「先輩いってらっしゃい!」って送ったらしい。
かわいい。
平和。
そのあとノート開いてたらしい。
平和撤回。
さっき廊下で急に尻尾ざわっとした子いた。
何その不穏だけど気の抜けた報告。
「今なんか尻尾ざわっとしたんだけど」って言ってた。
嫌な予感が学生ノリで来るな。
でも後輩ちゃんは学園にいるだけでしょ?
その「だけ」が信用できない界隈。
合宿側:無人島演習開始。
学園側:後輩ちゃんノート開始。
二正面作戦、通信遮断版。
通信遮断したのに二正面なの?
心はつながってるから。
いい話みたいに言うな。
とりあえず無人島組、スペシャルニンジンハンバーグ目指して頑張れ。
目的が戻ってきた。
冷静な判断力を鍛えるために。
スペシャルニンジンハンバーグを目指す。
やっぱり目的が戻ってない。
無人島演習、開幕。