理事長室の休憩
理事長室までの廊下が、こんなに長いと思ったことはなかった。
赤ペン先生は、袖の端をつままれながら歩いていた。
隣には、最強メンタル計画ちゃん。歩幅はいつもと変わらない。身長も変わらない。服装も、髪も、基本的にはいつもの通り。なのに、違う。隣を歩いているだけで、精神が削れる。
たまにこちらを見る。目が合う。少しだけ嬉しそうにする。
それだけで、一削り。
「歩いてる」
「歩いてるね」
「袖、つまんでる」
「つまんでるだけね」
「落ちない?」
「落ちない」
「よかった」
赤ペン先生は、壁を見た。
壁は安全。壁は笑わない。壁は「よかった」と言わない。
「壁、見てる」
「壁を見てる」
「壁、好き?」
「今は好き」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、納得したようにうなずいた。
その素直さがまた一削り。
理事長室の扉が見えた。赤ペン先生は、ほとんど安堵で膝が抜けそうになった。
扉の前に、たづなさんが立っていた。
「こちらです」
「たづなさん……」
「後輩ちゃんとは接触していませんね?」
「してません。未遂です」
「よく止めました」
「褒めないでください。今、褒められると落ちます」
「では、記録だけにします」
「記録もあとにしてください」
たづなさんは、小さくうなずいた。扉を開ける。
「理事長は外出中です」
赤ペン先生とたづなさんは、目を合わせた。
同じことを思った。いたら、絶対に何か起きていた。絶対に。
口には出さなかった。出さなかったが、かなり強く共有された。
「……助かりました」
「はい」
「本当に」
「はい」
最強メンタル計画ちゃんが首を傾げた。
「理事長、いない?」
「いない」
「会えない?」
「今は会わない」
「会ったら?」
「たぶん大変」
「"たぶん"」
「今それを拾わない」
「禁止?」
「禁止」
「ん」
赤ペン先生は、理事長室のソファーまでなんとか歩いた。
応接スペースに、三人で座った。最強メンタル計画ちゃんはソファーの端。赤ペン先生はその隣ではなく、少しだけ距離を置いた位置。たづなさんは向かい側。
「まず、何を飲みましたか」
「なんでも受け入れる薬」
「材料を」
「牛乳。はちみつ。背すじ応援ミルクのメモ。メンタル強化メモ、少し」
「少しの内容は?」
「……少し」
「そこが一番困りますね」
「ん」
「作った目的は?」
「小さいって言われても、大丈夫になる」
たづなさんの視線が、ほんの少しだけ赤ペン先生へ向いた。赤ペン先生は目をそらした。
「学園祭の件ですか」
「はい」
「可愛いは、いい。小さいが、よくない」
「はい」
たづなさんは、表情を変えなかった。ただ、ほんの少しだけペンを止めた。
「分かりました」
何が分かったのか、赤ペン先生は聞けなかった。
「現在確認されている効果を整理します。感情表現の増加。警戒心の低下。言葉をそのまま受け取る傾向。近しい相手への接近傾向。笑顔・声・仕草による周囲への高負荷反応」
「高負荷反応」
最強メンタル計画ちゃんが繰り返した。
「あなたではなく、周囲に出ています」
「周囲」
「赤ペン先生、クラスメイト、後輩ちゃん未遂」
「未遂」
「未遂で済みました」
赤ペン先生は、深くうなずいた。そこだけは、本当に未遂でよかった。
「後輩ちゃんは?」
「今は別室で待機してもらっています。会いに行く必要はありません」
「……会いたい」
赤ペン先生の肩が跳ねた。
たづなさんは、少しだけ声を柔らかくした。
「会いたい気持ちは否定しません。ただ、今は会いません。薬の効果が完全に切れて、安全確認が終わってから」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、素直にうなずいた。たづなさんは静かに息を吐いた。
「では、少し休みましょう。お茶を用意します」
温かいお茶が来た。小さな皿には、個包装のクッキーが三つ。理事長室に常備されているものらしかった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
最強メンタル計画ちゃんも、両手でカップを持った。ふー、と息を吹きかける。
「お茶、熱い」
「そうだね」
「ふー、した」
「見てた」
「うまくできた?」
「できてた」
「ん」
嬉しそうにした。赤ペン先生は、クッキーを見た。クッキーは安全。クッキーは笑わない。クッキーは「うまくできた?」と聞かない。
「赤ペン先生、大丈夫ですか」
たづなさんに聞かれた。
「大丈夫じゃないです」
「正直でよろしいです」
「褒めないでください」
「分かりました」
最強メンタル計画ちゃんは、クッキーの袋を開けようとして少し苦戦していた。赤ペン先生が手を出しかけた。止まった。今、手伝うと何が返ってくるか分からない。たづなさんが、それを察したように袋を開けた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
クッキーを小さくかじる。
「おいしい」
「よかったです」
「理事長のお菓子?」
「そうですね」
「理事長、いない」
「今は外出中です」
「帰ってくる?」
