プロローグ・最強復刻メンタル計画
後輩ちゃんが勝ってから、数日が経っていた。
廊下では、まだあのレースの話が聞こえることがある。
あの子、勝ったらしいね。
最後の踏み込み、すごかった。
一瞬止まったのに、そこから出た。
本当によく戻ってきた。
そういう声が、まだ学園のあちこちに残っていた。
最強メンタル計画ちゃんは、それを聞くたびに少しだけ耳を動かした。
後輩ちゃんは、勝った。
深い一歩を踏んだ。
止まっても、また一歩。
それは、すごいことだった。
だから、余韻がある。当然だった。
でも。
寮の部屋の中では、別のことが始まろうとしていた。
机の上に、ノートが並んでいる。
古いノート。新しいノート。赤ペン先生の赤が大量に入ったノート。端が少し折れたノート。ところどころ「封印済み」と書かれたメモ。たづなさんに提出した報告書の写し。自分でまとめた計画一覧。
最強メンタル計画ちゃんは、その前に座っていた。
部屋着姿。髪は少しだけ乱れている。手にはペン。机の端には、冷めかけたお茶。
赤ペン先生は、まだ戻ってきていない。トレーニング後に少し用事があると言っていた。たぶん、帰ってくるまでにはまだ時間がある。
つまり。
考える時間がある。
最強メンタル計画ちゃんは、じっとノートを見た。
そして、小さく呟いた。
「……わかってしまった」
ノートの一冊目を開く。
旧V1。
切り抜きASMR事件。スピカさんの声を環境音として使う。囁きのように配置する。メンタルトレーニングとして慣れる。
結果。穏やかな顔のまま意識を手放す。同室の親友に発見される。救出時に無意識でヘッドホンを押さえる。赤ペン先生による赤字多数。
最強メンタル計画ちゃんは、ページの端を指でなぞった。
懐かしい。少し恥ずかしい。でも、あれが最初だった。
次のノートを開く。
旧V2。VRライブ最前列。観客席距離。最前列。レース後距離。ガチ恋距離。
そこで、少しだけ手が止まった。
最強メンタル計画ちゃんは、そのページをまだめくらず、隣のノートへ手を伸ばした。
旧V3。静止画耐性訓練。動かない画像なら安全。音もない。近づかない。見るだけ。
結果。天井に貼った画像で幸せそうに意識を手放す。同室の親友が救出。天井を見ないようにしながら格闘。
旧V4。造形物制作計画。未遂。後に学園祭で空白が埋まった。そして回収された。
旧V5。匂い。スピカさんの香りを再現しようとした。結果、部屋ごと封印。
旧V6。4DX。動き、振動、風、音。その後、学園祭で復刻され、タキオンが余計なことをして、また封印。
真シリーズ。公式音声。公式映像。概念メニュー。ハンドクリーム。リップ。イヤホン。指輪。
フィジカル系。VRラン。マッサージチェア。アイマッサージャー。お花。睡眠。応援補助AI。サンスクリーン。
学園祭。水色ドリンク。ひんやりスライム。旧V4造形物。4DXスーパーデラックス改良版。
そして、第9部。自分自身が変になった。なんでも受け入れる最強メンタルのための薬。結果、素直になりすぎた。赤ペン先生が撃沈。後輩ちゃんを避けるための校内逃走。たづなさんの理事長室で保護。記憶はあまり残っていない。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ目を伏せた。
記憶はない。でも、赤ペン先生の赤字はある。かなりある。
ノートの端に、赤ペン先生の文字が残っている。
自分で飲まない。
体に入れるものは必ず相談。
何を言われても受け入れる薬を作らない。
童心に帰らない。
あれは本当に危なかった。
最強メンタル計画ちゃんは、そっとページを閉じた。
いろいろあった。本当に、いろいろあった。
でも、ここで大切なのは、そこではない。
最強メンタル計画ちゃんは、机に並べたノートをもう一度見渡した。そして、ペンを握り直した。
今まで、なぜ耐えられなかったのか。
スピカさんだから。
もちろん、それはある。でも、それだけでは分析にならない。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに書いた。
過去の失敗原因の再分析
少し考える。書く。
・音だけ
・映像だけ
・匂いだけ
・画像だけ
・動きだけ
・概念だけ
そこで、ペンが止まる。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ目を細めた。
音だけなら。声を聞く。その声に、姿を想像する。
映像だけなら。姿を見る。そこに、声を想像する。
匂いだけなら。香りを吸う。そこに、距離や体温や空気を想像する。
画像だけなら。動きを想像する。
動きだけなら。その先のファンサを想像する。
概念だけなら。足りない全部を、自分の記憶が埋める。
つまり。
足りないから、補う。補うから、強くなる。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに大きく書いた。
曖昧な情報は、想像で補完される。
補完されたスピカさんは、強い。
そこで、最強メンタル計画ちゃんは小さく頷いた。
「……そういうこと」
今まで、危険だった理由。それは、情報が足りなかったから。足りないところを、見る側が自分の中で補ってしまったから。
自分の中のスピカさんは、強い。
だから、耐えられない。
なら。
補完する必要がなければいい。足りないところを、自分の想像で埋めなくてよければいい。音も映像も、距離も動きも、自然に整っていれば。補う余地がなくなる。補わなければ、暴走しない。暴走しなければ、耐えられる。
最強メンタル計画ちゃんは、ペンを強く握った。
それは、正しいかもしれない分析だった。
正しくなかった。
最強メンタル計画ちゃんは、新しいノートを開いた。
表紙はまだ綺麗だった。ページも白い。何も書かれていない。
