4話・走るお花を見た
翌朝、何も起きていないように見えた。
少なくとも、最強メンタル計画ちゃんの部屋では。
昨日の夜、赤ペン先生は机の上の瓶をすべて回収した。スポイトも回収した。閉じかけていたノートも開いて確認した。
そこには、こう書かれていた。
最強復刻メンタル計画・自然回帰編
・もっとやさしいもの
・もっとかわいいもの
・自然
・お花
赤ペン先生は、そこに赤を入れた。
お花
→ 相談してから。
かわいい
→ 安全とは限らない。
栄養剤っぽい液体
→ ぽい、で作らない。
液体を外に捨てない。
処理は処理ではなく報告。
最強メンタル計画ちゃんは、黙って頷いた。たづなさんへの連絡もした。夜のうちに、簡単な報告だけは済ませた。
ただ、その時点では外に異常は見当たらなかった。
花壇も静か。植え込みも静か。小さな花が一つ、少しだけ元気そうに見えたかもしれない。でも、その程度だった。
だから、たづなさんは翌朝確認することにした。
そして、朝が来た。
朝の寮。いつもの時間。いつもの廊下。いつもの足音。朝食へ向かうウマ娘たち。トレーニングへ向かうウマ娘たち。
最強メンタル計画ちゃんと赤ペン先生も、部屋を出た。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ大人しかった。赤ペン先生は、少しだけ警戒していた。
でも、何かが走り回っている気配はない。何かが香っている気配もない。
「何も起きてないね」
赤ペン先生が言った。
「ん」
「本当に何も起きてないなら、それが一番いい」
「ん」
「昨日のは、もうしない」
「しない」
「窓から捨てない」
「捨てない」
「お花は」
「相談」
「よし」
二人は、廊下を歩いた。
その時だった。
曲がり角の先に、一人、座り込んでいるウマ娘がいた。
その子は、壁に背を預けて座っていた。
倒れている、というより、力が抜けたように座っている。目は閉じている。口元は、少しだけ緩んでいる。
幸せそうだった。
赤ペン先生は、足を止めた。最強メンタル計画ちゃんも止まった。
「寝てる?」
「こんなところで?」
赤ペン先生は、近づきすぎないように距離を取りながら声をかけた。
「大丈夫?」
その子は、ゆっくり目を開けた。まだ半分夢の中にいるような顔だった。
「あ……」
「大丈夫? 気分悪い?」
「悪くは、ない……」
「何があったの?」
その子は、少しだけ視線を泳がせた。
「いい匂いがして」
赤ペン先生の眉が少し動いた。最強メンタル計画ちゃんの耳も動いた。
「いい匂い?」
「うん……お花みたいな……」
赤ペン先生が、最強メンタル計画ちゃんを見た。最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ目を逸らした。
「それで?」
「廊下の向こうに……小さい花があって……」
「花?」
「うん。かわいくて……近づいたら……」
その子は、ふわっと笑った。
「踊ってた」
「踊ってた?」
「うん……すごく……キレがよくて……スピカさんみたいで……」
そこで、その子の目がまた閉じかけた。
「待って。寝ないで。どっちに行った?」
「……あっち……」
指が、廊下の奥を指す。それから、また幸せそうに眠ってしまった。
赤ペン先生は、ゆっくり立ち上がった。最強メンタル計画ちゃんを見る。
「今の」
「お花」
「踊ってたって」
「かわいい」
「そういう感想じゃない」
「キレがいい」
「そこでもない」
赤ペン先生は、深呼吸した。
「たづなさんに連絡」
「ん」
「それから、あっちには行かない」
「確認」
「行かない」
「遠くから」
「行かない」
最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。でも、耳は廊下の奥を向いていた。赤ペン先生は、それに気づいていた。
たづなさんへ連絡しようとした、その時。
廊下の奥から、別の声が聞こえた。
「え、何これ、かわい——」
そこで声が止まった。少し遅れて、どさ、と軽い音がした。
赤ペン先生と最強メンタル計画ちゃんは、顔を見合わせた。
「今の」
「二人目」
「数えない」
二人は、慎重に廊下の奥へ進んだ。もちろん、近づきすぎないように。
角を曲がる。
そこに、二人目がいた。床に座り込んでいた。笑顔だった。
その少し先に、三人目もいた。こちらは、廊下の真ん中で仰向けになっている。やっぱり笑顔だった。
赤ペン先生は、額に手を当てた。
「増えてる」
「幸せそう」
「幸せそうだからいい、ではない」
「怪我はなさそう」
「それは大事。でも、よくない」
三人目の子が、うっすら目を開けた。
「……ダンス……」
赤ペン先生がしゃがむ。
「ダンス?」
「お花が……こう……」
その子は、手を動かそうとした。しかし、力が抜けている。
「ステップが……スピカさんみたいで……なんで……花なのに……」
「どこに行った?」
「……速かった……ステップが……」
また目を閉じた。
赤ペン先生は、顔を上げた。
「速いらしい」
「お花」
「花なのに、って言われてる」
「元気」
「元気で片づけない」
その時、廊下の向こうから、ぱたぱた、という小さな音が聞こえた。
