おいかけっこ
赤ペン先生は、廊下を走っていた。
小脇には、最強メンタル計画ちゃん。後ろからは、後輩ちゃん。
「待ってくださーーーーい!」
「待たない!」
「どうしてですかーーーー!」
「余裕がない!」
「説明してくださいーーーー!」
「だから余裕がないって言ってる!」
抱えられたまま、最強メンタル計画ちゃんが言った。
「速い」
「黙って」
「すごい」
「黙って」
「強い」
「黙ってってば」
「かっこいい」
足が少しもつれた。
言う場合ではない。状況を考えてほしい。でも、この子にそれを言っても今は届かない。
「おろさないで」
「おろさないから黙って」
「おろしたら、後輩ちゃんのところ行く」
「それを利用しないで!!」
「利用してない」
「してる! 無意識でも!」
「……そう?」
「そう!」
最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。
「じゃあ、このまま」
「このままで走るから黙って!」
「ん」
素直に頷いた。
赤ペン先生は、角を曲がった。階段はだめだ。談話室もだめだ。人が多い。後輩ちゃんを撒きたい。でも後輩ちゃんの足が速い。まずい。
廊下に、人が増えていた。
増えている、というより、倒れている。正確には、壁にもたれて座っている。全員、幸せそうだった。顔が赤い子。目が閉じかけている子。ぼんやりと天井を見ている子。
赤ペン先生は走りながら、その横を通り抜けた。
第一波の被害者たちだった。
一人、まだ意識がある子を見つけた。壁に背を預けながら、辛うじて目が開いている。
立ち止まる。しゃがむ。
「まだ意識ある?」
「……ある」
「後輩ちゃんを見なかった?」
「……見た。さっき」
「どっちへ」
「……あっちの廊下。でも」
「でも?」
クラスメイトは、少し遠い目をした。
「小さくてかわいいって、言っちゃって」
「言うなって言ったのに」
「……つい」
「それで」
「えへへって、した」
「…………」
「笑顔で、ありがとうって」
「…………」
「いつもの先輩と全然違くて……」
そこで、思い出し笑いをしながら目を閉じた。意識を手放した。
赤ペン先生は、しばらく動かなかった。
「小さくて」が入っていた。それを受け取った。えへへ、と言った。ありがとう、と言った。
薬が、設計通りに機能していた。最悪の形で。
「立って」
小脇の最強メンタル計画ちゃんに言う。
「降ろす?」
「降ろさない。走るから、ちゃんと掴まってて」
「ん」
走り出した。
廊下の角を曲がったところで、洗濯物を抱えたクラスメイトと鉢合わせた。
赤ペン先生を見て、目を丸くした。抱えられている最強メンタル計画ちゃんを見て、もっと目を丸くした。
「えっ、何、どうしたの」
「緊急事態」
「何の」
「説明すると危ない」
そのとき、最強メンタル計画ちゃんが顔を上げた。
クラスメイトと目が合った。
ぱっと笑った。
クラスメイトが、反射的に言った。
「ちっちゃくて、かわい……」
「言うな!」
赤ペン先生が叫んだ。間に合わなかった。
最強メンタル計画ちゃんは、小脇に抱えられたまま、満面の笑みを向けた。
「えへへ……ありがとう!」
クラスメイトが、洗濯物を抱えたまま固まった。
「……ちっちゃ、くて」
「言うな」
「……ありがとう、って」
「もう言った」
「……笑顔で」
「もう言った!」
クラスメイトは、洗濯物を胸に抱きしめながら、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……よかった」
「よくない!」
「……あの子が、えへへって」
「よくないから!」
クラスメイトは、幸せそうに目を閉じた。洗濯物だけが、きれいに畳まれたまま残った。
赤ペン先生は、走り出しながら叫んだ。
「保健室! 自分で連絡できたらして!」
返事はなかった。もう意識がなかった。
「今の子、大丈夫?」
最強メンタル計画ちゃんが聞いた。
「たぶん大丈夫」
「"たぶん"」
「今それ言わない!」
「禁止?」
「禁止!」
「ん」
赤ペン先生の足が少しもつれた。「ん」が、いつもより少し弾んでいた。
抱えている本人が、全方向に危ない。
「先輩ーーーー!!」
後ろから、後輩ちゃんの声が聞こえた。
近い。
赤ペン先生は、振り返らずに走り続けた。後輩ちゃんは速い。ウマ娘として日々トレーニングしている。対して赤ペン先生は今日の坂道メニューの後、人を抱えながら走っている。
