最強メンタル計画V1(切り抜きASMR事件)


── カチ、カチと ──

カチ、カチ、と。

静かな部屋に、マウスを押す音だけが響いていた。

トレセン学園の学生寮。

その一室。

夕暮れにはまだ少し早い時間帯の部屋は、薄い日差しがカーテン越しに差し込んでいるだけで、妙に静かだった。

普段なら同室のウマ娘がいて、くだらない話をしたり、次のレースのことを話したり、洗濯物を畳みながら愚痴をこぼしたりする時間帯だ。

けれど、今この部屋にいるのは一人だけ。

机に向かう一人のウマ娘は、真剣そのものの表情でパソコン画面を見つめていた。

画面に表示されているのは、音声編集ソフト。

横に伸びる波形。

いくつも並べられた音声トラック。

細かく切り分けられた音声データ。

そして机の脇には、一冊のノートが開かれている。

表紙には、力強い文字でこう書かれていた。

最強メンタル計画 V1

彼女はペンを取り、ノートの続きを書き込む。

目的。
レース前、配信前、注目された場面、強敵との対決など、あらゆる緊張状態においても動揺しない精神を獲得する。

そこまで書いて、彼女は一度ペンを止めた。

そして、真面目な顔で頷く。

「……必要。これは絶対に必要」

彼女は決してふざけていたわけではなかった。

むしろ本人は、いたって真剣だった。


── スピカさんの声があれば ──

レースで勝つためには、脚力だけでは足りない。

スタミナだけでも足りない。

作戦だけでも、根性だけでも足りない。

最後に必要になるのは、心。

どれだけ周囲が騒いでも。

どれだけ期待されても。

どれだけ不安になっても。

自分の走りを貫ける心。

それこそが、強いウマ娘に必要なものだ。

彼女はそう考えていた。

そして、最近の自分には、それが足りないとも思っていた。

ゲートに入る前、心臓がうるさい。

隣の子の気配が気になる。

観客席のざわめきが耳に残る。

自分より人気のある子の名前が呼ばれるたびに、胸が少しだけ沈む。

もちろん、そんなことを表に出すつもりはない。

でも、心の奥ではわかっている。

自分は、まだ弱い。

だから鍛えなければならない。

そう思った時、彼女の頭に浮かんだのが――スピカさんだった。

配信の中で、スピカさんはよくウマ娘について語る。

走る姿が好きだと。

夢を追いかける姿が綺麗だと。

勝った子だけではなく、最後まで走った子にも意味があると。

諦めずにゴールしたことは、絶対に無駄じゃないと。

それらの言葉は、不思議なくらい胸に残った。

苦しい練習の後。

思うようにタイムが出なかった日。

レースで負けて、布団をかぶってもなかなか眠れなかった夜。

スピカさんの声を聞くと、少しだけ息がしやすくなった。

明日も走ろうと思えた。

ならば。

その声を、いつでも聞けるようにしておけばいいのではないか。

レース前にも。

緊張した時にも。

心が折れそうになった時にも。

スピカさんの言葉を聞いて、それでも動揺しないようになれば、自分のメンタルは強くなるのではないか。

発想としては、決して間違っていない。

少なくとも、彼女本人はそう信じていた。

「スピカさんの声を聞いても、動揺しない精神……それを手に入れれば、私は一段階上に行ける」

彼女は真顔で言った。

真顔で言ってしまった。

その時点で、すでに方向を間違え始めていることには、まだ気づいていなかった。

ひとつ、見えていなかったことがある。

スピカさんの声を聞けば「息がしやすくなる」と感じているうちに、スピカさんの声なしには落ち着けない状態に近づいていたこと。

治療が依存になりかけていること。

彼女は、それに気づいていなかった。

本当に気づいていなかった。

彼女は画面に視線を戻す。


── 三パターン、必要 ──

編集ソフトには、いくつもの音声素材が取り込まれていた。

スピカさんの過去配信。

レース後のコメント。

ウマ娘について語った雑談回。

歌の前後に入った短い言葉。

配信終わりの挨拶。

そのすべてから、彼女は必要な部分だけを切り出している。

『大丈夫です』

短い一言。

『君が頑張っていることは、ちゃんと意味があります』

少し長い励まし。

『最後まで走ったこと、僕はすごいと思います』

レースで負けたウマ娘について語っていた時の言葉。

『ウマ娘が夢を追いかける姿が、僕は本当に好きです』

配信の中で、何気なく、けれど熱を込めて言った言葉。

彼女はそれらを丁寧に並べていく。

ただ切って貼るだけではない。

声の大きさを整える。

余計なノイズを消す。

間を調整する。

左右の耳に少しだけ振り分ける。

近くで話しているように聞こえるよう、音の距離感をいじる。

本人としては、集中しやすくするための工夫だった。

けれど、結果として出来上がりつつあるものは、どう考えても普通の励まし音声ではなかった。

耳元で。

優しく。

逃げ場のない距離で。

スピカさんが語りかけてくる。

そんな危険物である。

彼女は気づいていない。

「ここは、もう少し柔らかく……」

音量を下げる。

「こっちは、少し近めに……」

距離感を詰める。

「この『好きです』は、重要だから三パターン欲しい……」

さらに危険な判断をする。

画面上で、短く切り出された音声ファイルが複製される。

『好きです』

『好きです』

『好きです』

彼女は腕を組み、真剣に聞き比べた。

「通常版。少し柔らかい版。囁き寄り版……うん。状況別に必要」

必要ではなかった。

少なくとも、今この瞬間、世界で一番必要ではない判断だった。

しかし彼女は止まらない。

ノートに次の項目を書き込む。

レベル別実装計画。
LV1:通常音声
LV2:励まし音声
LV3:近距離想定
LV4:囁き想定
LV5:複合ループ
備考:ループ再生により長時間の耐久訓練が可能。