「まだ帰ってきません」
「よかった?」
「……そうですね」
たづなさんは、ほんの少しだけ目を伏せた。赤ペン先生も同じように目を伏せた。二人とも、同じ想像をした。すぐにやめた。危険すぎた。
お茶を飲んで、クッキーを食べて、しばらくして、最強メンタル計画ちゃんが言った。
「疲れた?」
「……少し」
「たくさん走った」
「走った」
「ずっと抱えてた」
「抱えてた」
「重かった?」
「そこそこ」
「ごめん」
「謝らないで」
「ごめんはだめ?」
「今は危ない」
「じゃあ、ありがとう」
「それも今は」
「どっちもだめ?」
「どっちも今は、だめ」
「むずかしい」
「うん」
赤ペン先生は、カップを両手で持った。お茶が温かかった。それだけが今は安全だった。
しばらくして、また最強メンタル計画ちゃんが言った。
「疲れた?」
「……まだ聞く?」
「聞いてもいい?」
「……いい」
「疲れた?」
赤ペン先生は、少しだけ黙った。
「疲れた」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、嬉しそうでも悲しそうでもない顔で、ただうなずいた。
その顔が、なぜか一番ずるかった。
お茶が半分になった頃から、最強メンタル計画ちゃんのまばたきが遅くなった。
「眠い?」
「……ん」
「少し休む?」
「休む」
赤ペン先生がソファーのクッションを調整しようとすると、最強メンタル計画ちゃんが小さく言った。
「親友」
「なに」
「近く、いい?」
たづなさんが、何も言わずに視線を落とした。
近づけると危ない。近づけないと、それはそれで何かが危ない。本人は眠そうで、薬の効果も弱まっている。変に刺激するより落ち着かせた方がいい。
赤ペン先生は、ゆっくり座り直した。
「隣なら」
「隣」
「それ以上は、なし」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、赤ペン先生の隣に少しだけ寄った。肩が触れそうで、触れないくらい。眠そうに、目を細める。
「今日、いっぱい走った?」
「走った」
「トレーニングも?」
「トレーニングと、あなたを抱えて」
「抱えられた」
「そう」
「高かった」
「忘れて」
「楽しかった」
「忘れて」
「……ん」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ笑った。
赤ペン先生は、天井を見た。
「今の笑顔は本当にやめて」
「眠い」
「眠いなら寝て」
最強メンタル計画ちゃんは、目を閉じかけた。それから、目を開けた。
「ずっといる?」
「……いる」
「起きたら、いる?」
「いる」
「ずっと?」
「薬が切れるまでは」
「薬が切れたら?」
「……いる」
「よかった」
その声が、少し小さくなった。薬の効果が薄れてきている。
最強メンタル計画ちゃんは、もう一度目を閉じかけた。そして、また開けた。
「……ありがとう」
声が、ゆっくりとした。
「いつも、ありがとう。今日も、ありがとう。抱えてくれて、走ってくれて、かくれんぼしてくれて。後輩ちゃんに会わせなかったのは、ちょっと残念だったけど、分かる。怒ってないし、怒れない。だって全部、私のせいだから。薬が、よくなかった。でも、ありがとう。それでも怒らなかった」
たづなさんのペンが、止まった。
「帰ってくるたびに、うれしかった。言えなかったけど、うれしかった。毎回。今日も、ただいまって言ってくれて、うれしかった。怒るけど、いてくれる。止めるけど、見てくれる。そういうの、全部」
赤ペン先生は、カップを机に置いた。手が、少し震えそうだった。
「親友」
「……なに」
「大好き」
最強メンタル計画ちゃんは、ゆっくりと目を閉じた。
そのまま、眠った。
理事長室が、静かになった。
赤ペン先生は、動かなかった。たづなさんも、動かなかった。
数秒。いや、もっと長かったかもしれない。
「……赤ペン先生」
たづなさんが、小さく声をかけた。
「……今のは」
「はい」
「記録しないでください」
「必要です」
「記録があると、私が思い出します」
「それも必要です」
「やめてください」
「必要です」
赤ペン先生は、片手で顔を覆った。
「……ずるい」
「はい」
「認めないでください」
「すみません」
最強メンタル計画ちゃんは、静かに眠っていた。いつもの寝顔だった。
赤ペン先生は、少しだけ息を吐いた。耐えた。耐えたのかどうかは分からない。少なくとも、倒れてはいない。
たづなさんが立ち上がった。棚から毛布を一枚持ってきて、最強メンタル計画ちゃんにかける。それから、もう一枚を赤ペン先生の肩にかけた。
「……私にも?」
「必要そうでしたので」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
理事長室は、少し静かになった。外では、まだ学園の夕方の音がしている。
赤ペン先生は、肩にかかった毛布を指で掴んだ。
その横で、最強メンタル計画ちゃんは眠っている。普段の顔で。「大好き」と言った顔と、まったく同じ顔で。
赤ペン先生は、声に出さずに思った。
戻ったら、絶対に赤を入れる。大きく。太く。絶対に。