5話・考えたいだけ
台帳
たづなさんが台帳を開いたのは、夜の執務室だった。
封印物の一覧。金庫の番号。封印日。封入物の性質。管理条件。
一行ずつ確認していく。
旧V1。旧V2。旧V3。旧V4。旧V5。旧V6。旧V7。真V1から真V8。フィジカルV1からV8。
全部、そこにある。変化なし。
金庫の施錠も、今日の点検で確認済み。持ち出しの記録もなし。理事長が「業務上の確認」を申請してきた回数、今週二回。却下二回。いつも通りだった。
ペンを置いた。
「……異常なし」
小さく言って、台帳を閉じた。
窓の外は暗かった。交流生が来てから、十日が経っていた。
たづなさんは少し考えた。
交流生の子は、良い子だった。おとなしくて、よく観察していて、悪意が一切ない。最強メンタル計画ちゃんの活動に、本物の関心を持っている。
それが、少し心配だった。
悪意がある相手は止めやすい。手順がある。注意して、確認して、必要なら出入りを制限すればいい。
でも、善意だけを持った子が「良いところ」を見つけてしまうのは——止め方が難しい。良いところを見つけることは、何の規則にも触れない。むしろ、褒めるべきことですらある。
台帳は、物の管理簿だった。
金庫の中身は数えられる。封印日も書ける。でも、誰かの中に置かれていく言葉は、数えられない。「もったいない」が今どこにあって、どのくらいの大きさになっているか、台帳のどの欄にも書けない。
書けないものは、確認のしようがない。
たづなさんは台帳をもう一度、棚に戻した。
戻しながら、頭の中の、台帳ではない場所に、一行だけ書いておいた。
——物になる前に、相談が来ますように。
とりあえず、今日は異常なし。
三正面
十一日目。
赤ペン先生は、今日も三方向を見ていた。
一方向目:最強メンタル計画ちゃん。
昼休み、教室で。
最強メンタル計画ちゃんがノートを開いていた。ここ数日、ノートを開く時間が少し増えていた。
書いているのか、読んでいるのか、考えているのか——隣の席から見る限り、ページの上でペンが止まっている時間が長かった。書く時のあの子は速い。止まっているのは、書く前だからだ。
「お昼、食べた?」と赤ペン先生は聞いた。
「食べた」
「何を」
「……」
最強メンタル計画ちゃんがノートから顔を上げて、少し考えた。
「……忘れた」
「食べた意味あるの、それ」
「お腹は、いっぱい」
「ならいいけど」
よくはなかった。食べたものを忘れるのは、頭が別の場所にいる時の癖だった。赤ペン先生はそれを知っていたが、ノートの中身までは見えなかった。見せて、と言えば見せてくれる。でも、まだその段階ではない気もした。
難しいのは、そこだった。早すぎると、考えることまで止めてしまう。遅すぎると、物ができている。
二方向目:後輩ちゃん。
放課後、中庭で。
後輩ちゃんと交流生が、ベンチで何か話していた。
後輩ちゃんが身振り付きで何かを説明して、交流生が静かに聞いて、ときどき短く質問する。内容は聞こえない。でも、後輩ちゃんの顔が楽しそうだった。
楽しそうなのは、いいことだった。いいことなのだが。
後輩ちゃんは、先輩の話をするとき、一番楽しそうになる。そして交流生は、聞いた話の良いところを見つける名人だった。つまりあの会話は、高い確率で、先輩の活動の良いところが増殖している。
赤ペン先生は少し離れたところから二人を見て、介入するべきか三秒考えて、やめた。
友達が楽しく話しているのを止める理由は、世界のどこにもなかった。
ないのが、困るのだった。
三方向目:交流生。
夕方、トレーニング施設の前で。
交流生が、一人で施設の掲示を見ていた。安全に関する注意書きのところだった。
「……熱心だね」と赤ペン先生は声をかけた。
「……あ。はい。うちと、書き方が違うので」
「書き方?」
「……うちのは『するな』が多いです。ここのは『こうすると安全』が多い。同じことを言ってるのに、読んだ後の気持ちが違います」
赤ペン先生は、注意書きを見た。今まで気にしたこともなかった。言われてみれば、そうだった。
「よく見てるね」
「……見るのは、得意です」
交流生が、少しだけ笑った。
「……あの、先輩は」
「ん?」
「……いつも、ああやって、何か考えてるんですか」
赤ペン先生は、一瞬、答えに迷った。
「考えてるね。だいたいいつも」
「……いいですね。考えてる人の顔って、いいなって思います」
悪意ゼロ。完全にゼロ。むしろ善意と敬意しかない。
赤ペン先生は「そうだね」と答えながら、頭の中の付箋を一枚増やした。この子自身は何も悪いことをしていない。ただ、見たものの良いところを言葉にする。それだけだ。でも、その言葉が他の二人に届くと、何かが動き始める。
三方向を同時に見るのは、なかなか疲れた。
それでも、今日のところはまだ大丈夫だった。
