外伝・同室の子視点
── まだ、あの子が走り出す前の話 ──
あの子は、真面目だった。
いや、今でも真面目ではある。
ただ、方向がおかしいだけで。
私が初めてそう思ったのは、同室になって三日目の夜だった。
「……ねえ、まだ起きてる?」
消灯時間はとっくに過ぎていた。
私はベッドの中で、明日の朝練のことを考えながら、そろそろ眠ろうとしていた。
けれど、向かいの机に小さな明かりが残っている。
スタンドライトの下で、彼女はノートを開いていた。
「うん。ちょっとだけ」
「ちょっとだけって、もう一時間くらい書いてるけど」
「うん。ちょっとだけ」
その時点で、私は少しだけ察した。
この子の"ちょっと"は、信用してはいけない。
彼女の机の上には、レース映像を分析したメモ、ラップタイムの表、トレーニング計画、栄養の本、メンタルケアの本が積まれていた。
その中心にあるノートには、丸い字でこう書かれていた。
*強くなるために必要なこと*
可愛い字だった。
内容は全然可愛くなかった。
私はベッドから半身を起こして、そっと尋ねる。
「何書いてるの?」
「明日からの練習計画」
「トレーナーさんと決めたやつじゃなくて?」
「それとは別に、自分でできること」
「……寝ることも、自分でできることだよ?」
「うん。だから、これを書き終わったら寝る」
彼女は真剣だった。
真剣に、自分を追い込もうとしていた。
私はため息をついて、ベッドから降りた。
「見せて」
「えっ」
「止めるかどうか判断するから」
「止める前提?」
「止める前提」
彼女は少しだけ困った顔をしたあと、ノートをこちらへ向けた。
そこには、朝練、授業、基礎トレ、フォーム確認、映像研究、反省、イメージトレーニング、就寝前のメンタル強化――そんな言葉がびっしり並んでいた。
私は最後の項目で手を止める。
「メンタル強化?」
「うん」
彼女は、少し照れたように笑った。
「私、レース中に迷うことがあるから」
「迷う?」
「仕掛けるべきか、我慢するべきか。前に出るべきか、待つべきか。負けたくないって思うほど、頭の中がうるさくなるの」
それは、わかる気がした。
レースは、ただ走ればいいわけじゃない。
身体が熱くなる。息が上がる。周りの足音が聞こえる。観客の声が遠くなる。
その中で、自分の判断を信じ続けるのは、簡単なことじゃない。
彼女はノートを見つめたまま、ぽつりと言った。
「強い子って、すごいよね」
「うん」
「自分の走りを、最後まで信じられる子」
「うん」
「私も、そうなりたい」
その声は、まっすぐだった。
危ういくらいに、まっすぐだった。
だから私は、少しだけ優しく言った。
「なるのはいいけど、壊れるのは違うからね」
「壊れないよ」
「今の計画だと壊れるよ」
「えっ」
「睡眠時間が削れてる」
「少しだけだよ?」
「毎日少しずつ削ったら、ちゃんと壊れる」
「……そっか」
彼女は素直に頷いた。
そう。
この頃の彼女は、まだ素直だった。
ノートの余白に、彼女は「睡眠は削らない」と書き足した。
私はそれを見て、少し安心した。
今思えば、あれが最後の安全装置だったのかもしれない。
── 普通の方法から ──
「でも、メンタルは鍛えたいな」
「普通に瞑想とかでいいんじゃない?」
「瞑想……」
「呼吸を整えるとか、イメージトレーニングとか」
「なるほど」
彼女は真剣にメモを取った。
本当に真剣だった。
「呼吸」「瞑想」「イメージ」「心を乱されない練習」
そこまでは良かった。
本当に、そこまでは。
「心を乱されない練習……」
彼女は小さく呟いた。
「つまり、心が乱れるものに慣れればいいのかな」
私はその時、眠かった。
とても眠かった。
だから、そこにすぐ突っ込めなかった。
「……まあ、段階的になら?」
「段階的」
「無理しない範囲で」
「無理しない範囲」
「安全に」
「安全に」
彼女はこくこく頷いた。
私は安心してしまった。
ちゃんと伝わったと思ってしまった。