数時間後。

画面の中には、五つのファイルが並んでいた。

mental_training_v1_normal.wav

mental_training_v1_soft.wav

mental_training_v1_whisper.wav

mental_training_v1_hard.wav

mental_training_v1_extra_hard.wav

彼女は完成したファイルを眺め、小さく頷いた。

「……いいと思う」

本人の評価だった。

完全に当てにならない。


── 実験、開始 ──

どんな薬も、まず自分で試すべきだ。

彼女はそう思っていた。

それが大原則だった。

ヘッドホンをつける。

再生ボタンを押す。

姿勢を正す。

目を閉じる。

最強メンタル計画、V1。

実験開始。

……最初の数秒は、問題なかった。

スピカさんの声は、いつものように柔らかかった。

配信で聞いていた時と変わらない。

それは知っているスピカさんの声だった。

だから、大丈夫だと思った。

そして。

『大丈夫です』

耳の真横で、スピカさんが言った。

ウマ娘の耳は、いい。

特に、好きな人の声に対しては。

この距離で、この音量で、この柔らかさで言われると。

「あっ」

彼女は小さく声を上げた。

耳がぴんと立つ。

尻尾がぱたんと揺れる。

次の声が来る前に、呼吸が一瞬詰まった。

それでも、まだ耐えられた。

いや。

「耐える」という言葉が既に正しくない。

胸のあたりが温かくなって、少しだけ力が抜けていた。

「……大丈夫、まだ平気」

呟く。

信じたいだけだった。

次の声が来た。

『頑張っていることは、ちゃんと意味があります』

「ん……」

その一言で、練習中に思い通りにならなかった日のことが思い浮かんだ。

なぜそうなるのか、自分でもわからなかった。

ただ、不意打ちのように。

肩の力が、ふっと抜けた。

次の声が来た。

『最後まで走ったこと、僕はすごいと思います』

「……はい」

返事をしてしまった。

誰もいない部屋で。

録音された音声に向かって。

訓練としては、すでに失敗していた。

そして、次の声が来た。

『ウマ娘が好きです』

耳が熱くなった。

そして。

しばらく、何も覚えていない。

気づいた時には、椅子の上でぐったりしていた。

体に力が入らない。

何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

「私は……」

思い出す。

最強メンタル計画。

試聴。

スピカさんの声。

近距離。

好きです。

「……負けた?」

ぼんやりと呟く。

その直後。

ヘッドホンの中で、再び声がした。

『大丈夫です』

「ひゃっ」

彼女は椅子の上で跳ねた。

そうだ。

ループ再生。

途中で止めなければ、音声は繰り返される。

つまり、気絶しても終わらない。

目覚めた瞬間、また最初から始まる。

なんという隙のない設計。

作った本人ですら、思わず感心しかけた。

「いや、感心してる場合じゃ……」

『頑張っていることは、ちゃんと意味があります』

「うう……」

再び耳が動く。

尻尾が揺れる。

彼女はヘッドホンを外そうとした。

だが、手が止まる。

ここで外したら、負けではないか。

