エピローグ・先輩、踏めました
レースが終わって、少し時間が経っていた。
表彰のあと、担当トレーナーとの短い振り返りを終えて、後輩ちゃんはようやく少し落ち着いていた。
一着。
その結果は、まだ少し不思議だった。勝った。勝てた。でも、胸の奥で一番強く残っているのは、そこではなかった。
最後の一歩。あの、深い一歩。
怖かった。止まった。心の中で、確かに一度止まった。でも、メモがあった。顔を上げたら、先輩がいた。何も言わずに、手を伸ばしてくれていた。その手を取った。そして、現実で踏み込んだのは、自分の足だった。
後輩ちゃんは、自分の靴を見た。少し芝がついている。今日、自分を前へ運んでくれた靴。あの一歩を踏んだ足。
「後輩ちゃん」
担当トレーナーが声をかけた。
「はい!」
「改めて、おめでとう」
「ありがとうございます!」
「今日は、よく踏みました」
後輩ちゃんは少しだけ胸が熱くなった。
「はい!」
それから、視線を動かした。少し離れたところに、先輩と赤ペン先生がいた。先輩はこちらを見ている。赤ペン先生は、何か言いかけて、少しだけ笑っている。
後輩ちゃんは、二人の方へ歩いた。
「先輩」
「ん」
「踏めました」
「見えた」
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
後輩ちゃんは、強く頷いた。
「はい!」
赤ペン先生が横から言った。
「本当に、いい一歩だったよ」
「ありがとうございます!」
「最後、止まった?」
その問いは、責めるものではなかった。後輩ちゃんは少しだけ目を伏せた。
「止まりました」
「うん」
「でも、踏めました」
「うん。見えてた」
赤ペン先生が少しだけ柔らかい声で言った。最強メンタル計画ちゃんも小さく頷いた。
「止まっても」
「はい」
「また、一歩」
「はい!」
後輩ちゃんは、今度こそ胸を張った。怖さは消えていない。あの日のことも、消えていない。でも、踏めた。だから、次もきっと踏める。そう思えた。
その時だった。
最強メンタル計画ちゃんが、ポケットからハンカチを出そうとした。その拍子に、折りたたまれた紙が一枚、ひらりと落ちた。
赤ペン先生の目が、それを追った。後輩ちゃんも見た。最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴこ、と動いた。
「……」
赤ペン先生が紙を拾う。
「何これ」
「……」
「ねえ」
「……案」
「何の案」
「……後輩ちゃんの」
「後輩ちゃんの、何」
「……次の一歩」
赤ペン先生は紙を開いた。そこには、大きな字でこう書かれていた。
最強一歩継続シューズ案
・最後まで止まらない
・怖くなっても前へ
・止まりそうになったら、一歩だけ押す
・止まれないのは危険なので要調整
・自分の意志で止まれるようにする
赤ペン先生は、ゆっくり最強メンタル計画ちゃんを見た。
最強メンタル計画ちゃんは、少し冷や汗を浮かべて目をそらした。
「……いいものを」
「うん」
「作ろうと」
「うん」
「思ってた」
「うん。分かる」
「……後輩ちゃん、踏めたから」
「うん」
「次も、踏めるように」
「うん」
「靴」
「そこで靴に行かない」
「……案」
「案でも赤」
赤ペン先生は赤ペンを取り出した。
レース場なのに赤ペンを持っている。いつものことだった。
紙の一番上に、大きく赤線を引く。
止まれなくなる靴は禁止。
少し考えて、さらに一行足した。
次も踏めるように、は別の方法で。
最強メンタル計画ちゃんが、赤線を見た。
「別の方法」
「そう」
「……考える」
「まず相談」
「ん」
「本当に」
「ん」
「今の返事、少し遅かった」
「……ん」
赤ペン先生は、もう一本、細い赤線を引いた。
後輩ちゃんは、少し離れたところでそれを見ていた。
さっきまで胸の奥に残っていた熱も、息苦しさも、まだ完全には消えていない。勝ったこと。踏めたこと。止まったこと。それでも前へ行けたこと。全部が、まだ胸の中で大きかった。
でも、目の前では。
先輩が紙を隠しきれずに見つかっている。赤ペン先生が赤を入れている。先輩は少し冷や汗気味に目をそらしている。赤ペン先生は、分かるけどだめ、と言っている。
いつもの二人だった。
後輩ちゃんの口元に、思わず笑みが浮かんだ。
担当トレーナーが少し後ろでその様子を見ていた。何か言いそうになって、やめた。
赤ペン先生が紙を畳む。
「これは一旦預かります」
「ん」
「あとで正式に赤を入れる」
「もう入ってる」
「正式に」
「……ん」
「それから、今日の主役は後輩ちゃんだからね」
最強メンタル計画ちゃんは後輩ちゃんの方を見た。後輩ちゃんは笑ったまま、少しだけ姿勢を正した。
「ん」
最強メンタル計画ちゃんが頷く。
「踏めた」
後輩ちゃんは、深く頷いた。もう一度、胸の中で言う。踏めた。自分の足で。
後輩ちゃんは最強引き継ぎ計画ノートを胸に抱えた。
レース場の風が、三人の間を通り抜けた。
怖さは、きっとまた来る。でも、止まっても。また、一歩。
後輩ちゃんは笑った。今度は、少しだけ誇らしげに。