6話・もう一歩、前へ

次のレースの日が来た。

控室の空気は、前回より少しだけ柔らかく感じた。緊張していないわけではない。むしろ、緊張はしている。胸の奥は少し硬い。足元を確認する回数も、普段より多い。靴紐はもう三回見た。担当トレーナーに「大丈夫」と言われても、もう一回見た。

でも、前回とは少し違った。

後輩ちゃんは鞄から最強引き継ぎ計画ノートを取り出した。表紙を両手で撫でる。開く。いつものページ。先輩の字。赤ペン先生の赤。その間に挟んだ、小さな紙。

後輩ちゃんは、もう一度だけそれを開いた。


後輩ちゃんへ

怖くても、一歩。

止まっても、また一歩。

見てる。


裏返す。


装置なし。

薬なし。

自分の足で。

でも、見てる。


後輩ちゃんは小さく息を吐いた。怖さはある。消えていない。でも、それでいい。怖くても、一歩。止まっても、また一歩。自分の足で。でも、見てる。

「行こう」

担当トレーナーの声がした。

「はい!」

返事はちゃんと出た。

後輩ちゃんは紙を丁寧に折り直した。ノートに挟む。胸に抱えてから、鞄へ入れた。そして、立ち上がった。


パドックを終えて、ゲートへ向かう途中。後輩ちゃんは観客席を見た。

すぐに見つかった。

先輩がいた。赤ペン先生もいた。

先輩は今日も全身で応援しようとしていた。両手が少し上がる。耳も動く。体も前に出る。赤ペン先生が横から何か言った。先輩は少しだけ動きを小さくした。

でも、まだ大きい。

後輩ちゃんは思わず笑った。前回と同じ。でも、少し違う。今日は、その笑いの中に、胸の奥の紙の感触があった。

先輩が見ている。赤ペン先生も見ている。担当トレーナーも見ている。でも、走るのは自分だ。

後輩ちゃんは小さく手を振った。先輩が、ぴこ、と耳を動かした。赤ペン先生も片手を上げた。

それだけで十分だった。


ゲートに入る。前を見る。呼吸。足元。隣の気配。遠くの歓声。全部が少しずつひとつになる。

大丈夫。怖さはある。それでも、大丈夫。

後輩ちゃんは、地面を見た。この足で走る。この足で踏む。

ゲートが開いた。体が前へ出た。

スタートは良かった。前回と同じくらい、いや、少しだけ良かったかもしれない。焦らない。前へ出すぎない。置いていかれない。担当トレーナーの声を思い出す。練習の記録を思い出す。丸。また一歩。丸、少し深い。止まった。でも、立ってる。休む日。丸。

後輩ちゃんは、前を向いた。


中盤。位置取りは悪くない。前には二人。横に一人。後ろからの圧もある。呼吸は乱れていない。脚は動いている。

今日は体が軽いわけではない。特別に調子がいいわけでもない。それでも、積み重ねた分だけ、ちゃんと走れている。

内側から少し外へ。前の子の動きを見る。横の子の息を感じる。後ろの気配を消さない。焦らない。まだ。まだ。

終盤へ向かう。空気が変わる。先頭の子が仕掛ける。次の子も動く。横の子も腰を落とした。

来る。一斉に。

後輩ちゃんも、足に力を込めた。


ラストスパート。

深く踏み込む。勝負のための一歩。練習で何度も確認した。浅い日もあった。止まった日もあった。踏めた日もあった。でも、本番の一歩は、やっぱり違った。

深い。前回と同じくらい。いや、それ以上かもしれない。

足に力を込める。地面を踏む。その直前。

また、あの日がよぎった。

強く踏み込んだ足。響いた痛み。折れた、という感覚。走れなくなった日。車いす。リハビリ。長い時間。

音が遠くなる。歓声も、風も、蹄の音も、遠くなる。

足が止まった。完全に。


そこは、どこでもない場所だった。

白いような、薄い灰色のような、境目のない場所。地面はある。でも、前は見えない。

後輩ちゃんは、立っていた。前へ進まなければならない。それは分かっている。でも、足が動かなかった。あの時と同じ一歩が、目の前にある。踏めば、また折れるかもしれない。踏めば、また走れなくなるかもしれない。踏めば、また長い時間を戻ることになるかもしれない。