いや、すでに一度気絶しているので負けている。

だが、まだ完全敗北ではないのではないか。

意味のわからない理屈が、彼女の中で組み上がる。

「次は……耐える……」

耐えなくていい。

誰もそんなことを求めていない。

けれど彼女は、再び姿勢を正した。

音声は進む。

『最後まで走ったこと、僕はすごいと思います』

「んん……」

『君は、ちゃんと走っています』

「はい……」

『僕は、ウマ娘が好きです』

「はい……!」

返事をしてしまった。

もう訓練としては完全に失敗している。

それでも本人は、まだ何かに勝とうとしていた。

そして、次の囁き寄りの声。

『好きです』

再び意識が飛んだ。

静かな部屋に、音声だけが流れ続ける。

椅子の上で幸せそうに気絶しているウマ娘。

ヘッドホンから漏れる、ほんの微かなスピカさんの声。

画面には再生中の表示。

ノートには、真面目すぎる計画名。

それからしばらく、部屋には奇妙な平和が訪れた。

気絶する。

目覚める。

耐えようとする。

失敗する。

また気絶する。

それを何度か繰り返した頃。


── がちゃり ──

がちゃり、と。

部屋の扉が開いた。

「ただいまー……って、暗っ。電気くらいつけなよ」

同室のウマ娘が帰ってきた。

彼女は鞄を肩にかけたまま、部屋の中を見回す。

机の前に、友人が座っている。

ヘッドホンをつけている。

椅子にもたれている。

妙に幸せそうな顔をしている。

「……寝てる?」

同室の子は首を傾げた。

練習疲れで寝落ちすること自体は珍しくない。

机に向かったまま寝ることもある。

ノートを書いている途中で力尽きることもある。

だから最初は、ただ眠っているだけだと思った。

しかし近づいてみると、様子がおかしい。

耳がぴくぴく動いている。

尻尾がゆらゆら揺れている。

口元が、少し緩んでいる。

寝ているというより、気絶している。

しかも、やけに幸せそうに。

「……え、なに?」

同室の子は不安になって肩を揺らした。

「ちょっと。起きて。大丈夫?」

「……ん……」

友人が薄く目を開ける。

焦点が合っていない。

「あ……帰って、きた……?」

「帰ってきたよ。なにしてるの、あんた」

「私は……勝った……?」

「何に?」

その問いに答える前に、ヘッドホンの中で音声が進んだ。

音漏れは本当に微かなものだった。

普通なら聞き取れないほど小さい。

けれど、ウマ娘の耳はいい。

同室の子の耳にも、かすかに届いた。

『好きです』

瞬間。

友人は、すっと目を閉じた。

また幸せそうに気絶した。

「……」

同室の子は無言になった。

数秒、沈黙。

そして、机の上を見る。

開かれたノート。

そこには大きく書かれている。

最強メンタル計画 V1

同室の子は、ゆっくりとノートを手に取った。

読み進める。

目的:スピカさんの声に耐性をつける。
成功条件:最後まで聞いても平常心を保つ。
失敗条件:動揺、耳や尻尾の過剰反応、意識混濁、気絶。

「失敗条件コンプリートしてるじゃん」

同室の子は思わず呟いた。

さらにページをめくる。

素材候補。
『大丈夫です』
『ちゃんと見ています』
『最後まで走ったこと、僕はすごいと思います』
『ウマ娘が好きです』
『好きです』部分は重要。複数パターン作成。