夜
その夜、部屋に戻ると、最強メンタル計画ちゃんがノートを閉じるところだった。
赤ペン先生が「何か書いてた?」と聞いた。
「メモ」
「どんな」
「いろいろ」
いろいろ、は少し範囲が広い。でも今日はそこまで聞かないでおこうと思った。
着替えて、ベッドに座った。今日の三正面分の疲れを少し感じながら、本を開こうとした。
「……相談していい?」
最強メンタル計画ちゃんの声だった。
赤ペン先生が本を置いた。「どうしたの」
「交流生の、言ってること」
「うん」
「気になってる」
赤ペン先生は少し待った。
待つのは大事だった。ここで先回りすると、あの子は言葉を引っ込める。
「気になってるって、作りたいの?」
「作る、じゃなくて」
最強メンタル計画ちゃんが、少し間を置いた。
言葉を選んでいる間だった。急かさなかった。
「……もう少し、考えたいだけ」
赤ペン先生は、その一言を聞いた。
作りたい、ではなく、考えたい。違いは小さいようで、大きかった。作りたいなら止める。考えたいなら——一緒に考えることができる。
それに、もう一つ。
この子は今、聞かれる前に、自分から言いに来た。ノートに何かが書かれる前に。物になる前に。それが、どれだけのことか。
「それ、先に言って」と赤ペン先生が言った。
「先に?」
「考え始めたら、教えて。私も一緒に考えるから」
最強メンタル計画ちゃんが、少し驚いたような顔をした。止められると思っていたのかもしれない。
「一緒に考えてくれるの」
「考えるだけなら、いくらでも」
少し間があった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
赤ペン先生は本を開き直した。最強メンタル計画ちゃんもノートを開いた。
二人とも、しばらく黙って、それぞれのものを見ていた。
部屋は静かだった。
静かなまま、赤ペン先生は本のページを一枚もめくっていなかった。
考えるだけなら、いくらでも。そう言ったのは本心だった。本心だったが、「考える」と「作る」の間に、はっきりした線がないことも知っていた。あの子の中では、考えはいつも、手より少しだけ先を歩いているだけだ。手が追いつく日は、たいてい急に来る。
でも、今夜は約束ができた。
考え始めたら、教えて。
それは、台帳には書けない種類の安全装置だった。効くかどうかは、分からない。それでも、ないよりずっといい。
赤ペン先生は、ようやくページをめくった。
トレセン学園スレ
【交流】赤ペン先生が三正面になってる件【最強メンタルちゃんが自分から相談してきた】
レス 1〜50
交流生が来てから赤ペン先生が三正面になってるって
三正面って
交流生が良いところを見つける→後輩ちゃんが全肯定する→最強メンタルちゃんが静かに聞いてる
この三方向を同時に見てる
それを毎日やってるの?
毎日
赤ペン先生がよく持ってる
レースで培った精神力がここで活きてる
納得の進路
昼休みに最強メンタルちゃんが「お昼に何食べたか忘れた」って言ったらしい
出た
頭が別の場所にいる時のやつ
ノート開く時間も増えてるらしい
何を書いてるんだろ
書いてないらしい。ペンが止まってる時間が長いって
書く前が一番長いんだよあの子は
赤ペン先生が聞いたら「いろいろ」って
いろいろ……
怖い「いろいろ」か普通の「いろいろ」か
赤ペン先生もまだ分からないって
赤ペン先生が分からないやつが一番怖い
中庭では後輩ちゃんと交流生が毎日楽しそうに話してるらしい
平和な光景
内容が先輩の活動の良いところな点を除けば
良いところが日々増殖してる
誰も止められないんだよなあれ
友達が楽しく話してるだけだから
規則に触れる要素がゼロ
ゼロなのが一番困るって赤ペン先生が言いそう
でも夜に最強メンタルちゃんが自分から「相談していい?」って言ってきたらしい
自分から!!!!
えらすぎる
何を相談したの
「交流生の言ってること気になってる。作りたいんじゃなくて、もう少し考えたいだけ」って
作りたいんじゃなくて考えたい
その区別ができてる!!
区別ができてるのと、区別が保つのは別なんだよな
言うな
赤ペン先生はなんて言ったの
「考え始めたら教えて、一緒に考えるから」
止めなかった
考えるだけなら一緒に考える
それが赤ペン先生
止めると考えごと隠れるからね
隣に置いておくのが正解なんだよ
最強メンタルちゃんが「ありがとう」って言ったって
言えた!!
この二人の関係が好き
たづなさんも台帳確認してたって
「異常なし」だったって
今日は異常なし
レス 51〜100
「今日は」がついてる
台帳って物しか書けないんだよな
物になる前のやつは載らない
載らないやつが今どこかで育ってる
やめろ
三週間の半分過ぎたよ
後半がある
やめろ
でも今日は良い日だった
良い日だった