最強メンタル計画V5(嗅覚再現編)
── 私は諦めない ──
その日、トレセン学園の寮の一室には、妙な緊張感が漂っていた。
机の上には、整然と並べられた小瓶。
ラベルの貼られた香料瓶。
スポイト。
小さなガラス容器。
密閉袋。
折り畳まれたハンカチ。
そして、どこから調達してきたのか分からない、理科室にありそうな器具の数々。
部屋の主であるウマ娘は、白衣を着ていた。
正確には、本格的な研究用の白衣ではない。
どこか衣装感のある、なんちゃって白衣だった。
しかし本人は至って真剣だった。
鼻と口元にはマスク。
手にはスポイト。
目の前にはノート。
その表紙には、力強い筆跡でこう書かれている。
最強メンタル計画V5
「……音は、駄目だった」
彼女は静かに呟いた。
その声には、過去を振り返る研究者のような重みがあった。
「スピカさんの声を聞き慣れることで、精神を鍛える。理論としては完璧だった。でも、実際には強すぎた」
脳裏に蘇る。
切り抜きボイス。
囁き。
編集された「好きです」。
そして幸せそうに意識を手放した自分。
「映像も駄目だった」
次に思い出すのは、VRライブ。
最前列で食らった投げキッス。
目が覚めるたびに繰り返した気絶ループ。
「静止画も駄目だった」
天井。
自分を見下ろすスピカさん。
安心しながら意識を手放した記憶。
「造形は……」
そこで、少しだけ目を逸らした。
V4。
音も駄目。映像も駄目。静止画も駄目。
ならば、動かない立体物ならどうか。
そう考え、3Dプリンターでスピカ立体物を作ろうとした。
しかし、同室の子と寮長の突入により、初めて未遂で阻止された。
あれは惜しかった。
本当に惜しかった。
「でも、私は諦めない」
── 音ならば、濃度を調整できる ──
「音が駄目なら、映像。映像が駄目なら、静止画。静止画が駄目なら、造形」
スポイトを持つ手に、力がこもる。
「造形が駄目なら……」
彼女は、机の上に置かれた小瓶を見た。
「匂い」
その瞬間、彼女の目が輝いた。
「匂いなら、濃度を調整できる」
完全に間違った方向へ進んでいる者特有の、澄み切った目だった。
「音は、聞こえた瞬間に逃げられない。映像は、見た瞬間に焼かれる。静止画は、視線が合った瞬間に持っていかれる。造形は、存在感が強すぎる」
彼女は、ノートにペンを走らせる。
「でも匂いなら、薄められる。段階を踏める。空間に少しだけ漂わせることもできる。つまり、安全な慣らし訓練が可能」
違う。
その前提がもう違う。
だが、部屋には止める者がいなかった。
同室の子は、今日は用事で夕方まで帰ってこない。
寮長も見回りにはまだ来ない。
今この部屋には、彼女と、小瓶と、最強メンタル計画V5しか存在しない。
── スピカ概念香・基礎型 ──
「まず、必要なのは再現性」
彼女は密閉袋を手に取った。
袋の中には、きれいに畳まれたハンカチが入っている。
それは、イベント後の片付けで回収されたもの……ということになっている。
なぜ彼女の手元にあるのか。
そこは深く考えてはいけない。
彼女自身も、ノートにはこう書いていた。
入手経路:偶然
詳細:記録しない方がよい
本人の中では、ギリギリ理性が残っていた。
「スピカさんの清潔感。ステージ後の熱。少し汗の混じった、人間らしさ。けれど嫌な匂いではなく、むしろ安心するような……」
ぶつぶつと呟きながら、香料を選んでいく。
爽やかな香り。
柔らかい甘さ。
布の匂いに近いもの。
少しだけ温かみのあるもの。
小瓶を一つ、二つ、三つ。
スポイトで慎重に液体を移す。
ガラス容器の中で、透明な液体が揺れた。
ほんのりと香りが立つ。
マスク越しでも、彼女はその気配を感じ取った。
「……これは」
手が止まる。
彼女の耳が、ぴくりと動いた。
「かなり、近いのでは?」
何に近いのか。
彼女にも明確には分からない。
スピカさん本人の匂いを正確に知っているわけではない。