「重要じゃない。いや重要だけど、そういう意味じゃない」

さらに読む。

LV1:通常音声
LV2:励まし音声
LV3:近距離想定
LV4:囁き想定
LV5:複合ループ
備考:ループ再生により長時間の耐久訓練が可能。

「拷問装置じゃん」

同室の子は頭を抱えた。

そこで、友人がまた薄く目を開ける。

「……まだ……私は……」

「はいはい、もう終わり。ヘッドホン外すよ」

「だめ……」

「だめじゃない」

「まだ……トレーニング中……」

「気絶してる時点でトレーニング失敗なの!」

同室の子はヘッドホンへ手を伸ばした。

しかし。

気絶寸前のはずの友人が、両手でヘッドホンを押さえた。

「ちょっ、力強っ!」

「まだ……耐性を……」

「ついてない! 何一つついてない!」

同室の子は引っ張る。

友人は押さえる。

机の椅子がぎしぎし鳴る。

本人は半分意識がないはずなのに、妙なところだけ力が強い。

スピカさんの声を聞き続けたいという本能だけで抵抗している。

「離しなさい!」

「あと……一周……」

「一周したらまた気絶するでしょ!」

「次は……勝てる……」

「勝てない!」

押し問答の間にも、ヘッドホンの中では音声が進む。

同室の子の耳にも、音漏れが断片的に届いた。

『大丈夫です』

「大丈夫じゃない」

『頑張っていることは――』

「頑張る方向が違う」

『好きです』

「うわっ」

同室の子まで一瞬ひるんだ。

ただの音漏れ。

しかもヘッドホン越しの小さな音。

それなのに破壊力がある。

これはまずい。

本当にまずい。

このままでは自分まで巻き込まれる。

同室の子は覚悟を決めた。

「ごめん、力ずくでいく!」

彼女は友人の背後に回り、片手でヘッドホンを掴み、もう片方の手で友人の腕を押さえた。

友人は無意識に抵抗する。

「まだ……まだ私は……強く……」

「強くなる前に戻ってきて!」

「スピカさんが……好きって……」

「それは全員に言ってるやつ!」

「でも……今、私に……」

「編集したのあんたでしょ!」

正論だった。

あまりにも正論だった。

その正論が届いたのか、友人の力が一瞬だけ緩む。

同室の子はその隙を逃さなかった。

ヘッドホンを引き剥がす。

そのまま再生停止ボタンを押す。

部屋に、ようやく静寂が戻った。

「はぁ……はぁ……」

同室の子は肩で息をする。

友人は椅子の上でぐったりしていた。

だが、今度は目を開けている。

「……私は」

「うん」

「強く、なれた気がする」

「弱点増えただけだよ」

即答だった。


── 封印します ──

同室の子はパソコン画面を確認する。

そこには、作成された音声ファイルが並んでいた。

mental_training_v1_normal.wav

mental_training_v1_soft.wav

mental_training_v1_whisper.wav

mental_training_v1_hard.wav

mental_training_v1_extra_hard.wav

同室の子の表情が固まる。

「……ねえ」

「なに?」

「この、extra_hardってなに」

友人の目が、少しだけ輝いた。

「まだ試してない」

「試さなくていい」

