6話・捕まえた後がだめ

たづなさんが来るまでの間に、廊下には簡易的な封鎖線が張られた。

正確には、封鎖線というほど大げさなものではない。

近くにいた生徒たちが、椅子や掲示板や掃除用具入れを動かして、廊下の端を軽く塞いだだけだった。

だが、それだけでも十分に異常だった。

対象は、花。

花を止めるために、廊下が封鎖されている。しかも、誰も近づけない。

走る。香る。踊る。見た子が落ちる。追った子が落ちる。今のところ、怪我人はいない。それだけが救いだった。

赤ペン先生は、廊下の中央に立ち、周囲のウマ娘たちへ声をかけていた。

「見つけても追わないで」

「でも、花ですよね?」

「花だけど追わないで」

「走ってますよ?」

「だから追わないで」

「捕まえればいいんじゃ……」

「捕まえた後が分からないから、まだだめ」

その時点では、赤ペン先生もまだ分かっていなかった。捕まえた後が、一番だめだということを。

最強メンタル計画ちゃんは、少し後ろに立っていた。

黙っている。いつもより、ずっと黙っている。耳は下がっていた。手にはノート。さっきまで胸に抱えていたが、今はぎゅっと握っている。

後輩ちゃんが巻き込まれた。学園の子たちも巻き込まれた。幸せそうだった。怪我はなかった。でも、自分が窓から捨てた液体が原因かもしれない。それを思うと、何も言えなかった。

