本人使用でも危険

先に目を覚ましたのは、赤ペン先生だった。

理事長室のソファー。肩には毛布。隣では、最強メンタル計画ちゃんが静かに眠っていた。たづなさんは応接テーブルの向こうで書類を確認している。ペンの音が、静かに響いていた。

赤ペン先生は、しばらく動かなかった。

思い出す。

部屋に帰った。薬を飲んでいた。袖を掴まれた。親友、と言われた。後輩ちゃんの部屋前。緊急搬送。おいかけっこ。かくれんぼ。ありがとう。大好き。

毛布をぎゅっと掴んだ。

忘れたい。でも、忘れたくない。いや、忘れたい。だめだ。考えるとまた落ちそうになる。

隣で、最強メンタル計画ちゃんが少し動いた。

「……ん」

声が、いつもの低さに戻っていた。短い。落ち着いている。

まばたきをして、天井を見た。それから、横を向いた。目が合った。

「おはよう」

いつもの「おはよう」だった。昨日のあの声じゃない。

赤ペン先生は、肩の力が抜けるのが自分でも分かった。

「おはよう。気分は?」

「眠い」

「他には?」

「お腹、少し空いた」

戻っている。

たづなさんが静かに書類を置いた。

「お二人とも、起きられましたね。いくつか確認させてください。最後に覚えていることは?」

「牛乳を飲んだ」

「その後は?」

赤ペン先生が帰ってきた」

「その後は?」

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。首を傾げる。

「……あまり、ない」

「断片でも構いません」

「おかえり、って言った気がする」

「言ってたよ」

赤ペン先生が言った。

「その後は?」

「……袖?」

「掴んだね。私の袖」

「……ごめん」

「袖はいいんだよ、袖は」

「掴んだ?」

「掴んだ。けっこう強かった」

「袖が?」

「袖じゃない」

「……?」

最強メンタル計画ちゃんは、よく分からない顔をした。

いつもの顔だった。

赤ペン先生は、少しだけ安心した。

「効果中の記憶は断片的ですね」

たづなさんがメモを取った。

「私、何かした?」

最強メンタル計画ちゃんが聞いた。

「したよ」と赤ペン先生が言った。「歩いた。部屋を出た。後輩ちゃんのところへ行こうとした」

最強メンタル計画ちゃんの耳が、少し動いた。

「会えた?」

「会わせるわけないでしょ。廊下で止めた」

「……なぜ」

「危なかったから。あのときのあなたは」

「後輩ちゃんが?」

「後輩ちゃんが危なかったの。あなたに会ってたら」

「……ごめん」

「謝らなくていい。会わせなかったから、何もなかった」

「……ありがとう?」

「なんで疑問形なの」

「ありがとう」

赤ペン先生は、毛布を掴んだ。

普通のありがとうだった。普通のありがとうなのに、今日だけは少し効いた。

「通常状態でも、文脈によって影響あり、と」

たづなさんがメモを取る。

「書かないでください」

「必要です。記録は正確に」

「必要じゃないです」

「必要です」

最強メンタル計画ちゃんは、二人を交互に見た。

「……私、危険だった?」

危険だった」

赤ペン先生が即答した。

「薬が?」

「薬も、あなたも。両方」

「本人使用でも危険、ということです」

たづなさんが言った。

「配布しなければ安全、ではありません。自分だけに使っても、周囲へ影響が出ます。特に、近しい相手ほど」

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。それから、指を折り始めた。

赤ペン先生

「最大被害者です」

赤ペン先生が答えた。

「クラスメイト」

「複数被弾」

「後輩ちゃん」

「未遂。本当に未遂でよかった」

たづなさんも静かにうなずいた。

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけしゅんとした。

いつものしゅんだった。それは、耐えられる。赤ペン先生はそう思った。

たづなさんが席を外した。薬の残りとなんちゃって化学セットを回収するために、寮の部屋へ確認しに行くという。

理事長室には、赤ペン先生と最強メンタル計画ちゃんだけが残った。

「ねえ。私、何を言った?」

「え?」

「薬のとき。何か言った気がする」

「言わない」

「なぜ」

「言わないったら言わない」

「変なこと?」

「変ではない。変ではないから困るんだよ」