「通常版でこの効果なら、extra_hardに耐えられれば、きっとどんな状況でも――」

封印

「えっ」

封印

同室の子はパソコンを閉じた。

ぱたん、という音が部屋に響く。

友人が手を伸ばす。

「あっ」

「だめ」

「でも、研究途中……」

「研究じゃない。危険物」

危険物じゃない。メンタルトレーニング」

「ヘッドホンつけたまま幸せそうに気絶するトレーニングがどこにあるの」

「新しい形の……」

「ない」

同室の子はノートを閉じた。

そして、机の引き出しに入れようとして、少し考え直す。

引き出しでは危ない。

この子はきっと、あとでこっそり取り出す。

そう判断し、ノートとヘッドホンを自分の鞄の中に入れた。

「ちょっ、それ私の」

「一時預かり」

「横暴」

「命の恩人に言う言葉じゃない」

「死んではない」

「魂は半分くらい持っていかれてた」

友人は反論しようとして、口を閉じた。

否定しきれなかった。

実際、かなり持っていかれていた自覚はある。

同室の子は深くため息をつき、椅子に座る友人の顔を覗き込んだ。

「で、体調は?」

「……少しふわふわする」

「でしょうね」

「あと、耳が熱い」

「でしょうね」

「それと……」

「それと?」

友人は、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。

「また聞きたい」

「だめ」

即答。

友人の耳がまた下がる。

「でも、あれは本当にすごかった。スピカさんの声が、こう、耳元で……」

「説明しなくていい」

「大丈夫って言われて」

「うん」

「頑張ってるって言われて」

「うん」

「なんか、息がしやすくなった感じがして」

「……うん」

その言葉だけは、同室の子も否定しなかった。

スピカの言葉がこの子に響く理由は、わかる。

というか、音漏れで一瞬ひるんだ自分のことを棚に上げるつもりはない。

だからこそ。

「でも、だから危ないの」

「え?」

「聞いた時に楽になる。それはわかった。でも、聞かなきゃ楽になれないのが普通になったら、どうなると思う?」

友人は少し考えた。

「……また聞けばいい?」

「違う」

「でも、聞いたら楽になるんだから……」

「それを依存って言うの」

友人の動きが止まった。

依存。

その言葉は、少し重かった。

彼女は少しだけ眉を寄せて、静かに言った。

「……でも。スピカさんの言葉は、本当に力になるんだよ」

「うん。それは本物だよ」

「じゃあ……」

「それはスピカさんの配信を普通に聞くことで十分なの。耳元で囁いてもらわなくていい」

友人の耳が、しゅんと下がる。

正しいことは、わかっている。

それを消す、という行為に抵抗があるのは、正直わからなくもない。

だからこそ、厄介だった。

「……じゃあ、封印

封印……」

「少なくとも、勝手に聞かない。誰にも配らない。アップロードしない。改良しない」

「最後のは……」

「改良しない」

「はい……」

友人はしぶしぶ頷いた。

同室の子はようやく少し安心した。

ただ、その安心は長く続かなかった。

友人が、ぽつりと呟いたからだ。

「でも、スピカさんの声に耐えられるようになったら、本当に強くなれると思うんだよね」

同室の子は、疲れた顔で答えた。

「その前に心臓がもたないよ」

友人は真剣に考え込む。

