資金難と外伝(バイト編)


── ない ──

「……ない」

机の前で、彼女は呟いた。

年明け最初のレース。

久々の一着。

仲間たちからの拍手。

そしてレース後、スピカさんのファンサで幸せそうに気絶。

それは、彼女にとって確かな成長の証だった。

最強メンタル計画は間違っていなかった。

方向性は多少、ほんの少し、極めて些細に、周囲から見れば致命的に間違っていたかもしれない。

だが、成果は出た。

ならば次に必要なのは何か。

さらなる研究。

さらなる改良。

そして――。

「……お金が、ない」

机の上には、空になった財布。


── V1からV5の請求書 ──

なぜお金がなくなったのか。

原因は明白だった。

V1。

音声編集ソフト。

高性能ヘッドホン。

防音用の謎スポンジ。

「形から入ることは大事」と買った、謎に高い作業用マグカップ。

V2。

VRゴーグル。

追加コントローラー。

臨場感を上げるための座椅子。

「ライブ鑑賞には雰囲気が必要」と買った、暗くなる間接照明。

V3。

高画質印刷。

額縁。

天井用の貼り付け器具。

「視線を感じる環境づくり」と称した、部屋の模様替え用品。

V4。

未遂。

ただし、3Dプリンターのレンタル予約金は戻ってこなかった。

V5。

白衣。

マスク。

ビーカー。

スポイト。

謎に本格的な保存瓶。

そして、香りの再現に使う各種材料。

彼女は一つ一つ思い返し、静かに目を閉じた。

「……無駄ではなかった」

いや、無駄だった。

かなり無駄だった。

少なくとも白衣は絶対にいらなかった。


── 今後の課題 ──

そこへ、同室の子が帰ってきた。

「ただいまー……って、また机に向かってる」

同室の子は、反射的に足を止めた。

机。

ノート。

真剣な背中。

この三つが揃った時点で、もう危険信号である。

「ねえ」

「うん」

「何してるの」

「資金計画」

「……資金?」

同室の子は、少しだけ警戒を緩めた。

音声でもない。

VRでもない。

画像でもない。

匂いでもない。

資金計画。

それなら、まだ大丈夫かもしれない。

「研究資金が尽きたの」

「研究をやめよう?」

「それは違う」

即答だった。

同室の子は天井を見た。

今年も始まったばかりなのに、もう疲れてきた。

「でも、全部没収されたでしょ」

「うん。だから一からやり直す」

「やり直さなくていい」

「でも、私はレースで勝てた」

「それは努力の成果であって、危険物の成果じゃないと思う」

「つまり、努力と危険物を組み合わせればもっと強くなれる」

「その結論に行かないで」

彼女は新しいノートを開いた。

そこには、こう書かれている。

今後の課題

一、没収されない研究形式を考える

二、安価な素材で実験する

三、資金源を確保する

四、同室にバレないようにする

同室の子は、無言で四番を指差した。

「これ」

「……消すね」

「消せばいいって話じゃない」

彼女は素直に四番を二重線で消した。

そして少し悩んでから、下に書き足した。

四、同室に心配をかけないようにする

「そういうことでもないけど、まだマシ」

「ありがとう」

「褒めてない」

彼女は真剣な顔で財布を持ち上げた。

中身は軽い。

とても軽い。

「バイトをしようと思う」

「……バイト」

同室の子は少し考えた。

危険物ではない。

研究ではない。

バイト。

「どこで?」

「学園の近くに、小さい喫茶店がある。そこが募集してた」

同室の子はしばらく黙った。

それから、静かに言った。

「……面接、練習する?」


── 前夜・赤ペンノート ──

面接の前の夜。

同室の子は、ノートを一冊持ってきた。

普通のノートだった。

表紙は何もない、ただの白い紙。

「これ、何?」

「メモ帳。バイト用」

同室の子はそのノートをテーブルに置き、ペンを取った。

いつも使っている赤いペンだった。

赤いペンで、ノートに書いていく。

挨拶のしかた。

返事の仕方。

困った時は正直に聞く。

勝手に判断しない。

お皿を割っても世界は終わらない。

でも割らないようにする。

そして最後の一文だけ、三重線が引かれた。

同室の子の字で、

落ち着いて

と書いてあった。

「これ、使って」

「……ありがとう」

「自分で作ってほしいところだけど、どうせ計画書みたいになるから私が作った」

彼女はノートを受け取って、しばらく眺めた。

赤いペン。

丸い字。

自分のためだけに書いてくれた文字。

「……これ、持っていく」

「持っていって」

「毎日、使ってもいい?」

「使って」

彼女は、ノートを大事そうに鞄にしまった。

同室の子は、その後ろ姿を見ながら思った。

次は没収じゃなくて、こういう形で関わる方がいいかもしれない。

ただそれは、まだ言葉にならなかった。


── 皿を洗うだけ ──

小さな喫茶店の厨房は、思っていたよりもずっと静かだった。

いや、静か、というより。

音が、やさしい。

カップを置く音。

お湯が流れる音。

布巾で水気を拭き取る音。

遠くの客席から聞こえる、低めの話し声。

時折、カラン、とドアベルが鳴る音。

トレセン学園の食堂や購買のような、たくさんの足音と声が重なる場所とはまるで違う。

その厨房で、彼女はエプロンをつけ、両手を胸の前で握りしめていた。

「……よし」