「危ないこと?」

「危ない。すごく危ない」

「……」

「怒ってないよ」

「困った?」

「ものすごく困った」

「……ごめん」

「だから謝らなくていいって」

赤ペン先生は、少しだけ横を向いた。

眠る前の言葉を、思い出す。

親友、いつもありがとう。大好き。

薬の効果で作られた言葉。そう思えば、処理できたかもしれない。

でも、違う。薬は、何もないところから言葉を作ったわけではない。普段、言葉にならないものを、そのまま外に出しただけだ。

それが、一番危なかった。

「あのね」

「ん」

「薬は飲まないで。今回のは、特にだめ」

「ん」

「何を言われても受け入れる、って発想自体は分かるよ。小さいって言われるのが嫌だったのも、分かる」

「……ん」

「でも、受け入れると全部出るの。たぶん、普段しまってるものまで」

「しまってる」

「うん」

「……何を?」

「それは言わない」

「言わないことが多い」

「今日は多い日なの」

最強メンタル計画ちゃんは、首を傾げた。

赤ペン先生は、少しだけ笑ってしまった。疲れていたからかもしれない。あるいは、いつもの顔に戻ったのが、単純に安心だったからかもしれない。

「笑った」

「笑ったよ。怒ってないってこと」

「よかった」

赤ペン先生は、一度目を閉じた。

「それは普通のよかった?」

「普通」

「なら大丈夫」

「普通じゃないよかったも、ある?」

「今日あった。覚えてないでしょ」

「覚えてない」

「それでいいんだよ」

たづなさんが戻ってきた。手には回収箱。なんちゃって化学セット、空のコップ、ビーカー、スポイト、安全ゴーグル、小瓶。それから、ノート。

「薬の残りはありませんでした。使用器具は回収します」

「はい」

「ノートは写しを取った後、返却します。ただし、該当ページに赤ペン先生の確認を入れてください」

「入れます」

赤ペン先生が即答した。


その日の夜、寮の部屋に戻った後、ノートが返ってきた。

最強メンタル計画ちゃんは、机の前に座った。赤ペン先生は、赤ペンを持った。

ページを開く。


なんでも受け入れる薬

目的:小さいと言われても大丈夫になる

何を言われても、受け入れる

配布なし。自分だけ。大丈夫。たぶん。


赤線。大きな赤線。さらに下に書く。


本人使用でも危険

近しい人ほど危険

自分だけなら大丈夫、ではない。

薬で受け入れようとしない。


最強メンタル計画ちゃんは、その文字を見ていた。

「自分だけでも、だめ」

「だめ。配布してないとか、関係なかったでしょ、今回」

「……ん」

少し、しゅんとした。

赤ペン先生は、赤ペンを置いた。

「小さいって言われて嫌だったのは、分かった。でも薬に行かない」

「ん」

「牛乳は飲んでいい。飲みすぎないこと」

「ん」

「あと、かわいいは受け取っていいの。小さいは嫌って言っていい」

最強メンタル計画ちゃんが顔を上げた。

「嫌って言っていい?」

「言っていいよ、そのくらい」

「……小さいは、よくない」

「うん」

「可愛いは、いい」

「うん」

「小さくて可愛いは」

「分けてもらおう」

「分ける」

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。

「じゃあ、次から」

「次から?」

「可愛いだけ、くださいって言う」

赤ペン先生は、少しだけ固まった。

それはそれで、相手の心臓に悪そうだった。

「……まあ、薬よりはいいけど」

「ん」

「薬よりは、だいぶいいけど」

「可愛いだけ、ください」

「練習しなくていいから」

「……しない?」

「今はしない」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは、ノートの端に小さく書いた。


可愛いだけ、ください


赤ペン先生は、それを見た。赤線を引くか、少し迷った。迷った末、引かなかった。横に小さく書いた。


使う場面に注意。


「注意する」

「本当に?」

「ん」

「……まあ、今のは大丈夫そう」

部屋は、いつもの部屋に戻っていた。なんちゃって化学セットはない。薬もない。ノートには赤が入った。

赤ペン先生は、椅子にもたれた。

今日のことは、忘れられそうにない。

最強メンタル計画ちゃんは、断片しか覚えていないと言った。

それが少しずるくて。

少しだけ、よかった。