廊下の向こうで、また声が上がった。

「いた!」

全員がそちらを見る。

廊下の角から、小さな花が飛び出した。根っこが足のように動いている。ぱたぱた。ぱたぱた。机の脚の間を抜け、壁際を走り、掲示板の下をくぐる。

速い。小さいのに、速い。そして、妙に軽やかだった。

「こっち来る!」

誰かが言った。

「下がって!」

花は、廊下の真ん中で一度止まった。花びらが揺れる。くるり。小さく一回転。その場で、左右にステップを踏む。

とても短い。ほんの数秒。それだけで、近くにいた子が二人、顔を押さえた。

「見ない!」

赤ペン先生の声で、二人は慌てて目を逸らした。ぎりぎりだった。

花はまた走り出した。封鎖線の隙間へ向かって。

「まずい!」

赤ペン先生が動こうとした瞬間、別のウマ娘が前に出た。

「速さなら任せて!」

短距離を得意とする子だった。反応が速い。判断も速い。足も速い。

赤ペン先生が止めるより早く、彼女は花を追って走り出していた。

「待って、追わないで!」

「大丈夫! すぐ捕まえる!」

花は廊下を駆ける。短距離の子が追う。

速度が違う。花は速い。しかし、ウマ娘の全力には届かない。

曲がり角まであと少しというところで、短距離の子の手が届いた。

「捕まえた!」

両手で、花を包む。

その瞬間だった。

花が、ふわっと香った。

走った直後。息が上がっている。呼吸が深い。短距離の子は、その香りを深く吸ってしまった。

「あ……なんか、この匂い……スピカさんみたいで……」

手の力が緩む。

その隙間から、花が少しだけ顔を出した。花びらが開く。根っこが、手の上で小さくステップを踏む。くるり。右。左。小さいのに、キレがいい。

「……かわい……」

短距離の子は、そのまま廊下にふにゃっと崩れた。

花は、するりと手の中から抜け出した。そして、また走り出す。

赤ペン先生は、目の前で起きた一連の流れを見ていた。

追いついた。捕まえた。でも、落ちた。花は逃げた。

「捕まえた後がだめ?」

小さく呟いた。

最強メンタル計画ちゃんが、その横で花を見ている。今にも走り出しそうだった。

「追わない」

「でも」

「今見たでしょ」

「捕まえた」

「捕まえた後がだめだった」

「香り」

「そう。全力で追った後だから吸う」

「手が緩む」

「そこにダンス」

「キレがいい」

「評価しない」

花は、また廊下の奥へ消えた。

短距離の子が保健室へ運ばれる間に、別の子が手を挙げた。

「全力で追うからだめなんですよね」

長距離を得意とする子だった。落ち着いた声だった。

「息が上がるから香りを吸ってしまう。なら、ゆっくり追い込めばいいんじゃないですか」

赤ペン先生は、少し考えた。理屈は分かる。だが、危ない。

「たづなさんが来るまで待って」

「でも、このままだと寮の方に行きます」

廊下の奥。花は、確かに別棟へ向かっているように見える。人が多い方へ行かれると、被害が増える。

赤ペン先生が迷った、その瞬間。

長距離の子は、走り出していた。

全力ではない。息が上がらない程度。でも、花の進路を読むように、じわじわ追っている。

花は逃げる。角を曲がる。長距離の子は、その内側を抑える。花が戻る。別の廊下へ向かう。長距離の子は、そこへ先回りする。

うまい。追い方がうまかった。

花は、少しずつ行き場を失っていく。廊下の端。壁際。

長距離の子が、息を整えながら近づく。

「ほら、こっち」

声も静か。刺激しない。

花が、ぱたぱたと左右に動く。逃げ道を探す。

長距離の子が、両手を広げる。そっと。今度は、全力疾走ではない。呼吸も乱れていない。

これなら。

赤ペン先生が、少しだけそう思った。

花が、くるりと回った。甘い香りが広がる。

長距離の子は、息を止めようとした。しかし、追い込みは長かった。呼吸は深くなっていた。短距離の全力とは違う。でも、長く追った分、体は酸素を欲しがっていた。

香りを少し吸う。何かを思い出す。あの感じ。スピカさんの……。目が緩む。手が緩む。

花がステップを踏む。くるり。右。左。前へ。なぜか、最後の一歩だけ妙に鋭い。

「……あ、これ……スピカさんみたい……」

長距離の子も、穏やかにその場へ崩れた。花は、その横を通り抜けていく。

赤ペン先生は、もう一度理解した。

「追い方を変えても、最後に吸う……」

最強メンタル計画ちゃんが、小さく言った。

「すごい」

「言わない」

「逃げ方」

「褒めない」

「ダンス」

「褒めない」

次に動いたのは、差し脚に自信のある子だった。

「なら、追い続けないで、最後だけ捕まえればいいんじゃない?」

赤ペン先生は、すぐに止めた。

「だめ」

「でも、息を切らさないなら」

「だめ」

「ちょっとだけだから」

「だめ」

しかし、花はその子の近くを横切った。

反射だった。差しの子は、ほとんど一歩だけで距離を詰めた。すばらしい反応。すばらしい踏み込み。すばらしい手の伸び。

花を、捕まえた。

「ほら!」

その笑顔が、次の瞬間、ふにゃっと緩む。

花が香った。一瞬だけの踏み込みでも、息は動く。呼吸は乱れなくても、集中のあとに息を吸う。そこへ香り。スピカさんみたいな、あの匂いが。手が緩む。花が踊る。

差しの子は、顔をほころばせたまま、その場へ座り込んだ。

赤ペン先生は、額を押さえた。

「捕獲成功が、気絶条件になってる……」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ顔を上げた。

「条件」

「メモしない」

「でも」

「メモしない」

「重要」

「重要だけど、あなたがメモすると次に活かそうとする」

「……」

「しない」

「……ん」

たづなさん到着

たづなさんが到着したのは、その直後だった。

走ってきたわけではない。しかし、早かった。

手には台帳。脇には、簡易マスクと布と網のようなもの。後ろには、何人かの職員とトレーナーがいる。

たづなさんは、廊下の様子を一目で確認した。幸せそうに座り込んでいる短距離の子。壁にもたれて寝ている長距離の子。廊下に座っている差しの子。そして、廊下の奥をぱたぱた走る小さな花。

