最強メンタル計画V6(スピカ4DX)
── 今の、良かったね ──
「ありがとうございましたー!」
扉についた小さなベルが、からん、と鳴った。
昼下がりの喫茶店は、少しだけ静かになっていた。
さっきまでランチを食べに来ていたお客さんたちが帰り、店内には食器を片づける音と、空調のやわらかな風の音だけが残っている。
その中で、彼女は両手でお盆を持っていた。
空になったお皿。
グラス。
使い終わったナプキン。
以前なら、少し重いお盆を持っただけで肩に力が入り、何かを落とさないようにと視線が固まり、逆に危なっかしい動きになっていた。
けれど、今は違う。
一歩。
また一歩。
通路の幅を見て、椅子の位置を確認して、カウンターの角にお盆をぶつけないように少し身体を横へずらす。
無事に流し台の横へ置くと、彼女は小さく息を吐いた。
「……よし」
それは、誰に聞かせるでもない、小さな達成感の声だった。
カウンターの奥でカップを拭いていたオーナーが、ちらりと彼女を見た。
「今の、良かったね」
「えっ?」
「お盆、ちゃんと周りを見ながら運べてた。前よりずっと落ち着いてる」
そう言われた瞬間、彼女の耳がぴんと立った。
「本当ですか?」
「本当。最初の頃は、お皿じゃなくて自分の緊張だけ見てる感じだったけど、今はちゃんとお店を見てる」
「お店を……」
「うん。自分のことだけじゃなくて、周りを見る。大事なことだよ」
彼女はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
自分のことだけじゃなくて、周りを見る。
焦らない。
急に走り出さない。
自分だけで全部決めない。
危ないと思ったら止まる。
誰かに迷惑がかかるなら、まず考える。
最初は難しかった。
彼女にとって、思いつきとはほとんどスタートの合図だった。
頭に浮かぶ。
胸が熱くなる。
足が動く。
走り出す。
それが当たり前だった。
けれど、この店ではそうはいかない。
当たり前のこと。
けれど彼女にとっては、その当たり前を覚えることが、少しずつ自分を変えていく訓練になっていた。
「今日はこのあと、もう少ししたら上がっていいよ」
「はい!」
「それと」
「はい?」
オーナーは、拭き終えたカップを棚に戻しながら言った。
「何か新しいことをやりたい時は、まず安全を考えること」
「安全」
「それから、人に迷惑をかけないこと」
「はい」
「そして、周りを見ること」
「はい」
「自分一人で全部やろうとしないこと」
「はい。覚えています」
「うん。最近はちゃんと覚えてる顔をしてる」
そう言われて、彼女は少しだけ誇らしくなった。
成長している。
ちゃんと前に進んでいる。
危険物を作っては同室の子に救助され、たづなさんに報告され、理事長室の金庫に封印される日々から、自分は少しずつ遠ざかっている。
そう。
たぶん。
きっと。
おそらく。
── スピカ4DX ──
その夜。
彼女は寮の自室で、机に向かっていた。
同室の子は、今日は少し遅くなると言っていた。
部屋は静かだった。
静かで、落ち着いていて、考えごとをするにはちょうどいい。
机の上には、一冊の新しいノートが置かれている。
表紙はまだ何も書かれていない。
彼女はペンを握った。
ゆっくりと息を吸う。
そして、慎重に文字を書いた。
――最強メンタル計画V6。
そこまで書いて、彼女は一度ペンを止めた。
彼女は、表紙の下に大きく書き足した。
――安全第一。
さらに、その下。
――人に迷惑をかけない。
さらに。
――周囲を巻き込まない。
さらに。
――異常発生時は自動停止。
最後に、少し悩んでから。
――自分だけで試す。
書き終えて、彼女は満足げに頷いた。
「……完璧」
まだ何も完璧ではなかった。
けれど、本人の中では、この時点でかなりの進歩だった。
彼女はページをめくる。
V1からV5まで、すべての研究成果をまとめていく。
そして、あるページで、ペンが止まった。
「……刺激が分散すれば、耐久時間は伸びる」
V2:視覚と聴覚を複合した結果、V1より若干耐えられた。
単純な話だった。
危険なものを一つ向けると倒れる。
でも、危険なものを複数に分散させれば、それぞれの破壊力が薄まる。
彼女はノートに、大きく書いた。
――複合型スピカ耐性訓練装置。
少し考える。
それでは硬すぎる。
もっとわかりやすく、夢があって、完成形にふさわしい名前が必要だった。
彼女はペンを握り直す。
そして、新しい行に書いた。
――スピカ4DX。
満足だった。
とても満足だった。
── 視覚・聴覚・嗅覚・その他 ──
スピカ4DX。
それは、彼女の中では過去の失敗をすべて踏まえた、画期的な安全装置だった。
まず、視覚。
三面ディスプレイ。
正面。左。右。
視線を一箇所に集中させないため、ライブ映像を三方向に分散して表示する。
正面だけを見続けると危ない。
なら、左右にも映像を置けばいい。
そうすれば視線が散る。
意識も散る。
安全。
次に、聴覚。
ヘッドホンは危険だった。
耳を完全に包み込むと、逃げ場がない。
声が近すぎる。
心臓に悪い。
