3話・一歩だけ見てください
午後のトレーニング場は、いつも通りに賑やかだった。走る音。掛け声。芝を蹴る音。それぞれのトレーナーが指示を出す声。そういう全部が混ざり合って、独特の空気を作っている。
その端の方に、短い直線コースが用意されていた。
長い距離ではない。全力で勝ちを競うためのものでもない。最後の数歩だけを確認するための、静かな区間だった。
後輩ちゃんは、そのスタートラインの前に立っていた。
担当トレーナーが横で説明する。
「今日は、最後の一歩だけを確認します」
「はい!」
「全力で走り切る練習ではありません。怖さが出るか、出ないか。それを無理に押さえ込まないこと」
「はい」
「踏めたら、それでいい。踏めなかったら、そこで終わりじゃない」
後輩ちゃんは小さく息を吸った。
「また、一歩」
「そう」
担当トレーナーが頷く。
少し離れた場所に、最強メンタル計画ちゃんと赤ペン先生がいた。最強メンタル計画ちゃんはノートを持っている。赤ペン先生は赤ペンを持っている。その時点で少しだけ不穏な気配がした。
でも、今日は担当トレーナーがいる。床もマットもない。音も鳴らない。光る粉もない。あるのは地面と、ノートと、小さな丸だけだった。
後輩ちゃんは最強メンタル計画ちゃんの方を見た。少しだけ迷ってから、声を出した。
「先輩」
「ん」
「一歩だけ、見てください」
最強メンタル計画ちゃんは、まっすぐ後輩ちゃんを見た。
「見る」
「はい!」
赤ペン先生が横から言った。
「見るだけね」
「見るだけ」
「見すぎない」
「見すぎない」
「応援は?」
「小さめ」
「よし」
後輩ちゃんは、思わず少し笑った。その笑いで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
担当トレーナーが頷く。
「では、一本目。軽く入って、最後だけ少し深く」
「はい」
赤ペン先生がスタートラインの横に立った。
「私は一定のペースで行くから。合わせなくていいよ」
「はい!」
「横にいるだけ」
「横にいてくれるんですね」
「うん」
「ありがとうございます!」
「まだ走る前」
「はい!」
後輩ちゃんは前を向いた。短い距離。軽く入る。最後に、一歩だけ深く。まずは、そこから。
合図が出た。
後輩ちゃんは走り出した。隣に、赤ペン先生の足音がある。速すぎない。遅すぎない。一定のリズム。波みたいに揺れない、安定した音だった。
後輩ちゃんは、そのリズムを横に感じながら前へ進んだ。
最後のラインが近づく。深く踏むところ。一瞬、足が固くなった気がした。でも、昨日の本番ほどではない。怖さはある。あるけれど、まだ浅い怖さだった。
踏む。地面を叩いた。
少しだけ深い一歩。体が前へ出た。止まらなかった。
「今のは、踏めました」
担当トレーナーが手を上げた。
「はい!」
後輩ちゃんは、思わず大きく返事をした。
最強メンタル計画ちゃんが、ノートに小さく丸をつけた。小さい丸。赤ペン先生が横から覗き込む。
「大きくしない」
「小さい丸」
「花丸は?」
「……なし」
「よし」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ耳を動かした。
後輩ちゃんは、その小さな丸を見ていた。たった一つの丸。でも、嬉しかった。
「次は少しだけ深くします」
担当トレーナーが言った。
「無理に成功させようとしないこと。怖さが出たら、それも確認です」
「はい」
後輩ちゃんは頷いた。赤ペン先生が、また横に立つ。
「大丈夫?」
「はい!」
「大丈夫じゃない時は?」
「言います!」
「よし」
最強メンタル計画ちゃんは、少し離れた場所で見ていた。見守り。小さめ。両手を胸の前で握っている。全力で応援したいのを、だいぶ我慢しているのが伝わってきた。
後輩ちゃんは、それを見てまた少し笑った。
合図。走る。赤ペン先生のリズム。短い直線。最後。もう少し深く。足に力を込める。
その瞬間、少しだけ記憶がよぎった。
痛みではない。折れた瞬間そのものでもない。ただ、深く踏む、という感覚に、体が一瞬だけ反応した。
足が止まった。完全には踏み込めなかった。体は前へ出たけれど、深さは浅かった。