「心肺機能も鍛えれば……」

「そういう話じゃない」

部屋の外から、夕食の時間を知らせる声が聞こえた。

同室の子は立ち上がる。

「ほら、ご飯行くよ。歩ける?」

「歩ける」

友人は立ち上がろうとした。

しかし、足元が少しふらつく。

同室の子が慌てて支えた。

「全然歩けてないじゃん」

「余韻が……」

「余韻って言うな」

友人は支えられながら、ゆっくり扉へ向かう。

その途中で、一度だけ机の方を振り返った。

閉じられたパソコン。

鞄にしまわれたノート。

封印されたヘッドホン。

彼女は名残惜しそうに呟いた。

「……extra_hard、どんな感じだったんだろう」

同室の子は即座に言った。

「一生知らなくていい」

そして扉が閉まる。

部屋には静けさが戻った。

机の上には、閉じられたパソコンだけが残っている。

その中には、まだ誰も聞いていないファイルがある。


掲示板:【危険物】スピカきゅん切り抜きASMR、兵器認定される

1:名無しのウマ娘

立てた

2:名無しのウマ娘

有能

3:名無しのウマ娘

無能

危険物を広めるな

4:名無しのウマ娘

でも情報共有は大事

5:名無しのウマ娘

事故防止のためだから

6:名無しのウマ娘

本当に事故防止の顔してる?

7:名無しのウマ娘

してる

8:名無しのウマ娘

目が泳いでるぞ

9:名無しのウマ娘

概要

・某寮でスピカきゅん音声をASMR風に編集したウマ娘が出る

・目的はメンタルトレーニング

・本人が試聴

・気絶

・ループ再生で気絶ループ

・同室の子が救出

・音源とノートは封印されたらしい

10:名無しのウマ娘

まとめ助かる

11:名無しのウマ娘

助からない

聞きたい

12:名無しのウマ娘

封印されたなら安全だな

13:名無しのウマ娘

本当に?

14:名無しのウマ娘

封印された危険物ってだいたい後で出てくるやつじゃん

15:名無しのウマ娘

やめろ

16:名無しのウマ娘

音源名が知りたい

17:名無しのウマ娘

mental_training_v1.wav らしい

18:名無しのウマ娘

それっぽい名前なの腹立つ

19:名無しのウマ娘

本人は真面目だったんだろうな……

20:名無しのウマ娘

真面目におかしいことをするタイプが一番危険

21:名無しのウマ娘

わかる

22:名無しのウマ娘

でも「最強メンタル計画」はちょっと好き

23:名無しのウマ娘

名前だけなら根性育成っぽい

24:名無しのウマ娘

実態:スピカきゅん囁き耐久

25:名無しのウマ娘

耐久できましたか?

26:名無しのウマ娘

できませんでした

27:名無しのウマ娘

でしょうね

28:名無しのウマ娘

被験者1名、開始数分で幸せそうに沈黙

29:名無しのウマ娘

沈黙って書くな

30:名無しのウマ娘

幸せそうならいいのでは?

31:名無しのウマ娘

よくない

32:名無しのウマ娘

よくないけど羨ましい

33:名無しのウマ娘

わかる

34:名無しのウマ娘

羨ましいと思った人はこのスレから離れてください

35:名無しのウマ娘

全員いなくなるが?

36:名無しのウマ娘

37:名無しのウマ娘

笑えない

38:名無しのウマ娘

具体的にどのセリフが入ってたの?