小さく息を吐く。

「緊張してる?」

声をかけてきたのは、この喫茶店のオーナーだった。

引退したウマ娘。

年齢は、彼女たちよりずっと上。

けれど背筋は伸びていて、動きに無駄がない。

現役時代の名残なのか、厨房の中を歩くだけでも、なんとなく足運びがきれいだった。

ただ、雰囲気はやわらかい。

レース場の鋭さではなく、長く湯気に包まれてきたような、あたたかさがある。

「は、はい。緊張してます」

「うん。正直でよろしい」

「よろしい、ですか」

「よろしいです。緊張してないふりをする子より、緊張してるって言える子の方が教えやすいからね」

オーナーはそう言って、シンクの前に立った。

「今日の仕事は、皿洗いから」

「はい」

「接客はまだしない。レジも触らない。注文も取らない。厨房の奥で、お皿とカップを洗うだけ」

「……だけ」

「そう。だけ」

だけ。

なんて平和な響きだろう。

彼女は内心、少しだけ感動した。

最強メンタル計画では、いつも「だけ」のつもりだった。

声を聞くだけ。

映像を見るだけ。

画像を見るだけ。

匂いを確認するだけ。

造形物を作るだけ。

その「だけ」が、なぜか毎回、封印案件になった。

でも皿洗いは違う。

皿を洗うだけ。

そこにスピカさんはいない。

本当に、皿を洗うだけ。


── 止まるのも、仕事 ──

オーナーが、シンクの前に立った。

「基本は、グラス、カップ、お皿、カトラリーの順。油汚れが強いものは別。木のトレーは水に長く浸けない。熱いものは無理に持たない。割れ物は片手で雑に持たない」

「はい」

「返事はいいね」

「はい」

「でも、返事だけで動かないこと。分からなかったら止まって聞く」

「はい」

「ここ、とても大事」

オーナーが少しだけ真面目な声になった。

「走ってる時は、自分で瞬時に判断しなきゃいけないことが多いでしょう?」

「はい」

「でも仕事は違う。特に最初は、止まるのも仕事。聞くのも仕事。確認するのも仕事」

「……止まるのも、仕事」

「そう。暴走しない」

「暴走……」

その言葉に、彼女は少し遠い目をした。

暴走。

心当たりがありすぎる。

最強メンタル計画V1。

V2。

V3。

V4。

V5。

どれも、たぶん最初の一歩で止まって誰かに聞いていれば、あそこまでの危険物にはならなかった。

いや、止まって聞いたところで、彼女は説明しながら自信満々に「安全です」と言っていた気もする。

だめだ。

過去の自分への信頼がない。

「何か考えてる?」

「……少し、心当たりがあって」

「暴走?」

「はい」

「うん。正直でよろしい」

オーナーは少し笑った。

「走るのが好きで、熱くなりやすい子は、たまにそうなる。一気にやろうとして、気づいたら周りが全然違う方向にいたりする」

「……スピカ、さんも、そういう経験を?」

彼女は思わず聞いてしまった。

オーナーは少しだけ黙った。

「スピカ、ね。ファンか」

「はい……あの、業務に関係ない話を……」

「いいよ。一回話してごらん」

彼女は少し迷って、それから、簡単に話した。

メンタルを鍛えたかったこと。

スピカさんの配信が助けになっていたこと。

それで、何か自分でもできないかと思って、計画を立てたこと。

全部封印されたこと。

オーナーは最後まで黙って聞いていた。

「……うん」

それから、ゆっくり言った。

「スピカさんの話は、私には分からない。でも、メンタルを鍛えたいって気持ちは、すごく分かる」

「……そうですか」

「メンタルって、戦略じゃないと思うんだよね」

「戦略、じゃない」

「鍛えようとして鍛えるより、いつの間にか鍛えられてた、が多い気がして。今日みたいに、何度も同じ作業をして、ちょっと上手くなって、次のことを聞いて、また作業して」

彼女は、静かにシンクを見た。

グラス。

カップ。

お皿。

カトラリーの順。

「……やってみます」

「うん」

オーナーが横に立つ。

「始めよう」

彼女は両手を洗って、最初のグラスを取った。


掲示板:最強メンタル計画、バイトを始めるらしい

1:名無しのウマ娘

バイト?

2:名無しのウマ娘

V1〜V5の出費で資金が底をついたらしい

3:名無しのウマ娘

研究費用かよ

4:名無しのウマ娘

白衣まで買ってた

5:名無しのウマ娘

それはいらない

6:名無しのウマ娘

でもバイトで稼いでまた研究するつもりでは

7:名無しのウマ娘

それが怖い

8:名無しのウマ娘

同室の子が「メモ帳」作ってあげたらしい

9:名無しのウマ娘

赤ペンで書いた?

10:名無しのウマ娘

そう

11:名無しのウマ娘

同室の子、最近赤ペンよく使ってない?

12:名無しのウマ娘

そういえばそう

13:名無しのウマ娘

「落ち着いて」ってだけ書いてある三重線

14:名無しのウマ娘

ありがたい管理人

15:名無しのウマ娘

喫茶店のオーナーに「暴走しない」と言われたらしい

16:名無しのウマ娘

刺さっただろうな

17:名無しのウマ娘

「止まるのも仕事、聞くのも仕事」

18:名無しのウマ娘

これをV1の時に知っていたら

19:名無しのウマ娘

知っていても「安全です」って言ってたと思う

20:名無しのウマ娘

そうかもしれない

21:名無しのウマ娘

でも、少しだけ変わる気もする

22:名無しのウマ娘

成長

23:名無しのウマ娘

方向はまだわからないけど