1話・笑顔の報告と開けないノート

レースが終わった。

ゴール板を過ぎてから、後輩ちゃんはしばらくペースを落とせなかった。体が走ることしか知らないみたいに、足が動き続けた。息が上がっている。脚が熱い。胸の奥で、心臓の音がうるさかった。

それでも、ターフから戻る通路を歩く頃には、少しだけ落ち着いてきた。

担当トレーナーが近づいてくる足音が聞こえた。

「お疲れ様」

「はい!」

返事はちゃんと出た。

「最後まで、よく走りました」

「ありがとうございます!」

笑えた。作った笑顔ではなく、体の奥から出てきた笑顔だった。

大きなレースで4着。

悔しくないわけがない。でも、それだけではなかった。走り切った。大きな舞台で、今の自分の力を出した。入着まであと少しだった。次へつながる結果だった。そう思える。

そう思えている。それだけで、今日は少し誇らしかった。

担当トレーナーは、後輩ちゃんの顔を静かに見ていた。

「少し落ち着いてから話しましょう。まずはクールダウンです」

「はい!」

後輩ちゃんは、もう一度笑った。


クールダウンを終えて、関係者用の通路へ戻ったとき、後輩ちゃんはすぐに二人を見つけた。

最強メンタル計画ちゃん。

赤ペン先生

二人とも待っていた。先輩はじっとこちらを見ていた。赤ペン先生は、その横で少しだけ手を振った。

後輩ちゃんは駆け寄りそうになって、一度だけ足を止めた。廊下。人がいる。レース後。走らない。歩く。それでも、尻尾は止まらなかった。

「先輩! 赤ペン先生!」

「ん」

「お疲れ様」

赤ペン先生が言った。

「4着でした!」

「うん。惜しかったね」

「はい! でも、最後まで走れました!」

「それは本当にすごいと思う」

「ありがとうございます!」

後輩ちゃんは、胸を張った。胸を張れた。嘘ではない。最後まで走った。大きなレースで4着だった。それは、胸を張っていい結果だ。

赤ペン先生が、少し柔らかい顔で続けた。

「スタート、良かったね」

「はい! 担当トレーナーさんにも褒めてもらえました!」

「中盤の位置取りも落ち着いてた」

「はい! そこは練習通りに行けたと思います!」

「本当にいいレースだったよ」

後輩ちゃんは目を細めた。

「ありがとうございます!」

それから、先輩を見た。先輩は、まだじっとこちらを見ていた。

「先輩?」

「ん」

「どうでしたか?」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ間を置いた。

「走ってた」

「はい!」

「最後まで」

「はい!」

「4着」

「はい!」

そこで少し黙った。後輩ちゃんは、笑ったまま待った。

「……すごかった」

短い言葉だった。でも、私の胸にまっすぐ届いた。

「ありがとうございます!」

大きな声で言えた。ちゃんと笑って言えた。

最強メンタル計画ちゃんは小さく頷いた。それ以上、何も言わなかった。

その「言わなかった」部分が、少しだけ気になった。気になったけれど、今は聞かなかった。


少し離れた場所で、担当トレーナーが三人のやり取りを見ていた。赤ペン先生が気づいて、軽く会釈する。担当トレーナーも返した。

「ご挨拶してきてもいいですか?」と後輩ちゃんが聞くと、担当トレーナーは「少しだけ。あとで振り返りをします」と頷いた。

「はい!」

後輩ちゃんはまた二人の方を向いた。

「このあと、担当トレーナーさんと反省会です!」

「反省会」

最強メンタル計画ちゃんが言った。

「はい! 良かったところと、直すところを確認します!」

「ん」

「次、頑張ります!」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは頷いた。

後輩ちゃんは、少しだけ胸の奥を押さえたくなった。次、頑張る。いつもの言葉だった。でも今は、少しだけ重かった。

最後の一歩。あの一瞬。次は、踏めるだろうか。

「後輩ちゃん」

最強メンタル計画ちゃんの声がした。

「はい!」

「……今日は、休む」

後輩ちゃんは目を丸くした。

「食べる」

「はい!」

「寝る」

「はい!」

赤ペン先生が横から言った。

