4話・踏めた日、踏めなかった日

一歩練習は、次の日もあった。

場所は同じ。トレーニング場の端にある、短い直線コース。担当トレーナーが見る。赤ペン先生が一定のペースで横に並ぶ。最強メンタル計画ちゃんは、コース脇でノートを持つ。

初日と同じ配置だった。

違うのは、後輩ちゃんの胸の中に、小さな丸が二つ増えていることだった。一回目、丸。二回目、また一歩。三回目、丸。少し深い。それだけの記録なのに、妙に心強かった。

「今日は、昨日より少しだけ強めます」

担当トレーナーが言った。

「はい!」

「怖さが出たら、それも確認。止まっても、そこで終わりではありません」

「はい!」

後輩ちゃんは最強メンタル計画ちゃんの方を見た。最強メンタル計画ちゃんは、両手を少しだけ上げかけていた。赤ペン先生が横から言う。

「小さめ」

「……小さめ」

最強メンタル計画ちゃんは手を胸の前で止めた。後輩ちゃんは思わず笑った。今日も、少しだけ緊張がほどけた。


一本目。踏めた。丸。

二本目。深く行こうとして、足が少し止まった。また一歩。

三本目。踏めたけれど、深さは浅かった。最強メンタル計画ちゃんが丸の横に小さく書いた。

浅め

赤ペン先生が覗き込む。

「それは記録?」

「記録」

「評価じゃない?」

「評価じゃない」

「ならいい」

担当トレーナーも頷いた。

「深さも、無理に増やさなくていいです。浅く踏めたことも記録です」

「はい!」

後輩ちゃんは、自分のノートではなく、最強メンタル計画ちゃんのノートを見た。丸。また一歩。丸、浅め。バツはない。失敗した気がした一歩にも、バツがない。止まったら、また一歩。浅くても、踏めたなら丸。そういう記録だった。


