5話・マグカップの花

廊下の奥へ花が消えたのとほぼ同時に、赤ペン先生の端末が鳴った。

発信者は、後輩ちゃんの担当トレーナーではない。後輩ちゃんと同じ寮の一年生だった。

『あの、後輩ちゃんが部屋で倒れてて……!』

赤ペン先生の表情が変わった。

「後輩ちゃん?」

最強メンタル計画ちゃんも、すぐに反応する。

「後輩ちゃん」

『怪我はなさそうなんですけど、すごく幸せそうで……机の上に、花が……』

赤ペン先生は、目を閉じた。

「分かった。すぐ行く。でも花には近づかないで。部屋の外で待ってて」

『は、はい!』

通話を切る。

最強メンタル計画ちゃんは、もう走り出しそうになっていた。赤ペン先生が腕を掴む。

「待って」

「後輩ちゃん」

「行く。でも落ち着いて」

「後輩ちゃん」

「分かってる。だから落ち着いて」

最強メンタル計画ちゃんは、ぎゅっと拳を握った。耳が下がっている。自分のせいかもしれない。その感情が、顔に出ていた。

赤ペン先生は、少しだけ声を柔らかくした。

「怪我はなさそうって言ってた」

「……ん」

「幸せそうって」

「……ん」

「でも、ちゃんと確認しよう」

「……ん」

二人は、一年生寮へ急いだ。ただし、走りすぎないように。花の香りを吸わないように。深呼吸しすぎないように。


少し前の話

その少し前、後輩ちゃんは、部屋で勉強していた。

試験の前倒しがあった。ノートを見直す予定だった。窓から朝の光が入っていて、悪くない気分だった。

机の上には、最強引き継ぎ計画ノートが置いてある。先輩からもらったもの。ページを開いたまま、参照しながら自分のノートに追記している。

廊下から何か騒がしい声が聞こえたが、外の話だった。

朝ご飯を食べてきた子が何か言い合っているのかな、と思った程度だった。

その時、机の上に、小さな花が現れた。

後輩ちゃんは、最初、気づかなかった。ノートを見ていたから。

でも、マグカップのそばで何かが動いた気がして、顔を上げた。

小さな花が、マグカップの縁に引っかかるようにして、じっとしていた。

根っこが少し乱れている。走ってきたのかもしれない。花びらが、ほんの少しだけ動いた。まるで、息を整えているような動きだった。

後輩ちゃんは、しばらくそれを見た。

かわいかった。

すごく、かわいかった。

先輩が、またお花を作ったのかもしれない。そう思った。

前に、先輩と一緒にお花を作ったことがある。あの時も、きれいだった。先輩は、いつも面白いものを作る。変なものも多いけれど、見るたびに、先輩らしいと思う。

後輩ちゃんは、そっと声をかけた。

「……かわいい」

花が、ぴくっと動いた。

まるで、聞こえたみたいだった。

後輩ちゃんは、もう少し近づいた。

花は、マグカップの縁でしばらく静止していた。

それから、ゆっくりと、動き始めた。

花が、踊り始めた。

マグカップの縁から飛び降りて、机の上でステップを踏む。

右。

左。

小さくジャンプ。

くるり、と回転。

花びらが、光を受けて揺れる。

後輩ちゃんは、目を丸くしていた。

かわいい。

でも、それだけじゃない。

踊り方が、どこかを知っている。リズムが合っている。軸が、ぶれない。

後輩ちゃんは、思った。

スピカさんみたいだ、と。

あのお方が踊る時のように、重心が低くて、でも伸びがある。こう、ぐっと踏んで、すっと抜ける感じ。

先輩が、スピカさんのことをとても好きなのを、後輩ちゃんは知っている。最強メンタル計画も、それが全部の始まりだと聞いた。

この花も、そこから来ているのかもしれない。

後輩ちゃんは、花を見ながら思った。先輩みたいだ、と。

先輩は、いつもすごいものを目指している。倒れながらも、また立ち上がって、また新しいものを作る。後輩ちゃんが知っている人の中で、一番諦めない人だと思う。

花が、ステップを変えた。

もっと細かく。もっと速く。

後輩ちゃんは、近くで見ようとして、少し体を前に倒した。

その時、花びらがふわっと揺れた。

甘い匂いがした。

優しい匂いだった。いい匂いだった。

後輩ちゃんは、深く息を吸った。

勉強の疲れが少しあったから、良い匂いが体に馴染んだ。

頭が、少しだけふわふわした。

後輩ちゃんは、目をぱちぱちとさせた。

変だな、と思った。眠くはなかったはずなのに。

でも、花が踊っている。

スピカさんみたいな花が踊っている。

先輩が作ったかもしれない花が、目の前で踊っている。

後輩ちゃんは、こう思った。

これは、メンタルに良さそう。


後輩ちゃんは、最強引き継ぎ計画ノートを手に取った。

先輩から引き継いだこのノートには、最強メンタル計画の記録が書いてある。先輩の文字で、いろんな計画と失敗と赤字が並んでいる。

後輩ちゃんは、一ページだけ白紙があるのを知っていた。

引き継ぎ式の日に、先輩が「後輩ちゃんが最強メンタル計画を引き継ぐなら、続きを書いていい」と言ったページ。

後輩ちゃんは、そのページを開いた。

ペンを持つ。

花が踊っている。見ながら考える。

先輩の失敗を読むと、いつも「刺激が来るから落ちる」という構造がある。でも、自分の場合は少し違う気がする。

後輩ちゃんは、ノートに書いた。


自分の場合:

刺激そのものより、

「誰が、どんな意味で向けているか」

の方が来る気がする。

先輩から来ると思ったら、全部が違う重さになる。

スピカさんみたいだと思ったら、全部が違う色になる。

つまり——


そこで、後輩ちゃんの手が止まった。

花が、踊りながらこちらに近づいてきていた。

机の端で、小さくジャンプする。

かわいい。

後輩ちゃんは、続きを書こうとした。

でも、花が近いと、匂いも少し強い。

ふわふわが、強くなる。

後輩ちゃんは、ペンを握ったまま、少しだけ考えた。

先輩はいつも、スピカさんのことで落ちる。

自分は今、スピカさんみたいな花を見ながらふわふわしている。

ということは。

ということは、これはもしかして——

後輩ちゃんは、急いでノートに書いた。


敵はうつ!