「状況は」

赤ペン先生が答える。

「対象は花です」「はい」「根っこで走ります」「はい」「速いです」「はい」「追いつくこと自体はできます」「はい」「捕まえた瞬間、香ります」「……はい」「追跡直後なので、吸います」「……はい」「手が緩みます」「……はい」「そこで踊ります」「……踊る」「キレがいいです」

たづなさんのペンが止まった。それから、何事もなかったように書き続けた。

「続けてください」

「見た子が落ちます」「はい」「捕まえた子も落ちます」「はい」「花は逃げます」「はい」「攻撃性は、たぶんありません」「……ありませんか」「たぶん。追われたり捕まったりすると、サービスみたいに踊っているように見えます」

たづなさんは、一度だけ目を閉じた。

「サービス」

「たぶん」

「分かりました」

たづなさんは台帳に書いた。そのまま書いた。その表情は、いつものたづなさんだった。ただし、目の奥が少し疲れていた。

最初の作戦は、網だった。近づかず、遠くから被せる。

網を持った職員が、廊下の両側に立つ。花は、廊下の中央を走っている。小さい。速い。でも、進路を読めばいけるかもしれない。

「今です」

たづなさんの声。網が投げられた。

花は、直前で止まった。根っこが床を叩く。ぱた。そして、横へ跳ねる。

網は、何もない床を覆った。

花は、網の横でくるりと回った。小さくステップ。まるで、避けられたことを喜んでいるようだった。

網を投げた職員が、一瞬見てしまう。

「視線を外してください」

たづなさんが即座に言う。職員は目を逸らす。ぎりぎりだった。

花は、ぱたぱたと逃げる。

作戦一、失敗。

次は、布。視線を遮る。香りも少しは抑えられる。大きめの布を、上からかぶせる作戦だった。

花は、廊下の端にいる。布を持った二人が、慎重に距離を詰める。走らない。息を乱さない。視線を合わせない。

布を広げる。花は、その場で揺れている。かわいい。非常にかわいい。かわいいから危ない。

「目を合わせないでください」

二人は頷く。布をかぶせる。成功したように見えた。

布の下で、何かが動く。ぱたぱた。ぱたぱた。布が小さく膨らむ。次の瞬間、布の端から花が飛び出した。

布を持っていた一人が、反射的に見る。花が、目の前でくるりと踊った。香り。ステップ。幸せそうに崩れる。

「一名下がってください」

たづなさんの声は冷静だった。しかし、ペンの動きは速くなっていた。

作戦二、半分成功して失敗。

次は、箱。透明ではない箱。近づかず、進路上に置き、入ったところで蓋をする。

花は廊下の角へ追い込まれた。箱が置かれる。花は、そこへ入った。

入った。

全員が息を止めた。蓋が閉まる。

「成功?」

誰かが小さく言った。

箱の中で、ぱたぱたという音がした。次に、箱が少し動いた。根っこが、箱の内側を押しているらしい。ぱた。ぱた。箱が横へずれる。ふたが、少し浮く。

中から、花びらが一瞬だけ見えた。

近くにいた職員が慌てて蓋を押さえる。その瞬間、隙間から香りが漏れた。職員の手が緩む。蓋が開く。花が飛び出す。くるり。ステップ。職員が座り込む。箱は空。

作戦三、失敗。

赤ペン先生は、その一連の作戦を見ながら、最強メンタル計画ちゃんの袖を掴んでいた。

ずっと。離さなかった。

最強メンタル計画ちゃんは、何度も前に出ようとした。そのたびに止められた。

「だめ」「でも」「だめ」「私が」「だめ」「……作ったかもしれない」「だからだめ」「捕まえる」「あなたが一番落ちる」

最強メンタル計画ちゃんは、黙った。

でも、花がまた走り出した瞬間。

それは、赤ペン先生の手から少しだけ力が抜けた瞬間だった。