練習後、最強メンタル計画ちゃんはノートの別のページを開いた。

赤ペン先生の目がすぐに動いた。

「何書くの」

「補助」

「補助」

「安全な」

「その言葉、少し信用できない」

後輩ちゃんと担当トレーナーも覗き込む。最強メンタル計画ちゃんは書いた。


一歩補助案

・踏めたら足跡が光る粉


赤線。赤ペン先生の手は速かった。

「粉はだめ」

「光るだけ」

「光る粉はだめ」

「踏めたのが見える」

「見えすぎる」

担当トレーナーが静かに付け加えた。

「トラックに撒くものは、管理上もだめです」

「管理」

「はい」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは頷いた。

後輩ちゃんは、そのやり取りを見て少しだけ笑った。

「先輩、私のために考えてくれてるんですね」

「ん」

「でも粉はだめですね!」

「だめ」

「はい!」

赤ペン先生が少し安心した顔をした。後輩ちゃんが「だめ」と言った。

成長だった。たぶん。

「"たぶん"は言ってない」

最強メンタル計画ちゃんが赤ペン先生を見た。

「顔?」

「顔」

赤ペン先生は何も言わなかった。


三日目

三日目は、一本目が止まった。

合図。走り出す。赤ペン先生の足音。最後のライン。深く踏む。その直前に、体が先に止まった。足が浅くなるどころではなく、踏み込みそのものができなかった。

後輩ちゃんは、その場で少しだけ息を吐いた。

「……止まりました」

自分で言った。担当トレーナーが頷く。

「はい。今のは止まりました」

「はい」

「痛みは?」

「ありません」

「怖さは?」

「ありました」

「分かりました。今日はそこで一度休みます」

「はい」

後輩ちゃんは、少しだけ目を伏せた。昨日は踏めた。今日は止まった。戻ってしまったような気がした。

その時、最強メンタル計画ちゃんがノートに書いた。

止まった

その下に、もう一行。

でも、立ってる

後輩ちゃんは、それを見た。

「……立ってる」

「ん」

「止まりましたけど」

「立ってる」

「……はい」

赤ペン先生が横で小さく言った。

「今日はそれでいいと思う」

担当トレーナーも頷いた。

「はい。止まった後、崩れていません。自分で状態を言えました。それも記録です」

後輩ちゃんは、ゆっくり頷いた。バツは、なかった。


三日目の練習が終わったあと、最強メンタル計画ちゃんはまたノートを開いた。

赤ペン先生が、開く前から言った。

「靴はなし」

「……」

「今、靴だったでしょ」

「まだ書いてない」

「顔が靴だった」

「顔が靴」

担当トレーナーが笑いをこらえた。

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ不満そうにした。

「止まらない靴」

「だめ」

「止まりそうな時に、一歩だけ」

「だめ」

「やさしく」

「だめ」

「……案」

「案でもだめ」

担当トレーナーが少し真面目な声で言った。

「靴は、医療・装具・シューズ担当者の領域です。勝手に作らないでください」

「領域」

「はい」

「ん」

最強メンタル計画ちゃんは頷いた。赤ペン先生が、赤ペンを構えたまま言う。

「今日は書く前に止めた」

「えらいです!」

後輩ちゃんが言った。

「えらい?」

最強メンタル計画ちゃんが首を傾げる。

「はい! 作る前に止まりました!」

「止まった」

「止まれるのは大事です!」

後輩ちゃんが明るい声で言った。

その場が一瞬だけ静かになった。

赤ペン先生が、ゆっくり最強メンタル計画ちゃんを見た。

「聞いた?」

「聞いた」

「止まれるのは大事」

「……ん」

「だから、止まらない靴は禁止」

「……ん」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ目をそらした。後輩ちゃんはそんな二人を見て笑った。重かった胸が、少し軽くなった。


四日目

四日目は、踏めた。

一本目、浅め。二本目、丸。三本目、少し深い。

後輩ちゃんは三本目の後に、息を大きく吐いた。怖さはあった。でも、踏めた。

「今のは、昨日より深かったです」

「はい!」

「力みは少しありました。でも、前へ出ています」

「はい!」

赤ペン先生は、横で走り終えて水を飲んでいた。

「いい一歩だったと思うよ」

「ありがとうございます!」

最強メンタル計画ちゃんは、ノートに丸をつけた。小さい丸。その横に、

深い

と書いた。赤ペン先生が見て頷く。

「いい記録」

「ん」

後輩ちゃんは、その文字を見た。深い。怖かった。でも、踏めた。その二つが、同じページにあった。


五日目

五日目は、練習量が軽かった。担当トレーナーが走る量を減らした。

「踏み込みの練習は、今日は一本だけ」

「一本だけですか?」

「はい。踏む練習と、休む練習はセットです」

最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴこ、と動いた。

「休む練習」

「はい」

「大事」

「そうですね」

赤ペン先生が最強メンタル計画ちゃんを見た。

「休む練習、変な方向に広げない」

「……水」

「水はいい」

「タオル」

「タオルもいい」

「日陰」

「それもいい」

「配置」

「配置しすぎない」

「……ん」

担当トレーナーが少しだけ笑った。後輩ちゃんも笑った。

一本だけの練習。その一歩は少し浅かった。でも、踏めた。最強メンタル計画ちゃんは、小さい丸をつけた。

休む日。丸。

後輩ちゃんは、それを見て笑った。

「休む日も丸なんですね」

「丸」

「はい!」


積み重なる

数日で、ノートのページには記録が増えた。


一回目:丸

二回目:また一歩

三回目:丸 少し深い

次の日:丸/また一歩/丸 浅め

次の日:止まった。でも、立ってる

次の日:丸/丸/丸 深い

休む日:丸


後輩ちゃんは、そのページを見るのが少し好きになった。

全部が成功ではない。全部がきれいでもない。止まった日もある。浅かった日もある。怖かった日もある。でも、どの行にも「終わり」は書かれていなかった。また一歩。立ってる。休む日も丸。

最強メンタル計画ちゃんの字。赤ペン先生の赤。担当トレーナーの確認。全部が、同じページにあった。

後輩ちゃんは、そっとそのページを指でなぞった。

次のレースまで、あと少しだった。


練習後の帰り道。

後輩ちゃんは、最強メンタル計画ちゃんと赤ペン先生の少し後ろを歩いていた。

最強メンタル計画ちゃんが、ノートを胸に抱えている。赤ペン先生が、その横を歩く。

「今日は危険物、少なかった」

「未遂」

「未遂も数える?」

「数える」

「……ん」

「靴は特にだめ」

「……靴」

「まだ未練あるでしょ」

「少し」

「少しでもだめ」

「ん」

後輩ちゃんは、二人の背中を見ていた。いつもの二人だった。考えてくれる先輩。止めてくれる赤ペン先生。その両方があるから、自分は安心して一歩を練習できる。

そう思った。

胸の奥にあった怖さは、まだ消えていない。でも、それでいいのだと思えた。怖さがあっても。止まっても。また、一歩。

後輩ちゃんは小さく息を吸って、前を歩く二人に少しだけ駆け寄った。