追跡開始
起きた
目が覚めた。
最初に見えたのは、天井だった。次に、床。それから、頬の下にあるクッション。
赤ペン先生は、しばらく動かなかった。体が重い。トレーニング後だからではない。いや、トレーニング後でもある。でも、主な原因は違う。
思い出した。
扉の前で待っていた。三文喋った。全部説明した。袖を掴まれた。帰ってくるたびにうれしかった、と言われた。名前を呼んでいいか、と聞かれた。親友、と言われた。
赤ペン先生は、両手で顔を覆った。
だめだった。あれは、だめだった。何がだめなのかは言葉にするとまた危ない気がした。
ゆっくり体を起こした。頭の下にはクッションが置かれていた。体にはタオルがかかっていた。
「……そういうところ」
小さく言って、また少し意識が遠のきかけた。だめ。起きる。
机を見る。なんちゃって化学セットは少しだけ片づけられていた。コップはない。ビーカーは端に寄せられている。ノートは閉じられている。
部屋の中を見る。ベッド。机。窓際。
いない。
「……いない?」
眠気が一瞬で消えた。
「いない!?」
立ち上がる。少しふらつく。扉を見る。少しだけ開いている。
最悪だった。
まず、ノートを掴んだ。開く。
配布なし。自分だけ。大丈夫。たぶん。
「"たぶん"」
ページを握った。
「禁止」
今すぐ赤ペンを入れたい。でも今は本人だ。
スマホを掴む。たづなさんへ送る。
本人が危険物です。自分用の薬。素直化。部屋から出ました。後輩ちゃんを近づけないでください。
送信。返事を待たず、部屋を飛び出した。
廊下・主人公の視点
*〔この少し前、同じ寮の廊下で〕*
最強メンタル計画ちゃんは、廊下を歩いていた。
後輩ちゃんの部屋はこっちだ。来てくれて、うれしいと言いたい。ただそれだけを思いながら歩いていた。
すれ違う子がいた。「こんにちは」と言った。
その子が、なんか変な顔をして、壁にもたれた。なぜだろう、と思ったが、急いでいるので続けて歩いた。
また別の子とすれ違った。「トレーニング、お疲れ」と言った。
その子も、なんか変な顔をして、立ち止まった。
なんでだろう。
よく分からなかったが、後輩ちゃんのところへ急いだ。
*〔赤ペン先生の視点に戻る〕*
廊下の被害者
寮の廊下は、夕方の光で赤かった。
赤ペン先生は、左右を見た。いない。階段。談話室。廊下の角。どこへ行った。
後輩ちゃん。その可能性が頭に浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。あの状態で後輩ちゃんに会わせてはいけない。絶対に。
走り出した。
その途中で、廊下の壁にもたれるように座り込んでいる子を見つけた。同じクラスの子だった。手には飲みかけのスポーツドリンク。目が閉じかけている。顔は赤い。苦しそうではない。幸せそうだった。
しゃがむ。
「大丈夫?」
「あ、赤ペン先生……」
「何があったの」
「見た」
「何を」
「例の子」
「何をされたの」
「廊下で会っただけ。『こんにちは』って」
「それだけ?」
「それだけ。でも、いつもより声が弾んでて、笑ってて」
クラスメイトは、ぼんやりした顔で少し笑った。
「『トレーニング、お疲れ』って言われて」
「……」
「ギャップが、いい……」
そのまま目を閉じた。意識を手放した。
赤ペン先生は、しばらく動かなかった。
ただ会っただけ。こんにちは。お疲れ。笑顔。それだけで、同じクラスの子が落ちた。普段そこまで近くない子で、これ。後輩ちゃんに見せたら。
「……終わる」
クラスメイトの体勢を確認した。壁にもたれている。呼吸は安定。顔色も悪くない。
近くの子に声をかける。
「保健室に連絡して。いつものやつ。あと、後輩ちゃんを探してる子がいたら止めて」
「いつものやつで通じるの怖いんだけど」