後輩ちゃんは、少しだけ唇を結んだ。
「今のは、止まりました」
担当トレーナーが言った。責める声ではなかった。ただ確認する、穏やかな声だった。
「はい」
「でも、走りは止まっていません」
「はい」
「今日は、それでいいです」
最強メンタル計画ちゃんは、ノートを見た。丸はつけない。赤ペン先生が横で言う。
「バツじゃない」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは頷いて、ノートに小さく書いた。
また一歩
後輩ちゃんは、それを見ていた。
バツではない。踏めなかった。でも、また一歩。それだけで、少し息がしやすくなった。
「今日はもう一本だけにしましょう」
担当トレーナーが言った。
「はい!」
「次は、深くしようとしすぎない。さっきより少しだけ前へ出るイメージで」
「はい」
赤ペン先生が後輩ちゃんの横に並ぶ。
「最後の一本」
「はい」
「踏めても、踏めなくても、今日は終わり」
「はい」
「終わったら、ちゃんと休む」
「はい!」
最強メンタル計画ちゃんが、コース脇から小さく言った。
「一歩」
それだけだった。大きな応援ではない。長い励ましでもない。ただ、一歩。
後輩ちゃんは、少しだけ目を細めた。
「はい」
合図。走る。赤ペン先生の足音。地面。呼吸。最後のライン。
怖さはある。まだある。消えていない。でも、踏む。さっきより少しだけ深く。無理に奥まで行かない。それでも、逃げない。
足が地面を叩いた。体が前へ出た。止まらなかった。
「踏めました」
担当トレーナーが言った。
後輩ちゃんは、その場で足を止めた。息を吐いた。
「はい……!」
声が少しだけ震えていた。嬉しさなのか、怖さが抜けたのか、自分でも分からなかった。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに小さな丸をつけた。そして、その横に小さく書いた。
少し深い
赤ペン先生が覗き込む。
「それはいい」
「ん」
「花丸は?」
「……なし」
「えらい」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ満足そうだった。
担当トレーナーが今日の練習を終わらせた。
「今日はここまでです。踏めた一本、止まった一本、少し深く踏めた一本。全部、記録です」
「全部」
「はい。成功だけではありません。止まったことも、今の状態を知るために必要です」
後輩ちゃんは頷いた。
「止まっても」
「また一歩」
担当トレーナーが言う。最強メンタル計画ちゃんも小さく頷く。
「また一歩」
赤ペン先生も言った。
「また一歩」
後輩ちゃんは、三人を見た。担当トレーナー。赤ペン先生。最強メンタル計画ちゃん。
胸の奥が、少し温かくなった。
「はい!」
返事は、自然に出た。
練習後、最強メンタル計画ちゃんがノートを後輩ちゃんに見せた。
後輩ちゃん 一歩
一回目:丸
二回目:また一歩
三回目:丸 少し深い
後輩ちゃんは、じっとそれを見た。丸が二つ。バツはない。踏めなかったところには、また一歩。
「……バツ、ないんですね」
「ない」
「失敗じゃないんですか?」
「止まった」
「はい」
「でも、また」
「……また、一歩」
「ん」
赤ペン先生が横から言った。
「今回は、それでいいと思う」
「はい」
後輩ちゃんは、少しだけ笑った。いつもの大きな笑顔ではない。でも、ちゃんと笑えた。
「先輩、見てくれてありがとうございました」
「見た」
「赤ペン先生も、並走ありがとうございました」
「うん。無理しない範囲でね」
「はい!」
担当トレーナーが遠くから声をかけた。
「クールダウンしますよ」
「はい!」
後輩ちゃんは二人に頭を下げて、担当トレーナーの方へ向かった。その足取りは、少しだけ軽かった。
最強メンタル計画ちゃんは、後輩ちゃんの背中を見ていた。
「一歩」
「うん」
赤ペン先生が答えた。
「今日は、一歩」
「ん」
「変なもの、作らなくてよかったね」
「……ん」
「今の間」
「……少しだけ、床」
「作らない」
「ん」
赤ペン先生は赤ペンを持ち直した。いつものように。後輩ちゃんは遠くで、それをちらりと見た。少しだけ、笑っていた。