プロローグ・止まった一歩
大きなレースの日だった。
控室の空気は、いつもより少しだけ硬かった。
話し声はある。笑い声もある。靴紐を結ぶ音も、タオルで汗を拭く音も、いつも通りにある。
でも、その全部が、少し遠く聞こえた。
後輩ちゃんは、自分の靴を見ていた。
紐は結べている。きつすぎない。ゆるすぎない。
何度も確認した。確認しすぎて、担当トレーナーに「もう大丈夫」と言われた。
それでも、もう一度見た。
大丈夫。今日は走れる。
そう思う。そう思える。
昔は、そう思えなかった。
歩くことも、走ることも、もう一度できるのか分からなかった時期があった。車いすに座って、トレセン学園の映像を見て、画面の向こうで走る子たちを見ていた時期があった。
それでも、戻ってきた。リハビリをした。歩いた。少し走った。もう一度、走った。メイクデビューを越えた。小さなレースを積み重ねた。
そして、今日。ここにいる。
「大丈夫?」
担当トレーナーの声がした。
「はい!」
いつも通りの返事が出た。少しだけ大きかったかもしれない。
担当トレーナーは、それを聞いて、小さく頷いた。
「緊張は?」
「しています!」
「うん。してていいよ」
「はい!」
「緊張していることを、悪いことにしない。今日のレースに必要な集中に変えていこう」
「はい!」
後輩ちゃんは、もう一度靴を見た。足は動く。走れる。今日は、走る。
パドックを終えて、ゲートへ向かう途中だった。
後輩ちゃんは、観客席の方を見た。
すぐに見つかった。
先輩がいた。隣には赤ペン先生。
先輩は、体全体を使って応援していた。両手が少し上がる。耳も動く。表情はいつもより少しだけ真剣で、でも、どう見ても全力だった。
赤ペン先生が横で何か言っている。たぶん、「応援は小さめ」とか「体全部でいかない」とか、そういうことだと思う。
先輩が少しだけ動きを小さくした。でも、まだ大きい。
後輩ちゃんは、思わず笑った。くすり、と。
その瞬間、胸の奥の硬さが少しだけほどけた。
先輩が見てくれている。赤ペン先生もいる。あの二人が、いつも通りにいる。それだけで、少し息がしやすくなった。
後輩ちゃんは、小さく手を振った。
先輩が、ぴこ、と耳を動かした。赤ペン先生も、片手を上げた。
それで十分だった。
ゲートに入る。
音が近くなる。自分の呼吸。隣の子の息遣い。蹄が地面を少し蹴る音。遠くの歓声。全部が、少しずつひとつにまとまっていく。
後輩ちゃんは、前を見た。
大丈夫。今日は走れる。ここまで来た。
先輩が見ている。赤ペン先生も見ている。担当トレーナーも見ている。でも、走るのは自分だ。
ゲートが開いた。体が前へ出た。
スタートは、悪くなかった。むしろ、良かった。担当トレーナーに言われていた通り、焦りすぎない。前へ行きすぎない。けれど、置いていかれない。
いい位置につける。呼吸は乱れていない。脚も動いている。周囲の流れも見えている。
大丈夫。ちゃんと、レースになっている。
中盤。
後輩ちゃんは、内側から少し外へ出した。前には二人。横に一人。後ろにも、何人かの気配。
位置は悪くない。ペースも悪くない。焦らない。ここで焦ると、最後に使えない。
練習通り。担当トレーナーの声を思い出す。小さなレースで積み重ねてきた感覚がある。
行ける。後輩ちゃんは、そう思った。思えた。
終盤に向かって、空気が変わる。前の二人の動きが少し大きくなる。横の子も、息を変えた。
来る。一斉に仕掛けるタイミング。ここで遅れない。
後輩ちゃんも、足に力を込めた。
ラストスパート。
深く、踏み込む。今までの小さなレースでは届かなかった、もう一段奥。勝負のための一歩。
その一歩に、力を込めようとした。
その瞬間だった。
視界の端に、あの日の地面がよぎった。強く踏み込んだ足。響いた痛み。折れた、という感覚。走れなくなった日。車いす。リハビリ。長い時間。
それは、本当に一瞬だった。一瞬だけ。
でも、レースでは、その一瞬が長かった。
足が、遅れた。ほんの少し、深く踏み込むのをためらった。体が前へ出るより先に、周囲が動いた。
前の二人が伸びる。横の子が抜ける。
後輩ちゃんも、すぐに踏み直した。走った。止まったわけではない。そこで終わったわけでもない。最後まで走った。
でも、あの一瞬は戻らなかった。
ゴール板を過ぎた。息が上がっていた。脚は動いていた。痛みはない。転んでいない。走り切った。
結果は、4着だった。
大きなレースでの4着。決して悪い結果ではない。周りの子たちも、息を切らしながら健闘を称え合っている。勝った子の背中は遠かったけれど、届かない場所ではなかった。
後輩ちゃんは、胸に手を当てた。
悔しい。もちろん悔しい。
でも、それだけではなかった。
勝てなかったことよりも。あの一歩。踏み込もうとした瞬間に、止まった一歩。
乗り越えたと思っていた。もう走れると思っていた。メイクデビューも、小さなレースも越えた。先輩が見てくれている。赤ペン先生も見てくれている。担当トレーナーも、ずっと支えてくれている。
それなのに。
あの一歩だけ、また止まった。
後輩ちゃんは、一瞬だけうつむいた。でも、すぐに顔を上げた。
観客席を見る。先輩と赤ペン先生がいる。
後輩ちゃんは、笑った。手を振った。大きく。ちゃんと。
「4着でした!」
声には出さなかった。でも、そう伝えるように笑った。
観客席で、赤ペン先生が小さく息を吐いた。
「惜しかったね」
隣で、最強メンタル計画ちゃんは、後輩ちゃんを見ていた。ずっと、目で追っていた。レースが終わっても。後輩ちゃんが手を振っても。最強メンタル計画ちゃんは、しばらくそのままだった。
「惜しかったね」
赤ペン先生がもう一度言った。
「ん」
最強メンタル計画ちゃんが頷く。短く。でも、その目はまだ後輩ちゃんを追っている。
赤ペン先生は、少しだけ首を傾げた。
「どうしたの」
「一歩」
「一歩?」
「最後」
最強メンタル計画ちゃんは、後輩ちゃんの方を見たまま言った。
「止まった」
赤ペン先生は、言葉を失った。
レースは、惜しかった。4着は悪くない。最後まで走った。手も振っている。笑っている。
でも、最強メンタル計画ちゃんは、そこを見ていなかった。いや。そこも見ていた。その上で、最後の一歩を見ていた。
「見えてたの?」
「見えた」
「……そっか」
赤ペン先生は、もう一度後輩ちゃんを見た。後輩ちゃんは、まだ笑っていた。ちゃんと笑っている。でも。少しだけ、赤ペン先生にも分かった気がした。
最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。
「止まったけど」
「うん」
「すぐ、走った」
「……うん」
「でも、痛かったと思う」
赤ペン先生は、何も言えなかった。
後輩ちゃんは、観客席へ向かって、もう一度手を振った。最強メンタル計画ちゃんは、その手を見ていた。小さく、もう一度頷いた。