書いた。

書いたのに、花が目の前でくるりと一回転した。

花びらがまた揺れた。

匂いが来た。

先輩への信頼が来た。

スピカさんへの記憶が来た。

それらが全部、同時に来た。

後輩ちゃんは、ノートを大事に抱えたまま、満足したように目を閉じた。

椅子からゆっくりと床に落ちた。

倒れる直前、小さく言った気がした。

「……かわいかったです」

花は、机の上でもう少しだけ踊っていた。

後輩ちゃんには、聞こえていない。

一方通行だった。

発見

後輩ちゃんの部屋の前には、数人の一年生が集まっていた。みんな不安そうにしている。

赤ペン先生が声をかける。

「入った?」

「入ってません。花に近づかないでって言われたので」

「えらい」

赤ペン先生は、本当にそう言った。

後輩ちゃんの部屋の扉は開いていた。中を見る。

後輩ちゃんは、床に座り込むようにして倒れていた。ベッドの近く。怪我はない。表情は幸せそう。

手には、最強引き継ぎ計画ノートが抱えられていた。胸に大事そうに抱いたまま、眠っている。

最強メンタル計画ちゃんの顔が少しだけ歪んだ。

「後輩ちゃん……」

赤ペン先生は、部屋の中を確認する。

机の上。マグカップ。そこに、花が挿してある。

いや、挿してあったらしい。

今は、マグカップが少し傾いている。水が少しこぼれている。花は、いない。

ただ、花びらが一枚だけ机の上に残っていた。

部屋の中には、ほんのりと良い匂いが残っている。甘くて、やさしい匂い。深く吸ってはいけない匂い。

赤ペン先生は、口元を袖で覆った。

「後輩ちゃん、聞こえる?」

後輩ちゃんの耳が少し動いた。目が、うっすら開く。

「……せんぱい……」

最強メンタル計画ちゃんが、一歩近づきかける。赤ペン先生が止める。

「ここは私が」

後輩ちゃんは、まだぼんやりしている。

「机に……お花があって……」

「うん」

「先輩が……置いてくれたのかなって……」

最強メンタル計画ちゃんは、唇を結んだ。

「きれいで……いい匂いで……」

「うん」

「ぴょんって……出てきて……踊って……」

後輩ちゃんの口元が、また少し緩む。

「すごく……かわいくて……スピカさんみたいで……先輩みたいで……」

そこで、また目が閉じた。幸せそうに。

最強メンタル計画ちゃんも、赤ペン先生も、しばらく黙っていた。

後輩ちゃんにとって、その花は危険物ではなかった。

机の上にある、綺麗なお花。先輩が置いてくれたかもしれないもの。過去に一緒にお花を作った記憶。最強引き継ぎ計画ノート。先輩への信頼。

そこに、香りと踊りと、スピカさんを想起させる動きが重なった。

防御できるはずがなかった。

赤ペン先生は、小さく言った。

「信頼を刺激倍率にしないで……」

最強メンタル計画ちゃんは、小さく肩を震わせた。

「……ごめん」

後輩ちゃんは、眠っている。たぶん聞こえていない。

それでも、最強メンタル計画ちゃんは言った。

「……ごめん」

赤ペン先生は、後輩ちゃんを安全な位置へ移動させながら、床に落ちていたノートを拾った。

大事そうに抱かれていたノート。最強引き継ぎ計画ノート。

落としてしまったらしい。

表紙が見える。

中を見てはいけない気がしたが、開いたページが広がっていた。

最後のページ。後輩ちゃんの文字。


自分の場合:

刺激そのものより、

「誰が、どんな意味で向けているか」

の方が来る気がする。

先輩から来ると思ったら、全部が違う重さになる。

