無人島・走る朝と赤ペン先生のペース走
二日目の朝
無人島演習、二日目。
浜辺は昨日より少しだけ落ち着いていた。波の音は同じ。でもウマ娘たちの動きが静かで、テントから出てくる顔にはまだ昨日の疲れが少し残っている。
最強メンタル計画ちゃんは、スタンプ帳を胸に抱えながら砂を踏んだ。昨日の欄には、草地区画観察の印がひとつ。ふわふわ飛行が計上されていないのは、当然といえば当然だった。
隣に並んだ同室の親友が、水筒の蓋を閉めながら言った。
「今日はスタミナ施設まで行くんだってー。その前に浜辺でウォームアップ走があるって」
「走る」
「800メートル。競争じゃないからね。体を起こすだけ」
「競争じゃない。よかった」
最強メンタル計画ちゃんの肩から、少しだけ力が抜けた。タイムを測られるのは、まだ少し苦手だった。でも、走るのは好きだった。砂浜なら、なおさら。
「帰れるね」
同室の親友が、ちらりとこちらを見た。
「帰れる。昨日と違って」
「……昨日は帰れなかった」
「そうだったね」
昨日の布のことを思い出した。空気を抱えて、ふわりと浮いて、海の方に流れていった。怖くなかった。帰れなかった。今日は足元に砂がある。砂は、帰れる。
班のみんなが集まっているところへ向かって、二人は歩き出した。
浜辺の800m
コーンが並んで、距離の看板が立っている。
「タイムは計りません。呼吸を整えることが目的です」
担当トレーナーの声に、班のウマ娘たちがほっとした顔をした。
スタートの合図。砂浜を、班ごとに走り出す。
足が沈む。ぐ、と踏んで、ぬ、と抜く。また沈む。コンクリートとは違うリズム。でも悪くない。海風が額を冷やす。波が崩れる音がする。体の奥が、少しずつほぐれていく感じがした。
視線を前に固定する。終点まで、走る。終点は戻れる場所。
一定のリズム。速くない。遅くもない。一定なら、集中できる。ノートを書くときの指先みたいに。
「……走れる」
終点のラインを越えた。班の子が、ぱちぱちと小さく拍手した。
「おー、速かったかも」
「速くない」
「"かも"くらいは」
「速くない。たぶん」
「"たぶん"」
同室の親友が振り返った。
「禁止」
「速くない」
「……まあ、いいか」
800メートルは演習評価には入らない。でも班の子が「ちゃんと走ってた」と言った。スタンプ帳の余白を、ちらりと見る。がんばった印。公式外。公平じゃない——。
ペンを出しかけて、止めた。
「……公平じゃない」
「ん?」
「なんでもない」
ポケットに手を戻した。がんばった印は、今日は押さない。
スタミナ施設
林の中の細道を進む。スタミナ施設は坂の途中にあった。木製の階段。回数カウンター。スタンプ台。
「班単位。最後まで一緒に」
「一緒に、帰れる」
「うん」
同室の親友が少し笑った。帰れる、という言葉が、昨日より普通の言葉みたいに聞こえた気がした。
班で階段を上がる。呼吸。足。班の子の背中が揺れる。
「きつい」
「まだいける」
「まだいける!」
掛け声が上がるたびに耳がぴこ、と動く。きついのは本当。でも足は止まらない。きついときは、一定でいるのが一番楽だと、もう知っていた。
階段の上。スタンプ台。班全員がゴールを越える。
どん、とスタンプが押された。
スタミナ・持久走 達成
「押された」
「うん」
「ハンバーグ、近い?」
「まだ遠いよ」
「でも近くなった」
「近くなったね」
「……両方、本当」
スタンプ帳を閉じた。ハンバーグは遠い。でも近くなっている。どちらも嘘じゃない。
ストレッチをしながら、同室の親友が言った。
「次は私の個人メニューがあるんだよねー。見ててくれていいよ」
「見る」
「応援とかしなくていいから。見てるだけで」
「見るだけ」
「うん。見てるだけでいい」
ペース走
スタミナ施設の横に、周回コースがあった。コーン。小さな旗。距離の看板。
コースに入る前に、同室の親友がこちらを見た。
「旗、出さないでね」
「出さない」
「差し入れも」
「出さない」
「ノートも」
「開かない」
「——今日だけは、ほんとうに見てるだけでいいから」
少し笑って、走り出した。