「すごく正しいこと言ってる」

「正しい」

「今日はそれでいいよ。反省会して、ご飯食べて、ちゃんと寝る。それだけ」

「はい!」

後輩ちゃんは笑った。さっきまで胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなった気がした。


担当トレーナーに呼ばれて、後輩ちゃんは二人に深く頭を下げた。

「先輩、赤ペン先生、応援ありがとうございました!」

「ん」

「また話そうね」

「はい!」

後輩ちゃんは二人から離れた。担当トレーナーの元へ向かいながら、一度だけ振り返る。

先輩は、まだこちらを見ていた。赤ペン先生が何か言っている。先輩が小さく頷いた。

何を話しているのかは分からない。でも、二人がそこにいる。それだけで、今はよかった。

後輩ちゃんは、もう一度笑って、前を向いた。


反省会

担当トレーナーとの振り返りは、静かに進んだ。

良かったところ。スタート。中盤の位置取り。焦らなかったこと。最後まで走り切ったこと。

次に直すところ。仕掛けのタイミング。終盤の踏み込み。

その話題になったとき、担当トレーナーは少しだけ言葉を選んだ。

「最後、少し遅れました」

「……はい」

「体力切れではありませんね」

「はい」

「脚も、痛くはなかった?」

「はい。痛くはなかったです」

「では、何がありましたか」

後輩ちゃんは少し黙った。膝の上で、手を握る。

「……思い出しました」

「何を?」

「昔のことです」

担当トレーナーは、急かさずに頷いた。

「強く踏み込んだ時のことを」

「うん」

「折れた時のことを」

声は震えていなかった。でも、少しだけ小さくなっていた。

「……もう大丈夫だと思ってました。走れるようになりました。メイクデビューもできました。小さなレースも走れました。でも、今日の最後の一歩は、少し違いました」

「うん」

「深かったです」

担当トレーナーは、静かに頷いた。

「そうだね。今日の最後の一歩は、今までより深かった。だから、昔のことが出た」

「……はい」

「でも、止まったままではなかった。あなたはすぐに走り直した。最後まで走った。4着だった」

後輩ちゃんが顔を上げる。

「それは、忘れないで」

「……はい」

「今日はそこまで。詳しくは明日以降にしましょう」

「はい!」

「今日は休む」

「先輩にも言われました!」

担当トレーナーが、少しだけ笑った。

「なら、二重に正しいね」

「はい!」

後輩ちゃんは笑った。笑えた。でも、胸の奥にはまだ、あの一歩が残っていた。


部屋

夜。

寮の部屋に戻って、着替えて、シャワーを浴びて、ご飯も食べた。担当トレーナーにも、先輩にも、赤ペン先生にも、ちゃんと休むように言われた。だから休む。そのはずだった。

机の前に座って、鞄からノートを取り出した。

最強引き継ぎ計画ノート。

合宿に行けなかった時、先輩がくれたノート。寂しくならないように。一人でも前を向けるように。先輩が、自分のためだけに書いてくれたもの。

合宿は終わった。このノートの最初の役目は、もう果たされたのかもしれない。でも、私にとっては、まだ終わっていない。

不安な時に、抱える。嬉しい時にも、抱える。困った時に、開く。まだ開いていないページもある。そこにはきっと、先輩の字がある。

後輩ちゃんは、ノートを胸に抱えた。

レースの結果。4着。悪くない。最後まで走った。褒めてもらえた。

でも。

あの一歩。深く踏み込もうとした瞬間、止まった。

後輩ちゃんは、ノートを開こうとした。指をかける。

でも、開けなかった。

開いたら、何かを書かなければならない気がした。でも、何を書けばいいか分からなかった。先輩に報告すること、赤ペン先生に言うこと、担当トレーナーに言われたこと、たくさんある。

なのに、一番書きたいことだけが、うまく文字にならない。

後輩ちゃんは、ノートを閉じたまま、もう一度胸に抱えた。

「……次は」

小さく言った。次は頑張る。いつもの言葉。でも、その先が出てこなかった。

次は。あの一歩を。

後輩ちゃんはノートを抱えたまま、目を閉じた。窓の外に、星がいくつか見えた。

眠るには、まだ少しだけ時間がかかった。