不利だった。
「すみません! 赤ペン先生と、例の先輩を見ませんでしたか!」
後ろから、後輩ちゃんの声。誰かに聞き込んでいる。
「あっちに行ったよ!」
善意の返事が聞こえた。
「ありがとうございます!」
赤ペン先生は、心の中で叫んだ。教えるな。でも、その子は悪くない。
「後輩ちゃん、近い」
「知ってる」
「頑張ってる」
「知ってる!」
「応援する?」
「どっちを!」
最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。
「両方」
「そういう場合じゃない!」
次の角を曲がった。渡り廊下。その先。たづなさんに送ったメッセージへの返信を確認したい。でも走りながらスマホは難しい。
「先輩ーーーー! こっちですね!?」
後輩ちゃんの声が、また近くなった。
速い。本当に速い。
渡り廊下の先で、袋小路に気づいた。一本道だった。
まずい。
曲がれない。戻れない。後ろから後輩ちゃんが来る。
詰まった。
赤ペン先生は、壁に手をついた。
最強メンタル計画ちゃんが、後ろから聞こえてくる足音に耳を向けた。
「後輩ちゃん、来る」
「分かってる」
「会う?」
「会わない」
「でも」
「会わない」
「……会えないの、残念」
赤ペン先生は、一瞬だけ目を閉じた。
残念。この子が、今の声で残念、と言った。だめだ。考えるな。出口を探せ。
スマホが震えた。
画面を見る。
たづなさんからだった。
渡り廊下の突き当たり、右側の扉が開いています。使われていない教室です。後輩ちゃんが通り過ぎるまで待機してください。
赤ペン先生は、顔を上げた。
右側。扉。
あった。
「こっち」
「どこ?」
「かくれんぼ」
最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴこっと動いた。
「かくれんぼ?」
「そう。静かに」
「ん」
扉を開ける。中を確認する。誰もいない。入る。扉を閉める。
暗くなった。夕方の光だけが、窓から差し込んでいる。
廊下から、足音が近づいてきた。
「先輩ーーーー! どこですかーーーー!!」
後輩ちゃんだった。扉の向こう、すぐ近くだった。
最強メンタル計画ちゃんの耳が動いた。
「後輩ちゃん」
「声に出さない」
口を両手で押さえた。素直に。押さえたまま、目だけで嬉しそうにした。
赤ペン先生は、机の角を掴んだ。
耐える。耐える。この場面で落ちたら本当に終わる。
「せんぱーい……?」
後輩ちゃんの声が、少しだけ不安そうになった。
最強メンタル計画ちゃんが、びく、と体を動かした。
「行かない」
赤ペン先生は小声で言った。
「でも」
「行かない」
「不安そう」
「分かってる」
「会ったら、うれしいと思う」
「うれしすぎるから、だめなの」
最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。
「うれしすぎる、と?」
「後輩ちゃんが耐えられない」
「……そっか」
「そう」
「じゃあ、行かない」
赤ペン先生は、膝から力が抜けそうになった。素直に聞いた。助かった。助かったが、素直さそのものが危なかった。
廊下の足音が、少しずつ遠ざかった。
「せんぱーーーい……」
声も遠ざかった。
赤ペン先生は、ようやく息を吐いた。
スマホを出した。返信する。
空き教室に避難。後輩ちゃんは通り過ぎました。
すぐに既読。返信。
後輩ちゃんを別の場所へ誘導します。少し待機してください。
赤ペン先生は、スマホを握りしめた。
救援が来る。それまで耐える。
「たづなさん、来る?」
「来る」
「怒ってる?」
「たぶん」
「"たぶん"」
「今それ言わない」
「禁止?」
「禁止」
「ん」
静かな教室の中、赤ペン先生は椅子に座り込んだ。最強メンタル計画ちゃんは、教室の真ん中に立って、少しだけ首を傾げてこちらを見ていた。
「かくれんぼ」
「そう」
「楽しいね」
赤ペン先生は、額に手を当てた。
「今、その顔はやめて」
「顔?」
「今は、だめ」
「ん」
素直にうなずいた。
赤ペン先生は、天井を見た。
後輩ちゃんを守り切った。今のところは。代わりに自分の精神が削れている。ものすごく。廊下には幸せそうに眠っている子たちが並んでいる。えへへありがとうが炸裂した。追い詰められた。
今まで一番、精神力を使っている日だった。