しかし、彼女の中にある"スピカ概念"に、確かに近づいている感覚があった。
「これだ……」
彼女は震える手でノートに書き込んだ。
試作品A:スピカ概念香・基礎型
名前がもう駄目だった。
しかし彼女は止まらない。
── LV2から始める理由 ──
段階設定を書く。
LV1:薄めた香りをハンカチに染み込ませる
携帯用。入門。
LV2:薄い芳香剤風
部屋に置く。空間にごく薄く漂わせる。日常的に慣れる。
LV3:服に付与
常時メンタルトレーニング。
LV4:マスク
香りを逃がさず、集中して吸入。精神統一用。
「完璧」
彼女は頷いた。
「段階的。安全。科学的」
どれも違う。
「最初はLV1……」
そこで彼女は、ふと手を止めた。
「いや、でも私はもうV1からV4まで経験してきた。完全な初心者ではない」
危険な自信だった。
「それに、LV1はハンカチに直接染み込ませる。手元で嗅ぐから、意外と距離が近い。むしろ空間に薄く漂わせるLV2の方が安全確認に向いているのでは?」
だが彼女は大真面目に頷いた。
「まずはLV2から」
── マスクでは正確な評価ができない ──
彼女は小さな陶器の皿に、試作品Aをほんの一滴だけ垂らした。
そして、さらに薄める。
何度も薄める。
本人なりに、安全係数をかけていた。
「これなら、かなり薄い」
マスク越しに嗅ぐ。
ほとんど分からない。
「……少し薄すぎる?」
そこで彼女は、もう一滴だけ加えた。
もう一滴だけ。
さらに、念のためもう半滴。
この"念のため"が、だいたい良くない。
皿を机の端に置く。
部屋に、ふわりと香りが広がり始めた。
甘すぎない。
強すぎない。
どこか清潔で、柔らかく、温かい。
ただし、それはあくまで人間基準なら、という話だった。
ウマ娘の鼻は、人よりずっと鋭い。
しかも彼女は今、スピカさんに脳を焼かれた状態で、スピカ概念を探しながら調香している。
ただの香りではない。
自分に一番刺さるように調整された、危険物である。
「……うん」
マスク越しの彼女は、慎重に部屋の空気を吸った。
「まだ、大丈夫」
耳が少し揺れる。
「薄い。これなら耐えられる」
尻尾がゆっくり左右に揺れた。
「もう少し、確認しても……」
彼女は机に向かったまま、ノートに記録する。
LV2試験開始
マスク着用状態では反応軽微
香りは薄い
安全性高め
そこで彼女は、静かに考えた。
「マスクをしていると正確な評価ができない」
彼女は真剣に言った。
「実験として、素の状態で確認する必要がある」
完全に駄目な判断だった。
彼女はゆっくりとマスクを外した。
その瞬間。
香りが、直接届いた。
「――っ」
息を吸ったのは、ほんの一度だった。
ほんの一度、深く吸い込んだだけ。
彼女の耳がぴんと立った。
尻尾が大きく揺れた。
そして、椅子の上で、静かに幸せそうな顔になった。
── ただいまー ──
「ただいまー……」
同室の子が廊下を歩いてきた。
そこで、足が止まった。
部屋のドアの前。
まだ開けていないのに、なにか感じた。
気のせいか、と思った。
でも、やめておいた方がいい気がした。
彼女は廊下でいったん立ち止まり、かすかに鼻を動かした。
ウマ娘の嗅覚は、人より鋭い。
何か、ある。
甘い。柔らかい。どこか聞き覚えのある……
「……やばい」
反射的に息を止めた。
慎重にドアをほんの少しだけ開けた。
すき間から部屋の中が見える。
友人が椅子の上で幸せそうにぐったりしている。
机の上には皿と小瓶。
そして、部屋全体にふわりと漂う、甘い香り。
「……また新種」
廊下に素早く引き下がり、深く息を吐いた。
一秒。二秒。三秒。
彼女は頭を整理した。
まず窓。まず換気。話はそこから。
息を止める。
一気に部屋へ入る。
足を止めずに、まっすぐ窓へ向かって全開にした。
すぐに部屋を出る。
廊下で新鮮な空気を吸う。
「はっ……はっ……」