「今は通じて」
「分かった!」
立ち上がって、走る。
たづなさん、動き出す
*〔同じ頃、寮の管理棟では〕*
たづなさんは、スマホの画面を見た。
赤ペン先生からのメッセージ。四行。読んだ。もう一度読んだ。
スマホをポケットにしまった。
確認すること。後輩ちゃんの現在地。理事長の帰宅予定時刻。保健室の空き状況。
動かすこと。後輩ちゃんを課題名目で別室へ誘導。理事長室の鍵を確保。廊下の一本を念のため封鎖。
慌てない。急ぐ。
廊下へ出た。いつもの歩き方で、いつもの顔で、でも少しだけ速く。
*〔赤ペン先生の視点に戻る〕*
一年生寮
後輩ちゃんの部屋は、一年生寮の端にある。廊下を抜け、階段を下り、渡り廊下へ向かう。途中、数人とすれ違った。
「赤ペン先生、急いでる?」
「急いでる」
「何かあった?」
「本人が危険物」
「えっ」
「あとで」
走る。
曲がり角を曲がった。そして、見つけた。
一年生寮の廊下、後輩ちゃんの部屋の前。
最強メンタル計画ちゃんが立っていた。いつもより少し背筋が伸びている。手を前で軽く握っている。顔が、期待で明るい。扉をノックしようとしている。
赤ペン先生は、息を止めた。
「待って!!」
声が廊下に響いた。
最強メンタル計画ちゃんが振り返った。ぱっと笑った。来てくれた、とでも言いたそうな顔だった。
「そこから離れて」
「後輩ちゃんに会う」
「今はだめ」
「言いたいことがある」
「何を」
「来てくれて、うれしいって」
赤ペン先生は、片手で壁をついた。
だめ。後輩ちゃんにそれを言ったら終わる。
扉の向こうで、物音がした。
「……先輩?」
後輩ちゃんの声だった。赤ペン先生の全身が跳ねた。
「出てこないで!」
「赤ペン先生ですか!?」
「出てこないで!」
「先輩、そこにいますか!?」
最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴこ、と動いた。顔が明るくなる。
「後輩ちゃん」
「声を出さない!」
ほとんど飛ぶように前に回った。扉が少し開く。後輩ちゃんが顔を出しかける。最強メンタル計画ちゃんを背中に隠した。
「どうしたんですか?」
「今日はだめ」
「どうしてですか?」
「今日は本当にだめ」
「先輩、いますよね?」
「いない」
「見えてます!」
「見えてないことにして!」
「無理です!」
背中の後ろで、最強メンタル計画ちゃんがもごもご言った。額か鼻先か、とにかく何かが背中に当たっている。
「後輩ちゃん、いる」
「今言わないで」
「会いたい」
「今、それを言わないで!」
後輩ちゃんの耳が立った。
「会いたいって言いました!?」
「聞いてない」
「聞こえました!」
「聞こえてないことにして!」
「無理です!!」
後輩ちゃんが扉をもう少し開けた。最強メンタル計画ちゃんが、背中の後ろから出ようとした。
考えより先に体が動いた。
「ごめん!」
腰のあたりを抱える。持ち上げる。
「わ」
小さく声が上がった。それから、少し嬉しそうに笑った。
「抱えられた」
「喜ばない!」
「高い」
「今だけ!」
小脇に抱えるようにして、廊下を走り出した。緊急搬送。そう、これは緊急搬送。お姫様抱っこではない。緊急搬送。
「赤ペン先生!? 先輩!? 待ってください!!」
後輩ちゃんが廊下へ飛び出してきた。ノートを抱えたまま。
「先輩ーーーー!!」
最強メンタル計画ちゃんが、抱えられたまま後ろを見た。片手を小さく上げる。
「後輩ちゃん、またね」
「またねじゃない!」
「振らない!」
後輩ちゃんも叫んだ。
「待ってくださーーーーい!!」
寮の廊下に、追いかけっこが始まった。
走りながら思った。
これは絶対に最強メンタルトレーニングではない。
でも今まで一番、精神力を使っている。