無人島第一話・怖くない空
到着
無人島は、ちゃんと無人島だった。
浜辺だけを除けば。
「……人、いますね」
「無人島だよ」
「人、いますけど」
「安全管理済み無人島」
「無人島とは」
浜辺には、トレーナーたちがいた。
飲水タンク。
補給箱。
救護用ケース。
白い日よけ。
ホワイトボード。
そして、スタンプ台。
「スタンプ台!」
「ある!」
「スペシャルニンジンハンバーグへの道!」
「まだ一歩も進んでないよ」
船を降りたウマ娘たちの耳が、あちこちで立った。
無人島サバイバル演習。
困難な状況でも冷静にいるための訓練。
つまり。
「メンタル……!」
最強メンタル計画ちゃんの目が輝いた。
同室の親友は、その横でそっと息を吐く。
「今日は、まずテント」
「テント」
「メンタルは、そのあと」
「テントもメンタル」
「そういう返しが一番怖い」
スマホはすでに預けた。外部との連絡は、非常用GPS携帯の決められた先だけ。つまり、後輩ちゃんとも、しばらく連絡が取れない。
「……後輩ちゃん、大丈夫かな」
「帰ったら話せるから。それより、こっちの方が心配だよ」
「ぉ?」
「なんでもない」
テント設営
最初のスタンプは、拠点設営だった。
説明書を読む。
骨組みを出す。
布を広げる。
ペグを打つ。
ロープを張る。
「よし」
「よし」
「説明書、次」
「次」
ここまでは、驚くほど順調だった。
最強メンタル計画ちゃんは、ちゃんと説明書を読んだ。
勝手に改良しない。
余ったロープを見ても、何かに使おうとしない。
布を見ても、変な顔をしない。
同室の親友は、少しだけ安心した。
少しだけ、である。
「ここを持って」
「持つ」
「まだ固定してないから、引っ張られたら離して」
「離す」
「本当に?」
「本当に」
その時だった。
海の方から、風が来た。
少し強い風だった。
テントの布が、ばさりと鳴った。
「あ」
布がふくらむ。
テントというより、帆だった。
「離して!」
「離し」
言い切る前に、地面が少し遠くなった。
「ぉ」
最強メンタル計画ちゃんが、布ごとふわっと持ち上がった。
高くはない。
長くもない。
けれど、足は砂浜についていなかった。
風がある。
体が揺れる。
下を見る。
地面がある。
届かない。
そして彼女は、絶叫系が苦手だった。
「……きゅう」
空中で、静かに意識が遠くなった。
突風は、すぐに弱まった。
彼女はすぐ隣の砂地に、ぽすん、と落ちた。
「大丈夫!?」
同室の親友が走った。
近くにいたトレーナーも走った。
別の班のウマ娘たちも、耳と尻尾をぴんと立てた。
最強メンタル計画ちゃんは、砂の上に座っていた。
目は開いている。
けれど、しばらく虚空を見ていた。
怪我はない。
布は無事。
テントは無事ではなかった。
「どこ痛い!?」
「痛くない」
「本当に!?」
「うん」
「怖かった?」
最強メンタル計画ちゃんは、少し黙った。
それから、ものすごく小さな声で言った。
「……怖かった」
「うん」
「飛んだ」
「飛んだね」
「空」
「うん」
「負けた」
「何に?」
「空に」
同室の親友は、一瞬だけ表情をゆるめた。
怖いと言えた。
そこは、よかった。
よかったのだが。
「つまり」
「待って」
「怖さを克服する必要が」
「待って」
「メンタルトレーニング」
「今はテントを立て直す時間!」
島の一日
昼になる頃には、島の空気も少しだけ軽くなっていた。
テントは立った。
スタンプも押された。
最強メンタル計画ちゃんの救護確認も終わった。
本人は元気だった。
テントの方が、少し元気ではなかった。
「無人島、思ったより難しいね」
「地図、見てるのに曲がる」
「砂浜走、足が沈む」
「ロープ、結べたと思ったらほどける」
あちこちで、少しずつうまくいかない声が上がる。
それでも、沈んではいなかった。
誰かが水を飲む。
誰かが地図を逆さにして怒られる。
誰かが補給所の前で、スペシャルニンジンハンバーグの引換券を想像して立ち上がる。
そして。
「とったどー!」
川の浅いところで、小さな魚を捕まえたウマ娘がいた。
「早い!」
「順応してる!」
「野生に帰りかけてる!」
「帰ってない! 観察したら放す!」
「えらい野生」
学生らしい笑い声が、林の方まで届いた。
無人島演習は、まだ始まったばかりだった。
その夜のノート
その夜。