39:名無しのウマ娘

「大丈夫です」

「頑張っていることはちゃんと意味があります」

「最後まで走ったこと、僕はすごいと思います」

「君はちゃんと走っています」

「僕はウマ娘が好きです」

40:名無しのウマ娘

強すぎる

41:名無しのウマ娘

デッキが殺意高い

42:名無しのウマ娘

最後のカードが禁止級

43:名無しのウマ娘

「好きです」部分だけ複数パターンあったらしい

44:名無しのウマ娘

最高か

45:名無しのウマ娘

最低か

46:名無しのウマ娘

どっちも当たってるから困る

47:名無しのウマ娘

「最強メンタル計画」、次のバージョンが来ないといいね

48:名無しのウマ娘

来るな

絶対来る

49:名無しのウマ娘

なぜ確信がある

50:名無しのウマ娘

ノートにV1って書いてあるから

51:名無しのウマ娘

…………

52:名無しのウマ娘

V2が怖い


理事長室回

── 禁忌音源、厳重封印 ──

トレセン学園の理事長室には、今日も書類の山があった。

生徒のレース予定。

施設利用申請。

外部関係者との打ち合わせ資料。

警備計画の見直し案。

イベント後の報告書。

各寮から上がってくる細々とした相談。

そのどれもが、学園を回していくためには必要なものだった。

ただし。

今日、応接テーブルの中央に置かれているものだけは、明らかに普通ではなかった。

黒い小型ケース。

その中には、一本のUSBメモリ。

折りたたまれた報告書。

一冊のノート。

そして、大きめのヘッドホン。

見た目だけなら、落とし物か、視聴覚教材か、あるいはどこかの部活動の備品に見えなくもない。

だが、そのケースには紙が貼られていた。

そこに書かれている文字は、妙に大きく、妙に切実だった。

危険物につき、無断再生厳禁

応接テーブルを挟んで、秋川やよい理事長がそのケースを見つめていた。

小柄な体。

いつもの大きな帽子。

堂々とした姿勢。

そして、きらきらと輝く目。

対面には、駿川たづな。

こちらは既に、目元に深い疲れを浮かべていた。

「……理事長」

「うむッ!」

「まず最初に申し上げます」

「うむッ!」

「再生しません」

「……うむ?」

やよい理事長の返事が、一拍遅れた。

たづなはにこやかに言った。

にこやかだった。

ただし、目は笑っていなかった。

「再生しません」

「しかし、たづな君。これは生徒から正式に提出された報告物であり、学園として内容確認を――」

「報告書は読みます」

「音源は?」

「再生しません」

「だが、内容を確認せねば危険性の程度が――」

危険性は報告書に書いてあります」

「実地確認も必要ではないかッ?」

「必要ありません」

たづなは、穏やかに、けれど一切の逃げ道を残さず断言した。

やよい理事長は、むむ、と唸った。

テーブルの上に置かれたケースを見る。

報告書を見る。

ノートを見る。

ヘッドホンを見る。

そして、もう一度たづなを見る。

「……本当に、少しも?」

「少しもです」

「一秒だけでも?」

「だめです」

「サンプル確認として――」

「だめです」

「業務上の――」

「だめです」

やよい理事長は、ぐっと言葉に詰まった。

普段なら、ここで勢いよく押し切ることもある。

新しい試み。

面白そうな案。

生徒のためになるかもしれない計画。

そういうものに対して、やよい理事長は非常に前のめりだった。

だが、今回は相手が悪い。

駿川たづなは、理事長の自由奔放さを日々支えている人物である。

言い換えれば、理事長がどのタイミングで危険な好奇心を発揮するか、だいたい察している人物でもある。

そして今回、たづなは最初から警戒していた。

報告書の一枚目にあった時点で、嫌な予感はしていた。

件名:スピカ氏配信音声を用いた非公式編集音源について
通称:最強メンタル計画V1
内容:生徒がスピカ氏の過去配信音声を切り抜き、メンタルトレーニング目的でASMR風音源を作成。本人が試聴した結果、意識喪失に近い状態を繰り返したため、同室生徒が停止・回収。再発防止のため学園へ提出。

ここまでなら、まだ理解できた。

いや、理解はしたくなかったが、状況は把握できた。

問題は、添付されたファイル一覧だった。

mental_training_v1_normal.wav
mental_training_v1_soft.wav
mental_training_v1_whisper.wav
mental_training_v1_hard.wav
mental_training_v1_extra_hard.wav