今ならわかる。
あの子は、言葉を聞いていた。
ただし、解釈が独自だった。
「ありがとう」
彼女は笑った。
「私、頑張るね」
「うん。ほどほどにね」
「うん。全力でほどほどに頑張る」
その時点で、少しおかしいとは思った。
でも、まだ笑って済ませられる範囲だった。
あの夜の彼女のノートには、最後にこう書かれていた。
*最強のメンタルを作る*
その下に、小さく。
*まずは普通の方法から*
そう。
最初はまだ、普通の方法から始めるつもりだったのだ。
少なくとも、本人は。
私はそのノートを見て、部屋の明かりを消した。
「おやすみ」
「おやすみ」
暗くなった部屋で、彼女の声だけが少し弾んでいた。
何かを始める前の、希望に満ちた声だった。
私は眠りながら思った。
この子はきっと、強くなる。
努力できる子だ。
真面目で、前向きで、少し危なっかしいけれど。
きっと、いい方向に進めるはずだ。
── 数週間後 ──
――数週間後。
机の上に置かれた新しいノートの表紙を見て、私はその考えを訂正することになる。
そこには、力強い文字でこう書かれていた。
*最強メンタル計画 V1*
私はその時、まだ知らなかった。
本当に止めるべきだったのは、深夜の自主練ではなく。
あの子の発想力そのものだったのだと。
── V1後の朝 ──
最初に言っておきたい。
私は止めた。
少なくとも、止めようとはした。
けれど、あの子は真剣だった。
真剣に、間違っていた。
「……できた」
その日の朝、彼女はそう言った。
寝起きの私が見たのは、机の前で達成感に満ちた顔をしている同室の子だった。
目の下には少し隈がある。
けれど表情は晴れやかで、まるで長い研究の末に偉大な発見をした研究者のようだった。
机の上には、ヘッドホン。
そしてノート。
表紙には、あの不穏な文字。
*最強メンタル計画 V1*
私は、布団の中で一瞬だけ目を閉じた。
見なかったことにしたかった。
でも、現実は消えてくれなかった。
「何ができたの?」
「切り抜き音声」
「……何の?」
「スピカさんの」
その瞬間、私は完全に目が覚めた。
「だめ」
「まだ内容言ってないよ?」
「スピカさんの時点でだめ」
「でも、ただの励ましボイスだよ」
「ただの励ましボイスなら、何でそんなに満足そうなの?」
彼女は胸を張った。
嫌な予感がした。
「配信でスピカさんがウマ娘について語ってくれたところを中心に、心が折れそうな時に効く言葉だけを厳選して、集中力を高める順番で並べたの」
「並べた」
「うん」
彼女は、少し照れたように続けた。
「段階的に聞けるように、レベル1から5まで設定して」
「……ねえ」
「心を乱されない練習になると思って」
そうか。
あの夜の「段階的に」「安全に」「無理しない範囲で」は、こういう意味で解釈されていたのか。
「一回、試してみる?」
「絶対嫌」
彼女は少しだけ傷ついた顔をした。
でも、目は輝いていた。
「じゃあ、私がやってみるね」
「やめて」
「大丈夫だよ、レベル1だから」
「やめて」
「少しだけ」
「やめ――」
ヘッドホンを装着。
数秒後。
彼女の耳がぴくりと動いた。
表情が少し緩んだ。
さらに数秒。
そのまま、彼女は幸せそうに椅子の背にもたれた。
「……ぁ」
小さく声が漏れた。
目が半閉じになる。
「……すぴか……さ……」
私は素早く立ち上がり、ヘッドホンを外した。
「無理じゃん」
「え……あれ? 気づいたら……」
「これは封印します」
「ちょっと待って、まだ私に耐性がないだけで」
「封印します」
「レベル1だよ? 段階的に練習すれば絶対強くなれる……!」
「……本人が一番やばい時点で、これは外に出せない」
彼女は少しだけ唇を尖らせた。
それでも、まだあきらめていなかった。
あの頃の彼女は、いつもそうだった。
失敗しても、折れない。
封印されても、諦めない。
それが彼女の、本当の強さだった。
――ただし、方向は毎回間違っていた。