班用のテントの中で、同室の親友は見た。
最強メンタル計画ちゃんが、ノートを開いていた。
「何を書いてるの」
「今日の整理」
「テント?」
「テント」
「風?」
「風」
「怖かったやつ?」
「怖かったやつ」
「空に負けたやつ?」
「空」
返事は全部まともだった。
「……何をするつもり?」
「安全な練習」
「安全?」
「怖さを減らす」
「空に再戦する?」
「怖くない空」
「響きでごまかさない」
「落ちるのが怖い」
「それはそう」
「速いのが怖い」
「うん」
「急に動くのが怖い」
「そうだね」
「つまり、落ちなくて、速くなくて、急に動かなければ、怖くない」
「理屈だけなら」
「作るの?」
「ふわふわしたもの」
「……危なくない?」
「危なくない。ゆっくり」
同室の親友は、少しだけ考えた。
ふわふわ。
ゆっくり。
怖さを減らす。
言葉だけなら、危険物の気配は薄かった。
なにより、無人島である。
何もない。
何もないはずだった。
「あとで見せて」
「あとで」
「勝手に試さない」
「試さない」
最強メンタル計画ちゃんは、こくんと頷いた。
同室の親友は、その日、ノートの中身までは見なかった。
赤ペン先生の、ほんの少しの敗北である。
だが、夜はそこで終わらなかった。
隣のテントから、のぞき込む声がした。
「何してるの?」
「空に再戦しようとしてる」
「言い方」
集まってきた数人が、ノートの表紙を見る。
最強メンタル計画ちゃんは、真剣な顔で文字を書いていた。
最強合宿計画 無人島編
怖くない空中移動装置
「空中移動装置って書いたね」
「書いた」
「消そうか」
「なんで?」
「なんでって言われると困るけど、消そうか」
「怖いものを克服する。安全に。怖くないように」
「全部偉い。偉いんだけど、空に行かなくていい」
「でも、空に負けた」
「勝負しなくていい」
「再戦」
「しなくていい」
同室の親友が止めようとしたその時、別のウマ娘が言った。
「今日飛ばされたの、怖かったもんね」
「でも、ふわって飛べたらちょっと楽しそうじゃない?」
高いところ、船での引っ張り、崖——案は次々に却下された。最強メンタル計画ちゃんは、こくこくとうなずく。
「じゃあ、ふわって浮く感じ? 落ちないくらいで、風に乗る?」
「ふわって」
「たんぽぽの綿毛みたいな?」
その言葉に、最強メンタル計画ちゃんの耳がぴくりと動いた。
「たんぽぽ」
「ほら、綿毛ってふわふわ飛ぶじゃん。怖くなさそう」
「……ぉぉ」
最強メンタル計画ちゃんの目が、静かに輝いた。
同室の親友は、反射的に言った。
「待って。たんぽぽの綿毛って、自分で帰ってこないよね?」
だが、その声は少し遅かった。
ノートに新しい文字が書き足される。
たんぽぽ型ふわふわ飛行
「ねえ、帰ってこないよねって聞いてる!」
「ふわふわ」
「怖くない」
二日目・たんぽぽの観察
翌日。
草地区画には、たんぽぽが咲いていた。
「無人島にもたんぽぽあるんだ」
「無人島のたんぽぽ」
「ちょっと強そう」
「吹いて飛ばしていい?」
「今日は観察だけです」
「願い事は?」
「今日は観察だけです」
「厳しい」
トレーナーの声に、軽い笑いが起きる。
その横で、最強メンタル計画ちゃんは白い綿毛を見ていた。
風が吹く。
ひとつ、外れる。
ふわり。
落ちそうで、落ちない。
急がない。
ただ、風に乗って、ゆっくり流れていく。
「……怖くない」
同室の親友の耳が動いた。
「たんぽぽだからね」
「ゆっくり」
「たんぽぽだからね」
「足、つかない」
「たんぽぽだからね」
「でも怖くない」
「たんぽぽだからね」
同室の親友は、同じ言葉を四回言った。
四回言う必要があると思ったからだ。
しかし、最強メンタル計画ちゃんの目は、綿毛を追っていた。
たんぽぽの綿毛。
ふわふわ。
ゆっくり。
怖くない。
ここまでは、観察だった。
ここからが、最強メンタル計画だった。
最強ふわふわメンタル計画
午後の自由観察時間。
草地区画の端で、数人のウマ娘が休んでいた。
トレーナーは少し離れた場所で、別の班の地図を見ている。
同室の親友は、水筒をしまいながら、ふと横を見た。
最強メンタル計画ちゃんが、テントの布を両手で持っていた。
昨日の設営で使ったものより、小さい。
けれど、ちゃんとテントの布だった。
端には、たんぽぽの綿毛みたいな白いボンボンがいくつもついている。