最強メンタル計画ちゃんが走った。

「待って!」

赤ペン先生の声。

「追わないでください!」

たづなさんも反応する。

でも、もう遅かった。

最強メンタル計画ちゃんは、花を追って走っていた。

速い。小柄なのに、速い。花も速い。ぱたぱた。ぱたぱた。

廊下を抜け、中庭へ出る。最強メンタル計画ちゃんは、呼吸を乱しながらも距離を詰める。

花は、花壇の縁を跳ぶ。最強メンタル計画ちゃんも跳ぶ。

あと少し。あと一歩。手が届く。

「捕まえた」

両手で、花を包んだ。

成功した。確かに成功した。

その瞬間、花がふわっと香った。

全速力で追った直後だった。息が切れている。吸ってしまう。スピカさんみたいな、あの匂い。

「……」

最強メンタル計画ちゃんの指先から、力が抜けた。

花が、手の中から少しだけ顔を出す。花びらが開く。根っこが、手の上で軽やかにステップを踏む。

右。左。くるり。

それから、ほんの一瞬、スピカさんの曲を思わせるようなリズムで跳ねた。

音はない。でも、分かる。キレがよかった。

最強メンタル計画ちゃんは、目を細めた。

「……いい、ダンス」

そのまま、幸せそうに崩れた。

花は、するりと手から抜け出し、ぱたぱたと走っていく。

赤ペン先生が駆け寄る。

「ほら!」

怒りと心配が混ざった声だった。

最強メンタル計画ちゃんは、膝をついたまま、幸せそうに目を閉じている。怪我はない。だが、完全に落ちている。

赤ペン先生は、花が逃げていくのを見送った。追わなかった。追えなかった。

そして、完全に理解した。

「これ、捕まえられないんじゃない」

たづなさんが近づく。

「どういう意味ですか」

赤ペン先生は、花が消えた方向を見た。

「捕まえられるんです」

「はい」

「追いつける子なら、捕まえられる」

「はい」

「でも、捕まえた瞬間に香る」

「はい」

「追った直後だから吸う」

「はい」

「手が緩む」

「はい」

「そこで踊る」

「はい」

「落ちる」

「はい」

「つまり」

赤ペン先生は、少しだけ疲れた顔で言った。

「捕獲成功が、気絶条件になってる」

たづなさんは、台帳にそのまま書いた。

そのまま書いた。

中庭には、幸せそうに眠るウマ娘が数人。救護担当が順番に運んでいる。

怪我はない。倒れ方も比較的安全だった。

花に攻撃性はない。ただ、接近者が落ちる。追跡者が落ちる。捕獲者が落ちる。そして、花は逃げる。

たづなさんは、しばらく考えた。それから言った。

「無理な捕獲は、二次被害が大きすぎます」

赤ペン先生は頷いた。

「そう思います」

「対象は、攻撃しているわけではない」

「たぶん」

「しかし、接近・追跡・捕獲のいずれにも反応がある」

「はい」

「現時点では、進路を制限し、人気の少ない場所へ誘導します」

「誘導」

「花壇へ」

赤ペン先生は、一瞬だけ最強メンタル計画ちゃんを見た。

最強メンタル計画ちゃんは、まだ幸せそうに眠っている。

たぶん、起きたら言うだろう。土がいい、とか。

赤ペン先生は、先にため息をついた。

「花壇に行ったら、住み着きませんかね」

たづなさんは、少しだけ沈黙した。

「……現時点では、走り回るよりはましです」

「そうですね」

たづなさんは、台帳を閉じた。

遠くで、ぱたぱたという小さな音が聞こえる。

花は、まだ走っている。

でも、その方向は、少しずつ花壇へ向かっていた。

まるで、そこに何かを感じているように。

栄養のある土。水。日当たり。トレセン学園の、よく手入れされた花壇。

花にとっては、きっと、良い場所だった。

良すぎる場所だった。