5話・ノートに挟まっていた紙

次のレースが近づいていた。

前回の大きなレースから、何日かが経っていた。一歩練習は続いた。踏めた日があった。踏めなかった日もあった。止まった日もあった。浅い日もあった。深い日もあった。休む日も丸だった。

後輩ちゃんは、その全部を覚えていた。

担当トレーナーが見てくれた。赤ペン先生が並走してくれた。最強メンタル計画ちゃんが見てくれた。ノートには、小さな丸と短い言葉が増えた。

でも。

レースが近づくと、胸の奥がまた少し硬くなった。

練習では踏めた。でも、本番は違う。前回の大きなレースも、途中まではちゃんとできていた。スタートも、中盤も、走り切ることも。それでも、最後の一歩だけ止まった。

今回も、あの一歩が来る。

たぶん。

「"たぶん"は禁止、でしたっけ」

後輩ちゃんは、部屋で一人、小さく呟いた。自分で言って、少し笑った。でも、その笑いはすぐに消えた。

机の上には、明日の準備が並んでいる。靴。タオル。着替え。水筒。担当トレーナーからもらった確認メモ。

そして、鞄の中に入れていた一冊のノート。

最強引き継ぎ計画ノート。


後輩ちゃんはノートを取り出した。両手で持つ。表紙の端が少しだけ擦れている。何度も鞄に入れて、何度も抱えて、何度も開いたからだった。

このノートは、合宿の時にもらった。先輩たちが合宿へ行って、自分はまだ一年生だから行けなかった時。寂しくならないように。一人でも前を向けるように。先輩が、私だけのために書いてくれたノート。

合宿はもう終わった。あの時の役目は、もう果たしたのかもしれない。

でも、私にとって、このノートは終わっていなかった。宝物だった。今も持ち歩いている。不安な時に、抱える。嬉しい時にも、抱える。困った時に、開く。

まだ、開いていないページもある。そこにはきっと、先輩の字がある。危ないこともある。たぶん。でも、先輩の字がある。それだけで、落ち着く。

後輩ちゃんは、ノートを胸に抱いた。

明日。また、あの一歩が来る。

怖い。怖いと、思っている。

でも、それを誰かに言うのは、少し難しかった。担当トレーナーには言える。赤ペン先生にも、たぶん言える。最強メンタル計画ちゃんにも、きっと言える。でも、言葉にするより先に、ノートを開きたかった。

後輩ちゃんは、ゆっくり表紙を開いた。


ページをめくる。見慣れた先輩の字。少し丸くて、短い言葉。合宿の時、自分のために書いてくれた言葉。料理のこと。休むこと。困った時に相談すること。作る前に見せること。

ところどころ、赤ペン先生の赤字もある。赤ペン先生が後から入れたのか、先輩が見せて入れてもらったのか。どちらにしても、二人の気配がある。後輩ちゃんは、それを見るだけで少し安心した。

その時だった。

ページの間から、紙が一枚落ちた。小さな紙だった。折りたたまれている。見覚えはない。

「……?」

後輩ちゃんは、床に落ちた紙を拾った。開く。そこには、最強メンタル計画ちゃんの字があった。


後輩ちゃんへ

怖くても、一歩。

止まっても、また一歩。

見てる。


息が止まった。

短い。とても短い。

でも、それだけで、胸の奥がいっぱいになった。

後輩ちゃんは、もう一度読んだ。

怖くても、一歩。止まっても、また一歩。見てる。

見てる。

先輩は、見てくれている。前回のレースの、あの一歩も。練習で踏めた日も。止まった日も。浅かった日も。深かった日も。休む日も丸だった日も。全部。見てくれていた。

後輩ちゃんは、紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


ふと、紙の裏に赤い文字が見えた。

後輩ちゃんは、ゆっくり裏返した。赤ペン先生の字だった。


装置なし。

薬なし。

自分の足で。

でも、見てる。


後輩ちゃんは、そこで少しだけ笑った。

涙は出なかった。泣くより先に、笑ってしまった。

赤ペン先生らしい。

装置なし。薬なし。自分の足で。でも、見てる。

それは、私が一番欲しかった言葉だったのかもしれない。

先輩が見てくれている。赤ペン先生も見てくれている。でも、走るのは自分。踏み込むのは、自分の足。誰かに引っ張ってもらうのではない。装置に押してもらうのでもない。薬で怖さを消すのでもない。

自分の足で。

でも、一人ではない。

後輩ちゃんは、紙をそっと胸に当てた。

「……はい」

小さく返事をした。部屋には、自分しかいなかった。でも、返事をしたかった。


いつ挟まれたのだろう。

練習の帰り道。ノートを置いた時。先輩が、そっと入れたのかもしれない。赤ペン先生が、それを見て裏に赤を入れたのかもしれない。あるいは、二人で相談して入れてくれたのかもしれない。

どちらでもよかった。

知らない間に。自分がきっと不安な時に開くと、分かっていたみたいに。そこに、あった。

後輩ちゃんは、もう一度表の文字を見た。怖くても、一歩。止まっても、また一歩。見てる。

先輩の字だった。先輩は、ずっと見てくれていた。

それから、裏の文字を見る。装置なし。薬なし。自分の足で。でも、見てる。

後輩ちゃんは、紙を折り直した。ノートの、今いちばん開きやすいページに挟み直す。

明日、持っていく。レース場に。控室に。ゲートの前まで。この紙を持っていく。

後輩ちゃんはノートを閉じた。胸に抱える。さっきまで硬かった胸の奥が、少しだけ温かかった。


後輩ちゃんは靴を見た。

明日、また履く靴。強く踏み込む靴。

怖さは、まだある。きっと明日も、消えていない。

でも。

怖くても、一歩。止まっても、また一歩。

後輩ちゃんは深く息を吸った。吐いた。

ノートを机の上ではなく、枕元に置いた。すぐ手が届く場所。

眠る前に、もう一度だけ紙を見た。その文字を、胸の中に置いた。

「明日」

小さく言う。

「踏みます」

今度は、少しだけ声が強かった。

後輩ちゃんは、部屋の灯りを消した。暗くなった部屋で、ノートだけが枕元にあった。