風に揺れて、ふわふわしている。
「それ、何」
「ふわふわ」
「答えになってない」
「最強ふわふわメンタル計画」
「タイトルで不安にさせないで」
見た目は、少し変なテント布だった。
荷物保護用の薄い布に、軽い枝で作った骨組みがついている。
縁には、白いボンボン。
火はない。
機械もない。
そこまでは、夏休みの工作だった。
乗らなければ。
かわいい。
危なくは見えない。
見えないのが、怖い。
「試さないって言ったよね」
「走らない」
「走るかどうかの話じゃない」
「助走なし」
「それはもっと嫌な言い方」
同室の親友は、トレーナーに声をかけた。
「安全確認、しましたよね。高さは出ない想定、ロープ、救助班、風向き、中止基準——全部」
「しました。本人が気絶したら即中止です」
「昨日すでに気絶しました」
「今日は地上から始めます」
トレーナーも、どこか遠い目をしていた。
最強メンタル計画ちゃんは、布の端を持った。
ぱたぱた。
白いボンボンが揺れる。
「かわいい」
誰かが言った。
浜辺に、ゆるい風が吹く。
最強メンタル計画ちゃんが、布の端を大きく持ち上げた。
風が入った。
布が、ばふん、と空気を抱えた。
ふわり、と丸く張った。
「……パラシュート?」
誰かが言った。
言わない方がよかった。
助走はなかった。
勢いもなかった。
崖もない。
船で引っ張られもしない。
ただ、空気をいっぱいに抱えたテント布が、上へ行きたがった。
次の瞬間。
足が、草から離れた。
「……え?」
同室の親友の声が止まる。
最強メンタル計画ちゃんは、ほんの少し浮いていた。
高さは、人の背丈より少し上くらい。
速さは歩くより遅い。
テント布は、頭の上で丸くふくらんでいる。
白いボンボンが、ふわふわ揺れている。
見た目だけなら、大きなたんぽぽの綿毛だった。
問題は、くっついているのが本人だった。
「ぉぉ……」
「怖く……ない」
その声は、少し嬉しそうだった。
同室の親友も、ほんの一瞬だけ安心した。
よかった。
本当に怖くないのかもしれない。
そう思った直後。
風向きが変わった。
ふわふわ。
最強メンタル計画ちゃんの体が、横へ流れる。
「ちょっ」
同室の親友が走り出す。
「戻ってきてない! 海の方に流されてる!」
「ロープは!?」
「ゆるい! 長めにしてたから、長すぎる!」
「戻り方、わからないー」
「帰れないー! 一番大事!」
周りのウマ娘たちは、最初、笑っていた。
「なにあれ、楽しそう」
「ふわふわしてる」
「でもちょっと楽しそう!」
「言うな!」
同室の親友だけが、温度の違う声で追いかけた。
「またやりやがったなこいつぅぅ!」
トレーナーたちも動き出す。
「救助ボート準備!」
「風下確認!」
「本人は落ち着いています!」
「落ち着いてるけど流されています!」
「ロープ確保!」
「無理に引くな、姿勢が崩れる!」
最強メンタル計画ちゃんは、海の上へ少しだけ出た。
といっても、高さは低く、速度も遅い。
危険な落下ではない。
ただ、帰ってこない。
やがて救助ボートが横につき、トレーナーが慎重にロープを回収する。
ふわふわ飛行装置は、風を逃がすように畳まれ、最強メンタル計画ちゃんは無事に回収された。
高くはない。
速くもない。
だから、遠目には本当に楽しそうだった。
同室の親友だけが、全力で浜辺を走っていた。
親友のやる気が、少し下がった。
親友の持久力が、少し上がった。
赤ペン査定
砂浜に戻ってきた最強メンタル計画ちゃんは、真剣な顔で言った。
「成功」
「失敗!」
同室の親友が即答した。
「怖くなかった」
「それは成功かもしれないけど!」
「落ちなかった」
「それも成功かもしれないけど!」
「ゆっくりだった」
「そこも成功かもしれないけど!」
「帰れなかった」
「だから失敗!」
周囲のウマ娘たちは、どこか感心したように装置を見ていた。
「でも、怖くない空ってすごくない?」
「制御できたら、空中散歩みたい」
「合宿のリカバリーに……」
「言うな」
同室の親友が鋭く振り返った。
「誰も続きを言わない」
「はい」
「観光とか言わない」
「はい」
「競技とか言わない」
「はい」
「鳥人間コンテストとか絶対言わない」
「……」
「今、誰か言おうとしたね?」
数人が目を逸らした。
同室の親友は、ポケットから赤ペンを出した。