スピカさんみたいだと思ったら、全部が違う色になる。

つまり——

敵はうつ!


赤ペン先生は、少しだけ目を細めた。

分析は合っている。書いた内容は正しい。

でも、書いた後に落ちている。

最強メンタル計画ちゃんが横から見た。

「……後輩ちゃん」

「うん」

「分析してた」

「してたね」

「でも落ちた」

「そうだね」

「敵はうつ、ってノートにある」

「書いてから落ちたみたい」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ後輩ちゃんを見た。

「間に合わなかった」

「そういうこと」

「でも書いた」

「書いたね」

最強メンタル計画ちゃんは、少し考えた。

「後輩ちゃん、強い」

「気絶したけどね」

「気絶したけど書いた」

「……うん」

赤ペン先生は、ノートをそっと後輩ちゃんの傍らに戻した。

起きたら、見せてあげよう。

あなたの分析は、間違っていなかった、と。

ただ、書いた直後に来た。

それが今回の問題だった。

後輩ちゃんを安全な位置へ移動させ、窓を開けて換気する。ただし、外の様子には注意する。

花はすでにいない。

赤ペン先生は、一年生たちに説明した。

「花を見つけても近づかない。追わない。触らない。いい匂いがしても深く吸わない。踊っていても見続けない」

「踊っていても見続けない、って何ですか……?」

「今はそのまま覚えて」

「はい……」

その時、廊下の遠くから悲鳴が上がった。

「いた! こっち!」

また別の声。

「速い速い速い!」

ぱたぱた、という小さな音。

赤ペン先生と最強メンタル計画ちゃんは、廊下へ出た。

遠くの角。そこから、小さな花が飛び出してきた。

根っこが足のように動いている。マグカップに挿せるくらいの小さな花。でも、速い。廊下をぱたぱたと走り、途中でくるりと回る。

追っていた一年生が思わず足を止めた。

花が、そこで小さく踊った。

右。左。くるり。花びらが、朝の光を受けて揺れる。香りが、廊下に広がる。

追っていた一年生の顔が、ふにゃっと緩んだ。

「あ……かわい……」

赤ペン先生が叫ぶ。

「見ない!」

最強メンタル計画ちゃんが、前に出ようとする。赤ペン先生が、また止める。

「追わない!」

「でも」

「追わない!」

花は、二人の前を横切った。ほんの一瞬。近くを通っただけで、良い匂いがした。

最強メンタル計画ちゃんの目が少し揺れる。

赤ペン先生は、最強メンタル計画ちゃんの肩を掴んだ。

「吸わない」

「……いい匂い」

「言わない」

「……踊り」

「見ない」

「……キレが」

「評価しない」

花は、廊下の奥へ消えていった。ぱたぱた。ぱたぱた。

その後ろで、追っていた一年生が幸せそうに座り込んだ。

赤ペン先生は、ゆっくり息を吐いた。

「対象、確認しました」

端末を取り出し、たづなさんへ追加連絡を入れる。

通信の向こうで、たづなさんが短く返した。

『特徴は』

赤ペン先生は、廊下の奥を見た。最強メンタル計画ちゃんは、黙ってその隣に立っている。

「走る花です」

少し間があった。

『……走る花』

「香ります」

『……香る』

「踊ります」

『……踊る』

「キレがいいです」

さらに長い沈黙。

『……分かりました。台帳を持って向かいます』

赤ペン先生は、通信を切った。

廊下の奥で、また小さく、ぱたぱたという音がした。

花は、まだ走っていた。

そして、それは一本ではなかった。