2話・深い一歩を見ていた

レースの翌朝。

トレセン学園は、いつも通りの朝だった。廊下のあちこちで、昨日のレースの話がちらほら聞こえてくる。

「あの子、4着だったらしい」「惜しかったね」「でも大きなレースで4着ならすごいよ」「スタート、すごく良かった」「終盤も粘ってたよね」

そんな声が、緩やかに流れていく。

最強メンタル計画ちゃんは、寮の部屋でノートを開いていた。

赤ペン先生は横で水筒の蓋を閉めている。

「昨日のこと?」

「ん」

「後輩ちゃんのこと?」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは、ノートに短く書いた。


後輩ちゃん

最後の一歩

深い

止まった

でも、すぐ走った


赤ペン先生は、その文字をじっと見た。

「……やっぱり、気になってるんだ」

「ん」

「でも、走り方のことは担当トレーナーさんが見ることだからね」

「ん」

「こっちで勝手に何か作らない」

「……まだ作ってない」

「『まだ』が怖い」

そう言った時、部屋の扉が叩かれた。

「失礼します」

落ち着いた声だった。後輩ちゃんの担当トレーナーが立っていた。


担当トレーナーの依頼

寮の共有スペースに場所を移した。

テーブルを挟んで、担当トレーナー、最強メンタル計画ちゃん、赤ペン先生が並んで座る。担当トレーナーは最初に、ていねいに頭を下げた。

「昨日は、応援ありがとうございました。後輩ちゃんが喜んでいました。応援席の二人を見て、少し緊張が抜けたと言っていました」

「よかった」

最強メンタル計画ちゃんが言う。

「ん」

「はい。とても助かりました」

そこで、わずかに間があいた。

「今日は、その件でお願いがあります」

「お願い?」

赤ペン先生が聞いた。

「はい。後輩ちゃんの練習に、少しだけ付き合っていただけませんか」

赤ペン先生の表情が、少しだけ引き締まった。

「走り方を教える、という意味ではないですよね」

「はい。フォームや練習メニューはこちらで見ます」

「なら、何を?」

「並走です」

最強メンタル計画ちゃんが、静かに繰り返した。

「並走」

「はい。短い区間だけで構いません。あの子が最後の一歩を踏む時、隣に誰かがいる感覚を作りたいんです」

赤ペン先生は、担当トレーナーを見た。

「昨日の、最後の一歩ですか」

「はい」

担当トレーナーの声は、落ち着いていた。

「後輩ちゃんの足が、最後に止まりました」

最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴこ、と動いた。

「一歩」

「はい」

「深かった」

担当トレーナーは、ほんの少しだけ目を見開いた。それから、静かに頷く。

「やはり、見えていたんですね」

「見えた」

「そうです。あれは、今までのレースより深い踏み込みでした」

赤ペン先生は、二人を交互に見た。

「二人とも、見えてたんだ」

「はい」


担当トレーナーは、ゆっくりと言葉を続けた。

「後輩ちゃんが長く車いす生活をしていた理由は、強く踏み込んだ時の骨折です」

赤ペン先生の手が止まった。最強メンタル計画ちゃんは、何も言わなかった。

「普通に走ること。軽く加速すること。小さなレースでラストまで走ること。それらは、少しずつ乗り越えてきました」

「はい」

赤ペン先生が小さく言う。

「ですが昨日のレースは違いました。大きな舞台で、勝負どころで、今までよりさらに深く踏み込む必要があった」

「……そこで、昔のことが出た」

「はい。本人も分かっています。痛みがあったわけではありません。今の脚は走れます。でも、身体が覚えていたんだと思います。あの踏み込みの先に、何があったかを」

静かな間が落ちた。

最強メンタル計画ちゃんは、ノートを見ていた。書いてある文字。

深い。止まった。でも、すぐ走った。

担当トレーナーは続けた。

「だから、急に強い負荷をかけるつもりはありません。怖さを消そうとも思っていません」

「消さない」

最強メンタル計画ちゃんが言った。担当トレーナーは顔を上げた。

「はい。消すのではなく、怖さが来ても、もう一度踏めるようにしたい」

「止まっても」

「はい」

「また、一歩」

担当トレーナーは、静かに頷いた。

「そうです」


最強メンタル計画ちゃんが、ノートを一枚めくった。

赤ペン先生がすぐに身を乗り出した。

「装置はなし」

「……まだ書いてない」

「先に言う」

「……ん」