無人島にも、赤ペンはある。
これが備えである。
「ノート」
「はい」
最強メンタル計画ちゃんは、素直にノートを差し出した。
赤ペン先生は、ページを開いた。
そこには、丸い字で書かれていた。
最強ふわふわメンタル計画
怖くない空
帰れなかった
「タイトルで封鎖」
「まだ一行目」
「一行目から封鎖」
赤ペンが走る。
「降り方は?」
「風が弱くなったら」
「自然現象に任せない」
「止まり方は?」
「救助ボート」
「それは装置じゃない」
「制御は?」
「風を感じる」
「感じるだけ」
「帰り方は?」
「風が戻してくれたら」
「自然現象に任せない」
「どうやって浮いたの?」
「空気を入れた」
「説明になってない」
「はい」
「人が浮いたら危険物」
「はい」
「でも」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ胸を張った。
「怖くなかった」
赤ペン先生は、目を閉じた。
深呼吸した。
もう一度、目を開けた。
「そこは成長」
「はい」
「でも、危険」
「はい」
「ゆっくり飛ぶことと、安全に降りることは別」
「はい」
「風で流されることと、制御できていることも別」
「はい」
「帰れないものは、乗り物ではありません」
「はい」
赤ペンが、最後の一文に大きく線を引いた。
恐怖が減ればメンタルトレーニング成功
「恐怖だけ消しても成功ではありません」
「……」
「怖くない危険物が、一番危ない」
続いて、別の一文にも線が引かれた。
帰れなかった
「ここ、最重要」
「はい」
「出口は出る場所。乗り物は帰れるもの」
「出口?」
「学園側で何かあった気がする」
「ぉ?」
「たぶん気のせい」
最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。
それから、真面目な顔で頷いた。
「たしかに」
「たしかに、じゃない。先に気づいて」
赤ペン先生の赤ペンは、いつもより少し強く輝いていた。
昨夜、ノートを見なかった分だけ。
なお、スタンプは押された。
草地区画観察の欄に。
理由は、全員が風の怖さをよく観察したからである。
報告書
その日の報告書には、短くこう書かれた。
たんぽぽの綿毛構造を参考にした低速浮遊補助具の試験中、被験者が風に流され海上へ移動。救助対応により怪我なし。今後の使用は禁止。
たづなさんがこの報告書を読むのは、少し後のことになる。
余白には、担当トレーナーが追記した。
本件にスピカさんの音声、映像、香料、関連演出は一切含まれない。純粋な自然風および装置設計上の問題である。
その一文が、かえって問題の根深さを示していた。
浜辺待機所
そのころ。
浜辺待機所では、同行していた理事長が報告メモを見ていた。
「……創意ッ!」
目が、少し輝いた。
隣にいたトレーナーが、すぐに言った。
「理事長」
「……」
「帰ったら、たづなさんに報告しますね」
「沈黙ッ!」
理事長は、そっとメモを閉じた。
浜辺待機所は、今日も安全だった。
コテージの夜
夜。
最強メンタル計画ちゃんは、またノートを開いていた。
同室の親友は、その前に座っていた。
「今日は書く前に私に見せて」
「ん」
「何を書くの?」
「反省」
「本当に?」
「本当に」
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに丁寧に書いた。
怖くない空中移動装置 反省
・怖くなかった
・落ちなかった
・速くなかった
・急に動かなかった
・帰れなかった
赤ペン先生は、赤ペンを取り出した。
最後の一文に、ぐるぐると大きな丸をつける。
「ここ。最重要」
「ん」
「帰れないものは、乗り物じゃない」
「ん」
「改良しなくていい」
「でも、帰れれば」
「改良しなくていい」
「怖くない空」
「いい響きみたいに言わない」
「たんぽぽ」
「たんぽぽは帰ってこない」
「……たんぽぽ、すごい」
「尊敬する方向が違う」
窓の外では、無人島の夜風が静かに吹いていた。
その風に乗って、どこかから本物のたんぽぽの綿毛が一つ、ふわりと飛んでいく。
最強メンタル計画ちゃんは、それを見つめた。
「……ふわふわ」
「見ない」
「綺麗」
「見ない」
「怖くない」
「作らない」
同室の親友の声が、夜のテントに響いた。
無人島演習は、まだ始まったばかりだった。