この時点で、たづなは無言で眉間を押さえた。

五つ。

五バリエーション。

しかも段階式。

これを作った生徒は、決して悪意があったわけではないとわかる。

報告書を読めば、動機は真剣なメンタルトレーニングだった。

むしろ誠実すぎるほど誠実に、自分の弱点と向き合おうとしていた。

それがわかるからこそ、頭ごなしに否定するつもりはなかった。

でも。

extra_hard。

この文字だけは、ため息をつかずにはいられなかった。

作成者に当人を呼び、話を聞いた。

緊張した顔で入ってきた。

一通り説明を聞く。

訂正させた部分もあった。

認めた部分もあった。

厳重注意を行い、再発防止を約束させた。

真剣に、頷いていた。

その真剣さは本物だった。

だからこそ、たづなには次の心配もあった。

この子は、また何か作る。

確信に近いものがあった。

ただ、今この場での言い方を間違えると、その意欲ごと潰してしまう。

大事なのは「安全確認の手順を踏む」こと。

そこだけを、丁寧に伝えた。

「次からは、配る前でも、試す前でも、まず相談してください。一人で完成させてから持ってくるのではなく、途中段階で確認を取る」

「……はい」

「あなたが何かを作りたいと思うこと自体は、悪いことではありません。ただ、判断は一人でしないこと」

「はい」

短い返事だったが、受け取った、という顔をしていた。

それを確認して、たづなはひとつため息をついた。

生徒が退室した後。

たづなは一人、報告書をファイルに綴じながら、窓の外を見た。

外では、生徒たちが今日も走っている。

スピカ本人は、きっと今ごろ何も知らずに、次の配信で何を話そうか、どのウマ娘のレースを語ろうかと考えているのだろう。

その何も知らなさが、少しだけ救いで。

少しだけ、恐ろしかった。

やよい理事長は、背筋を伸ばした。

「よしッ! この件は、厳重封印! 再発防止! そして生徒への指導を徹底する!」

「はい」

「ただし、作成した生徒の向上心そのものは否定しない!」

「はい。そこは大切にしましょう」

「同室の子には感謝状を出してもよいくらいだなッ!」

「それは本人が困るかもしれませんので、まずは個別にお礼を」

「うむッ!」

いつもの理事長らしい声が戻ってきた。

たづなは少し安心する。

だが、その安心は長く続かなかった。

理事長が、ぽつりと呟いたからだ。

「……しかし、extra_hardの方はどんな内容だったのだろうな」

「理事長」

「すまないッ!」

たづなの視線だけで、理事長は即座に背筋を伸ばした。

その後、理事長室ではもう一度、厳重注意が行われた。

生徒ではなく、理事長に対して。

数日後。

寮の掲示板には、短い注意文が貼り出された。

非公式な音声編集物について
配信者本人の発言を切り抜き、本人の意図と異なる形に編集・加工する行為は、誤解やトラブルの原因となります。
特に、過度に近距離感を演出する音声加工、ループ再生、特定語句のみの抽出・反復等は控えてください。
スピカ氏本人への問い合わせや、この件に関する配信コメントは行わないでください。
皆さんが健やかに応援できる環境を守りましょう。
トレセン学園

それを読んだ生徒たちは、しばらく無言になった。

特定語句のみの抽出・反復。

それが何を指しているか、知っている者は知っていた。

知らない者も、なんとなく察した。

そして、誰かが小さく呟いた。

「つまり、『好きです』単体ループは禁止……」

隣の生徒が即座に肘でつついた。

「言わない」

「はい」

こうして、最強メンタル計画V1は正式に封印された。

音源は金庫へ。

ノートは資料として保管。

作成者には厳重注意。

同室の子には密かに感謝。

理事長には再教育。

スピカ本人は、最後まで何も知らない。

そして、何も知らないまま、次の配信でこう言った。

「皆さんが、少しでも安心して走れるような言葉を届けられたら嬉しいです」

その日、コメント欄の一部で、また小さな沈黙が走った。

しかし誰も、例の音源の話はしなかった。

それは、ウマ娘たちなりの自制であり。

スピカを守るための、ささやかな約束でもあった。

なお。

理事長室の金庫には、その後しばらくして、別の危険物も増えていくことになる。