だから、今回は椅子の耳元あたりにスピーカーを配置する。
密閉しない。
空間に音を逃がす。
左右からやわらかく響かせる。
安全。
次に、嗅覚。
V5の反省を活かす。
引き出しの鍵のかかった箱の中に、V5の残りがほんの少し保管されている。
原液は危険。
でも、極限まで薄めて、空気に少量だけ漂わせれば。
そうすれば、香りは「感じるか感じないか」の最低限になる。
危険性は極限まで下がる。
安全。
彼女はノートを閉じた。
「……これは、安全」
三回目の宣言だった。
一度目も、二度目も、三度目も、同じことを言ってきた。
そして毎回、違う種類の封印案件になった。
ただし本人は、今回こそ大丈夫だと本気で思っていた。
── また、たづなさんに ──
翌日。
寮長から連絡が来た。
たづなさんが呼んでいる、という内容だった。
彼女は静かに目を閉じた。
深呼吸。
心の中で、昨夜の作業を振り返る。
三面ディスプレイの配置。
スピーカーの取り付け。
香りの薄め方。
完成はしていなかった。
作業の途中で、同室の子が帰ってきた。
帰ってきた同室の子は、部屋の様子を一目見て、静かにドアを閉めた。
三面ディスプレイ。
スピーカー。
作りかけの何か。
V5の時のことを思い出す。
あの時は息を止めながら部屋に入った。
まず窓を開けて、いったん出た。
また入って、発生源を袋に入れて、また出た。
三回目でようやく友人の肩に触れられた。
それでも、袋を縛る時に少し吸ってしまって、廊下でしばらく立っていた。
あの経験があるから、今の自分には判断がある。
作りかけならまだいい。
起動しているなら、中に入らない方がいい。
「……ちょっと待ってて」
それだけ言って、出ていった。
数十分後、たづなさんから連絡が来た。
彼女は廊下を歩きながら、思った。
安全第一と書いた。
人に迷惑をかけないとも書いた。
でも結果は、同じだった。
たづなさんの部屋に入ると、いつものように静かな空気があった。
「座ってください」
「はい」
たづなさんは、しばらく彼女を見ていた。
「今日で、何回目ですか?」
「……六回目、です」
「六回目」
たづなさんは繰り返した。
「前回、何か約束しましたか?」
「はい。判断は一人でしないこと。途中段階で確認を取ること」
「では、今回は?」
「……同室の子がいない夜に、一人でやりました」
彼女は、正直に言った。
うそをつく気にはなれなかった。
たづなさんは、長いため息をついた。
ため息はいつも静かだった。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、静かで、深い。
「三面ディスプレイは、何のためでしたか?」
「視線を分散させるためです」
「スピーカーは?」
「耳への刺激を密閉せずに逃がすためです」
「香りは?」
「……極限まで薄めたものを、ほんの少しだけ、空間に漂わせるためでした」
「なるほど」
たづなさんは、ゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。
「工夫は、していますね」
「はい」
「前よりは、考えています」
「はい」
「でも」
彼女は少し、緊張した。
「判断を一人でしました」
「……はい」
「深夜に、一人で。同室の子がいない隙を狙って」
「……はい」
たづなさんは振り返った。
「その点だけが、今回の問題です。内容ではなく、その判断の仕方が」
「……わかりました」
「次は、必ず事前に相談してください。一人でやりたい夜があっても、まず相談してから」
「はい」
「約束できますか?」
「……はい」
彼女は、深く頷いた。
廊下へ出ると、同室の子が壁にもたれて待っていた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「謝るより、次から相談してよ。私が起きてる時間ならいつでも」
彼女は、少しだけ俯いた。
「……うん。ありがとう」
掲示板:V6も封印されたらしい(スピカ4DX)
1:名無しのウマ娘
V6来た
2:名無しのウマ娘
名前
3:名無しのウマ娘
スピカ4DX
4:名無しのウマ娘
えっ
5:名無しのウマ娘
複合型らしい
V1〜V5の失敗を踏まえて「刺激を分散させれば安全」という理論
6:名無しのウマ娘
三面ディスプレイ
スピーカー(密閉しない)
嗅覚(極限まで薄める)
7:名無しのウマ娘
進化してる
8:名無しのウマ娘
方向が
9:名無しのウマ娘
ノートの表紙に「安全第一」「人に迷惑をかけない」と書いてあった
10:名無しのウマ娘
それは進歩
11:名無しのウマ娘
でも深夜に一人でやった
12:名無しのウマ娘
全部消えた
13:名無しのウマ娘
たづなさんに呼ばれた
「次回は必ず事前に相談すること」
14:名無しのウマ娘
同室の子が廊下で待ってたらしい
15:名無しのウマ娘
管理体制が整ってきた
16:名無しのウマ娘
V7は本当に来るの
17:名無しのウマ娘
ノートにV1〜V6って書いてる以上は
18:名無しのウマ娘
せめてV7で終わってほしい
19:名無しのウマ娘
同室の子とたづなさんを信じてる