足音のような。でも、軽すぎる。小さすぎる。
赤ペン先生は、動きを止めた。最強メンタル計画ちゃんも、耳を立てた。
音は、すぐに遠ざかった。見えない。でも、何かがいる。
「……たづなさんに連絡。今すぐ」
「ん」
赤ペン先生は、たづなさんへ連絡を入れた。状況を簡潔に伝える。
廊下で幸せそうに倒れている子が複数。証言。いい匂い。お花。踊っていた。速い。最強メンタル計画ちゃんが昨日、栄養剤っぽい液体を窓から捨てた。
たづなさんの沈黙が、通信の向こうから伝わってきた気がした。
『分かりました。そちらへ向かいます。近づかないでください』
「はい」
『特に、最強メンタル計画ちゃんを近づけないでください』
「はい」
赤ペン先生は、横を見る。
最強メンタル計画ちゃんは、廊下の奥を見ていた。
「聞こえた?」
「近づかない」
「そう」
「見るだけ」
「見ない」
「遠くから」
「見ない」
「お花」
「今は危険物」
「かわいいかも」
「かわいいかどうか以前に危険物」
最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。しかし、その目は落ち着かない。
自分が作ったかもしれないもの。いや、実際には作ったつもりはない。試作品の液体を処理しただけ。でも、その液体が何かを変えた可能性がある。そして、その何かが今、学園の廊下を走っている。
最強メンタル計画ちゃんは、ぎゅっとノートを抱えた。
「回収」
「一人でしない」
「ん」
「絶対に」
「ん」
たづなさんが来るまで、二人は周囲の様子を確認することにした。ただし、距離を取る。
倒れている子たちは、近くにいた別の生徒に保健室へ運んでもらう。幸せそうに眠っているだけで、怪我はない。それが少しだけ救いだった。
廊下から中庭へ出ると、空気が変わった。
朝の光。少し湿った土の匂い。花壇のあたりは、いつも通りに見える。
でも、中庭のベンチに一人、倒れている子がいた。ベンチに横になって、満足そうな顔をしている。
その足元に、花びらが一枚落ちていた。
「花びら」
「色」
「見覚えある?」
「昨日の液体に似てる」
「色が?」
「少し」
最強メンタル計画ちゃんは、花びらを見ようとして、一歩前に出かけた。赤ペン先生が腕を掴む。
「近づかない」
「花びらだけ」
「花びらだけ、がもう危ないかもしれない」
「ん」
二人は距離を保ったまま、花びらを見る。
小さい。淡い色。端がほんの少し青紫に光っているように見える。
風もないのに、花びらが少しだけ揺れた。
「動いた?」
「動いた」
「花びらだけでも?」
「元気」
「元気じゃない」
その時、中庭の向こう側から声がした。
「待って! そっち行った!」
別のウマ娘が走っていた。何かを追いかけている。いや、何かに追いつこうとしている。
その前方。地面近くを、小さな影が走っていた。
花だった。
小さな花が、走っていた。
根っこが土から抜けている。その根っこが、細い足のように動いている。ぱたぱた、と軽い音を立てて、中庭の端を駆けていく。
花びらは朝の光を受けて揺れていた。揺れ方が、風ではなかった。一定のリズムがある。小さく跳ねる。くるりと回る。また走る。
追っているウマ娘が、目を丸くしていた。
「ちょ、速っ……!」
花はベンチの下をくぐる。追っている子は、回り込む。花は花壇の縁に飛び乗る。根っこで着地する。そのまま、くるんと一回転した。
妙にキレがよかった。
追っていた子が、一瞬見とれた。
赤ペン先生が、遠くから叫んだ。
「見ないで!」
遅かった。
花が、ふわっと香った。距離があるのに、かすかに甘い匂いが届いた。
追っていた子は、息を切らしていた。走った直後だった。その香りを深く吸ってしまったらしい。
香りが、何かを思い出させた。
「あ……この匂い……スピカさん……」
その子は、膝から崩れた。にこやかなまま、その場に座り込んだ。
花は、その子の前で小さくステップを踏んだ。右。左。くるり。
まるで、お礼のダンスのようだった。
そして、また走り出した。
赤ペン先生は、口を開けたまま固まった。
最強メンタル計画ちゃんは、目を輝かせかけていた。
「踊った」
「見た」
「かわいい」
「危険」
「キレがいい」
「危険」
「速い」
「危険」
「お花」
「危険物」
赤ペン先生は、改めて理解した。
これは、花だ。でも、ただの花ではない。
走る。香る。踊る。見た子が落ちる。近づいた子が落ちる。追った子が落ちる。
そして、たぶん、捕まえようとしたらもっと危ない。
赤ペン先生は、最強メンタル計画ちゃんの袖を掴んだ。
「追わない」
「捕まえる」
「追わない」
「作ったかも」
「だからこそ追わない」
「回収」
「今、追った子が落ちたでしょ」
「でも」
「あなたが追ったら全力で行くでしょ」
「ん」
「息が切れるでしょ」
「ん」
「そこに香りが来るでしょ」
「……」
「落ちるよ」
最強メンタル計画ちゃんは、少し黙った。理屈は分かったらしい。でも、視線は花を追っている。
花は、中庭の向こうへ走っていった。ぱたぱた。ぱたぱた。小さいのに、妙に速い。
その後ろ姿は、かわいかった。
かわいいだけでは済まなかった。