思ったより体力を使った。
一回目の往復は、窓を開けただけだ。
二回目。
息を止めて入る。
机の上の小皿を確認する。
拡散源はここだ。
ハンカチで手を保護して、皿を素早く密閉袋へ入れた。
袋を縛る。
小瓶を別の袋に。
廊下に出る。
「はっ……っ……」
香りが微かに追ってきた気がして、思わず数歩退いた。
三回目。
今度は友人のそばへ。
肩を揺らす。
「大丈夫? 起きて。ちゃんと聞こえてる?」
「……んん……」
「起きて。換気したから。起きて」
「……スピカさんが……」
「いないから。換気したから。起きて」
「なんか……温かかった……」
「うん」
同室の子は、深いため息をついた。
三往復目で、ようやく友人の肩を摩りながら座っていられた。
部屋に外の空気が流れ込む。
それでも、まだほんのりと香りが残っている気がした。
こわい。
V1はヘッドホンを外せばよかった。
V2はゴーグルを外せばよかった。
V3は写真を剥がせばよかった。
でもこれは。
目に見えない。
どこに広がっているのかわからない。
換気し終わるまで、近づくたびに自分も危ない。
しばらくして、友人がゆっくり目を開けた。
「……ただいま」
「おかえり。何してたの」
「メンタルトレーニング」
「また?」
「V5」
「V5……」
同室の子は、机の上の試作ノートを見た。
試作品A:スピカ概念香・基礎型
「名前から既に駄目なの気づいてる?」
「気づいてなかった」
友人は少しだけ困った顔をした。
「あと」
同室の子は、密閉した袋を手に取った。
「このハンカチ。どこから来たの」
友人は一瞬だけ視線を逸らした。
「……偶然」
「偶然にしては匂いが具体的すぎない?」
「……記録しない方がよいと思ってる」
「私が聞いてる」
「……偶然」
同室の子は目を閉じた。
追及すると余計なことがわかる気がしたので、そこで止めた。
「とにかく、今日のことはたづなさんに報告する」
「はい……」
友人は、素直に頷いた。
同室の子は、窓を開けたまま机の上を片付けた。
それから、ふと振り返って言った。
「ねえ」
「なに」
「私がいない時を狙うのは、やめて」
友人は少しだけ黙った。
「……わかった」
その一言は、少し本物の反省を含んでいた。
少しだけ。
同室の子は、廊下に出て大きく息を吸った。
新鮮な空気が、ありがたかった。
掲示板:スピカ概念香というものが誕生したらしい
1:名無しのウマ娘
V5来た
2:名無しのウマ娘
何
3:名無しのウマ娘
嗅覚で耐性をつけようとした
4:名無しのウマ娘
えっ
5:名無しのウマ娘
香料を調合してスピカきゅんに関連する匂いを再現しようとした
6:名無しのウマ娘
再現できるの?
7:名無しのウマ娘
「かなり近い」と本人は言っていた
8:名無しのウマ娘
やばい
9:名無しのウマ娘
ノートのタイトルが「スピカ概念香・基礎型」
10:名無しのウマ娘
名前から終わってる
11:名無しのウマ娘
マスク着用で試験してたのに、「マスクでは正確な評価ができない」と外して即死
12:名無しのウマ娘
賢い
13:名無しのウマ娘
どっちの意味で
14:名無しのウマ娘
段階設定のLV4がマスク直接吸入らしい
15:名無しのウマ娘
LV4を上限にしてるのが謎の良心
16:名無しのウマ娘
入手経路:偶然 という謎の経路でハンカチがあった
17:名無しのウマ娘
追及するな案件
18:名無しのウマ娘
同室の子が「私がいない時を狙うのはやめて」と言ったらしい
19:名無しのウマ娘
気づいてたじゃないか
20:名無しのウマ娘
今後は一人にしてはいけない
21:名無しのウマ娘
でも常に一緒にいるわけにも
22:名無しのウマ娘
V1〜V5でメンタル計画の体系が出来上がってきてる
23:名無しのウマ娘
成長とは言えない何か
24:名無しのウマ娘
V6が怖い
25:名無しのウマ娘
複合型が来る
26:名無しのウマ娘
やめてください