担当トレーナーが少しだけ目を瞬かせた。

「装置、出るんですか」

「出させません」

赤ペン先生が即答した。

最強メンタル計画ちゃんは、ペンを持ったまま少し考えた。それから、ゆっくり書き始める。


最強一歩克服計画

・一歩

・深い一歩

・怖くない床


赤ペン先生の赤ペンが、三行目に入った。

「床を作らない」

「床」

「床を作らない」

「……マット」

「同じ」

担当トレーナーが静かに言った。

「床とマットは、こちらで管理します」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは頷いて、さらに書く。


・踏めたら音


赤線。

「音で強化しない」

「小さい音」

「小さくても、たぶん増える」

「……増える」

「増える」

担当トレーナーが少しだけ理解した顔をした。「なるほど」と言いかけて、赤ペン先生に見られた。

「理解しないでください」

担当トレーナーは口を閉じた。

最強メンタル計画ちゃんは、また考えた。


・踏めたら丸


今度は、赤ペン先生の手が止まった。

「……それは、いいかも」

「丸」

「丸はいい。花丸は?」

「花丸」

「小さい花丸まで」

「小さい花丸」

「それならいい」

担当トレーナーが頷いた。

「踏めたことを記録する、ということですね。それならこちらでもできます」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ耳を動かした。

「丸」

「うん」

「踏めたら、丸」

「踏めなかったら?」

赤ペン先生が聞いた。

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。

「また」

「また?」

「また、一歩」

赤ペン先生は、赤ペンをゆっくり置いた。

「……それは、いいと思う」


担当トレーナーは、二人に説明した。

「お願いしたいのは、短い区間の並走です」

「私たちが走るんですか?」

「はい。ただし全力ではありません。後輩ちゃんの練習メニューの一部として、私が管理します」

「フォームやペースは?」

「こちらで指示します」

「なら、私たちは」

「隣にいる感覚を作る役です」

最強メンタル計画ちゃんが言った。

「隣」

「はい。赤ペン先生には、一定のペースで走ってもらいたい。後輩ちゃんが崩れそうな時に、横に安定したリズムがあることは助けになります」

「分かりました」

「最強メンタル計画ちゃんには、最初はコース脇で見てもらいます」

「見る」

「はい。見守りです。ただし」

担当トレーナーが少しだけ赤ペン先生を見た。赤ペン先生は、すぐに言った。

「見すぎない」

「見すぎない」

最強メンタル計画ちゃんが繰り返す。

「体全部で応援しない」

「……半分?」

「半分でも多い」

「……小さめ」

「小さめ」

担当トレーナーは、そこで少しだけ笑った。

「では、小さめでお願いします」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは頷いた。


話が終わる頃、ノートには赤と黒の文字が並んでいた。


最強一歩克服計画

・一歩

・深い一歩

・怖くない床 ← 作らない

・踏めたら音 ← なし

・踏めたら丸

・踏めなかったら、また一歩

・見る

・見すぎない

・応援小さめ


赤ペン先生は、そのページを見て小さく息を吐いた。

「今回は、だいぶ安全」

「安全」

「今のところ」

「今のところ」

「そこを繰り返さない」

「ん」

担当トレーナーは、二人に改めて頭を下げた。

「無理のない範囲で構いません。二人ともレース経験がありますし、後輩ちゃんが信頼している相手です。支えになっていただけると助かります」

「分かりました」

赤ペン先生が答えた。

「ん」

最強メンタル計画ちゃんも頷いた。

担当トレーナーは少しだけ表情を和らげた。

「あの子は、昨日4着でした」

「はい」

「良いレースでした」

「うん」

最強メンタル計画ちゃんが言う。

「でも、あの一歩だけは、本人に残っています。だから、無理に消すのではなく、次に踏めるようにしたい」

「残ってる」

最強メンタル計画ちゃんは、ノートを見た。そして、短く言った。

「見る」

「お願いします」

「一歩」

「はい」

「踏めたら、丸」

「はい」

「踏めなくても」

少しだけ、間があった。

「また、一歩」

担当トレーナーは、深く頷いた。