最強メンタル計画ちゃんは、コースの外側に立った。旗は出さない。差し入れも。ノートも。声も。何も足さない。ただ見守る。それが静か応援。それが正しい。
同室の親友のフォームが、コーンを回っていく。揺れない。速くない。遅くもない。一定のリズム。このひとが走っているのを、こんなに近くで見たことはなかった。
「……すごい」
声は出なかった。口の中だけで言った。
二周目に入る。呼吸が少し深くなる。でもペースは崩れない。崩れないのがすごい。
助けたい。でも今日は足さない。足さないのが正しい。
旗に手が伸びかけた。止めた。
差し入れの包装に指が触れた。止めた。
ノートの表紙に手が当たった。止めた。
全部、止めた。正しい。
だから、見守る。しっかり。もっとしっかり。見守ることが応援なら、ちゃんと見守らなくてはいけない。
三周目。親友の眉が、わずかに寄る。疲れが来ている。でもペースは崩れない。
最強メンタル計画ちゃんは、コースの縁まで、一歩、前に出た。
声は出さない。でも目は、もっと近く。足元を見る。呼吸を見る。腕の振りを見る。全部、見る。見てる。応援、してる。してるはず。
もう半歩。
もう半歩。
同室の親友が最終コーナーを回って、コースの外に出た。
タオルで額を拭いて、振り返る。
目が合った。
「……」
「……」
三秒。
五秒。
最強メンタル計画ちゃんは、まばたきを忘れていた。
同室の親友は、しばらく何も言わなかった。ただこちらを見ていた。
それから、タオルで顔を隠すように拭いて、言った。
「……ねえ」
「ん」
「近くない?」
「近くない」
「近いよ。だいぶ近いよ」
「静か応援してた」
「声は出てなかったけど」
「出してない。正しい」
「目がすごいことになってたよ」
「見守ってた」
「——見守りって、そんな顔する?」
最強メンタル計画ちゃんは、地面を見た。砂。小石。帰れる地面。
「……声は、出さなかった」
「それはそう」
「旗も、出さなかった」
「それもそう」
「差し入れも、ノートも、全部、止めた」
「それも全部そう。——だから余計にびっくりした」
「びっくり」
「そんなに一生懸命に見てると思わなくて」
同室の親友は、タオルを肩にかけた。どこか困ったような、でも少しだけ笑っているような顔だった。
「声は出してよかったんだよ。お疲れ、くらい」
「でも静か応援って言ったから」
「それと目は別」
「目は」
「怖かった」
「……怖かった」
班の子が、遠くから顔を出した。
「二人とも大丈夫ー?」
「大丈夫」
「大丈夫」
返事が重なった。最強メンタル計画ちゃんは、砂を見たまま小さく言った。
「……お疲れ」
「ありがとう」
同室の親友は、少し笑った。今度は困った顔じゃなかった。
余白とメモ
日陰の休憩エリア。水。タオル。スタンプ帳。
班の子が、隣に腰を下ろした。
「さっき、すごかったよ」
「すごい、じゃない。見てただけ」
「その見てただけが、すごかったって言ってるの」
「圧だった」
「まあ、圧だったけど……旗は出さなかったじゃん。えらいと思うよ」
「えらい、じゃない。正しいと思ったから」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「……そう?」
班の子が笑った。最強メンタル計画ちゃんは黙ってスタンプ帳の余白を見た。
がんばった印は、増えていない。増えないのが、今日の正解。
同室の親友が、演習用のメモ帳を開いていた。
「自分の練習は、自分で記録する」
「記録」
「そういうもの」
最強メンタル計画ちゃんも、ノートを開いた。同室の親友が横から言う。
「書く前に見せて」
「ん」
「今日は何を書くの?」
「応援」
「本当に?」
「本当に」
ペンが動いた。
静か応援 メモ
・声を出さない 正解
・旗を出さない 正解
・差し入れを出さない 正解
・ノートを開かない 正解
・見守る 正解のつもりだった
・目、うるさかった
同室の親友が、ノートを覗き込んだ。
「最後の行」
「要修正」
「そこは合ってる」
「合ってる」
「直す……たぶん」
「"たぶん"」
「禁止」
「直す」
「……まあ、それでいい」
夕方の風が、砂浜の方から来た。スタッフが遠くで補給箱を閉める音がした。二日目の夕方は、まだ終わっていない。