空き教室のかくれんぼ

後輩ちゃんの足音が、完全に聞こえなくなった。

赤ペン先生は、ようやく扉から離れた。

教室の中は静かだった。使われていない机がいくつか端に寄せられている。黒板には前に使った時の薄いチョーク跡が残っていた。窓から差し込む夕方の光が、床に細く伸びている。

最強メンタル計画ちゃんは、教室の真ん中に立っていた。

「声、出さない」

「ん」

「笑わない」

「……ん」

「目も」

「目も」

最強メンタル計画ちゃんは、目を閉じた。

赤ペン先生は、両手で顔を覆いそうになった。

「それはそれで危ない」

「むずかしい」

「私も難しい」

最強メンタル計画ちゃんは、目を開けた。そして、ほんの少しだけ困った顔をした。

それも危ない。

全部危ない。

赤ペン先生は、深呼吸した。吸う。吐く。

椅子に座った。

座った瞬間、どっと疲れが来た。トレーニング後。第一被弾。緊急搬送。追いかけっこ。後輩ちゃん防衛。クラスメイト二人分の被害。そして、今。

「疲れた?」

最強メンタル計画ちゃんが、横に来た。少しだけ前傾みになって、顔を覗き込む。

「疲れた」

「ごめん」

「謝らないで」

「ごめんは、だめ?」

「今は危ない」

「……今は、危ない」

「そう」

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。

「じゃあ、ありがとう」

赤ペン先生は、椅子の背もたれを掴んだ。

「何に」

「いてくれて」

「……」

「かくれんぼ、してくれて」

「……」

「後輩ちゃん、守ってくれて」

だめだった。

いや、落ちていない。落ちてはいないが、ぎりぎりだった。

赤ペン先生は、深く息を吸った。

「……それは、私が勝手にやってるだけ」

「でも、ありがとう」

「……ん」

返事が小さくなった。自分でも気づいていなかった。

最強メンタル計画ちゃんは、嬉しそうにした。

赤ペン先生は、目をそらした。

スマホが震えた。

たづなさんからだった。

向かいます。後輩ちゃんとは接触させないでください。ルートを送ります。

少し間を置いて、地図と経路が送られてきた。

赤ペン先生は、画面を見た。

助かった。まだ助かっていないが、助かる見通しが立った。

「たづなさん、来てくれる」

「たづなさん」

「そう」

「怒ってる?」

「たぶん」

「"たぶん"」

「今それ言わない」

「禁止?」

「禁止」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは、うなずいた。そして、少しだけ不安そうな顔をした。

「怒られる?」

「怒られると思う」

「……ごめん」

「謝らないで」

「ごめん、何度言ってもだめ?」

「だめ」

「……むずかしい」

「本当に難しい」

赤ペン先生は、息を吐いた。

「とにかく、たづなさんのところまで行こう」

「行く」

「走らない」

「走らない」

「後輩ちゃんを探さない」

「探さない」

「大きな声を出さない」

「出さない」

「笑顔は」

「……」

「今の間だけ」

「……少しだけ」

「少しだけでも危ない」

「笑わない」

「よし」

最強メンタル計画ちゃんは、きゅっと口元を結んだ。

赤ペン先生は、思わず目を閉じた。

「それも危ない」

「……むずかしい」

「うん」

最強メンタル計画ちゃんは、きょとんとした顔になった。それも危なかったが、きゅっとした口元よりはましだった。

「歩くよ」

「ん」

立ち上がった赤ペン先生が廊下を確認しに向かうと、後ろから声がした。

「手、つないでいい?」

動きが止まった。

振り返る。

最強メンタル計画ちゃんは、さして期待していなさそうな顔をしていた。聞いてみた、という感じだった。

「……だめ」

「ん」

返事が早かった。分かっていたのかもしれない。

「その間、だめ」

「ん」

「…………袖なら」

「袖」

「少しだけ」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは、赤ペン先生の袖の端をつまんだ。指先で、ほんの少しだけ。

嬉しそうだった。

赤ペン先生は、前を向いた。

「行くよ」

「ん」

扉を開ける。廊下を確認する。誰もいない。今のうち。

二人は空き教室を出た。

廊下は静かだった。夕方の光が窓から差している。いつもの廊下だった。だが今日は、幸せそうに座り込んでいる子たちが点在していて、いつもの廊下ではなかった。

赤ペン先生は、まっすぐ前を向いて歩いた。

袖の端を、指先でつままれながら。

それだけで、精神力が削られていく。でも、歩く。たづなさんのところへ行く。後輩ちゃんには見せない。それだけを考える。

少し歩いたところで、最強メンタル計画ちゃんが小さく言った。

「袖、ありがとう」

赤ペン先生は、廊下の壁に片手をついた。

「……今は、それを言わない」

「ん」

「本当に言わない」

「ん」

二人は、ゆっくりと理事長室へ向かった。