後輩ちゃんは、下を向いた。

足元に、紙が落ちていた。小さな紙。ノートに挟まっていた、あの紙。見慣れた字。


怖くても、一歩。

止まっても、また一歩。

見てる。


後輩ちゃんは、息を吸った。紙の端が、風もないのに少しだけ揺れた。裏面の赤い字も、見えた気がした。


装置なし。

薬なし。

自分の足で。

でも、見てる。


胸の奥が、少し熱くなった。怖さは消えない。足はまだ動かない。

後輩ちゃんは、ゆっくり顔を上げた。

そこに、先輩がいた。

何も言わなかった。いつもの静かな表情ではなく、少しだけやわらかい顔。でも、やっぱり先輩だった。

先輩は、ただ、手を伸ばしていた。急かさない。引っ張らない。何も言わない。ただ、そこにいる。手を伸ばしている。

後輩ちゃんは、その手を見た。怖い。まだ怖い。

でも。

止まっても。

また一歩。

後輩ちゃんは、自分の手を伸ばした。指先が、触れた。


世界が戻った。

歓声。風。蹄の音。芝。前を行く背中。横から迫る気配。後ろからの圧。全部が、一気に戻ってきた。

手を引かれた気がした。でも、違った。地面を叩いたのは、自分の足だった。

深く。今までで一番深く。

足が沈む。折れない。痛くない。前へ出る。体が、前へ出る。

後輩ちゃんは、踏み込んだ。

その一歩で、景色が変わった。横の子を抜く。前の子に並ぶ。もう一歩。さらに前へ。

息が苦しい。脚が熱い。でも、止まらない。

止まらない、ではない。止まっても、踏んだ。だから、前へ行ける。

ゴール板が近づく。先頭の背中。届く。届かない。届く。

最後の一歩。後輩ちゃんは、もう一度踏み込んだ。


ゴール板を過ぎた。

音が戻る。いや、音はずっとあった。ただ、自分の中に戻ってきた。

後輩ちゃんは、息を切らした。しばらく、何が起きたのか分からなかった。周りの子が、こちらを見ている。担当トレーナーの声が遠くで聞こえた気がする。歓声が大きくなる。掲示板に数字が出る。

一着。

自分の番号。

後輩ちゃんは、しばらく立っていた。脚は震えていた。でも、立っていた。折れていない。痛くない。走った。踏んだ。届いた。

後輩ちゃんは、観客席を見た。先輩がいた。赤ペン先生もいた。

先輩は、じっとこちらを見ていた。何かを言うわけでもなく。でも、見ていた。

後輩ちゃんは笑った。今度は、手を振るより先に、胸の奥から言葉が出た。声にはならなかった。でも、口の形は、たぶん見えた。

先輩。

踏めました。


レース後。関係者用の通路で、後輩ちゃんは二人の前に立った。息はまだ少し上がっている。でも、顔は明るかった。

「先輩」

「ん」

「踏めました」

最強メンタル計画ちゃんは、じっと後輩ちゃんを見た。そして、小さく頷いた。

「見えた」

それだけだった。

後輩ちゃんは少しだけ泣きそうになった。でも、泣かなかった。笑った。

「はい!」

赤ペン先生が横で、少しだけ目元を緩めた。

「本当に、いい一歩だったよ」

「ありがとうございます!」

担当トレーナーも近くへ来た。何かを言おうとして、少しだけ言葉を選んだ。

「よく、踏みました」

「はい!」

後輩ちゃんは靴を見た。自分の足。自分の靴。自分の一歩。怖さは、消えていない。でも、踏めた。それでよかった。

最強メンタル計画ちゃんは、もう一度小さく頷いた。

「深かった」

「はい」

「でも、踏めた」

「はい!」

後輩ちゃんは、胸を張った。今度は、ちゃんと。心から。