そこに、ゆっくり文字を書く。
最強復刻メンタル計画
少し見つめる。
うん。いい名前。
復刻。それは、過去を見直すこと。失敗を忘れないこと。初心に帰ること。
最強メンタル計画は、いろいろ広がりすぎた。飲み物。香り。花。AI。指輪。学園祭。レース支援。もちろん、どれも大切だった。でも、原点は。
スピカさんに耐えること。スピカさんを見ても、聞いても、心を強く保つこと。最強のメンタルを手に入れること。
だから。
最強メンタル計画ちゃんは、次の行に書いた。
初心に帰る。
その言葉は、良い言葉だった。本来なら。
次に、目的を書く。
目的:
過去の最強メンタル計画を復刻・再構築する。
曖昧な情報による脳内補完を減らし、補完不要の形で安全な耐性訓練を行う。
方針:
・段階式に戻す
・LV1からLV4まで設定する
・過去の未実施項目も確認する
・安全性を上げる
・一人で暴走しない
最後の行を書いたところで、少し止まった。
一人で暴走しない。
正しい。でも、確認は必要。確認しないと、赤ペン先生に見せることもできない。危険かどうか分からないものを見せるのは危険。だから、最初の確認は自分で行う。
最強メンタル計画ちゃんは、自然な流れでそう思った。
ノートに、さらに書く。
確認者:
自分。(経験者)
少し考えてから、括弧をつける。
確認者:
自分。(経験者)
さらに少し考える。
経験者。そう。自分は、経験者だった。
一年以上、最強メンタル計画を続けてきた。何度も作った。何度も試した。何度も倒れた。何度も封印された。何度も赤ペン先生に赤を入れられた。何度もたづなさんの台帳に載った。
それはつまり、経験。初心者ではない。むしろ。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに書いた。
私は一年以上、最強メンタル計画を続けてきた。
つまり、初心者ではない。
最上級者。
少しだけ胸を張った。
部屋には誰もいない。でも、少しだけ胸を張った。
次に、段階を作る。
初心に帰るのだから、LV制。旧V2でも使った。段階式なら安全。いきなり強い刺激ではなく、弱い刺激から慣らしていく。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに表を書いた。
スピカ耐性訓練セット:復刻版
LV1:観客席距離
・遠い/環境音中心/スピカさん要素は小さい/初心者用
LV2:最前列距離
・姿が見える/声が少し聞こえる/安全な範囲の臨場感
LV3:レース後距離
・近い/自然な声/短い視線/上級者用
LV4:ガチ恋距離
・未実施/最上級者用/補完不要統合版
LV4の文字で、手が止まった。
未実施。
そう。旧V2では、そこまで行かなかった。ガチ恋距離。当時、ノリで書いた。でも、実際には試していない。VRライブ最前列で、すでに問題が起きていたから。赤ペン先生に止められたから。たづなさんに封印されたから。
だから、LV4は残っていた。
空白。未確認。未踏領域。
最強メンタル計画ちゃんは、旧V2のノートをもう一度開いた。
そこにも、同じ言葉があった。
LV4:ガチ恋距離
※未確認
赤ペン先生の赤字が横に入っている。
確認しなくていい。
最強メンタル計画ちゃんは、その赤字をじっと見た。
確認しなくていい。当時は、そうだった。
でも、今は違う。
この一年で、いろいろあった。スピカさんの声。映像。香り。概念。4DX。写真。造形。ドリンク。本人に近い何か。本人ではないけれど、本人を思わせるもの。
たくさん経験した。
なら、今なら。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ迷った。
ペン先が、ノートの上で止まる。
赤ペン先生の声が、頭の中で聞こえた気がした。
LV1から。一人で試さない。ガチ恋距離はだめ。そういうことじゃない。
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ視線を横に逸らした。
部屋には誰もいない。赤ペン先生もいない。
今なら、確認できる。確認して、安全だったら見せる。危険だったら、赤ペン先生に言う。危険かどうか分からないから、確認する。確認者は自分。経験者。最上級者。
最強メンタル計画ちゃんは、ノートに一行足した。
復刻確認は、LV4から開始する。
理由:
私は最上級者なので。
しばらく見つめる。
うん。理屈は通っている。
通っていなかった。
最強メンタル計画ちゃんは、机の下から小さな箱を取り出した。
過去に使ったVRゴーグル。ヘッドホン。小型の再生機器。ケーブル。クッション。距離感を調整するための椅子。
どれも、見覚えがある。旧V2の時に使ったもの。ASMRの時に使ったもの。後で封印されたり、返されたり、改造されたり、赤ペン先生の監視下に置かれたりしたもの。
全部が完全に同じではない。でも、原点には近い。
最強メンタル計画ちゃんは、ひとつひとつ机に並べた。
音だけではだめ。映像だけでもだめ。足りないから、補完する。だから、今度は同時にする。
映像。音声。距離。視線。動き。
ただし、危険なファンサではなく、自然なもの。普通の会話。普通の距離。普通の視線。
普通なら安全。補完不要なら安全。
最強メンタル計画ちゃんは、設定メモを書いた。
LV4:ガチ恋距離・補完不要統合版
構成:
・VR映像/自然音声/距離感補正/視線補正
・環境音/呼吸音は控えめ
・ファンサ過多にしない
・普通に近づける
目的:
想像で補完する余地をなくす。自然に慣れる。
そこで、少しだけ満足した。
ファンサ過多にしない。これは重要。旧V2で危険だったのは、投げキッスや近距離ファンサが強すぎたから。今回は、普通に近づける。
普通なら安全。
普通に近いほど危険だった。
最強メンタル計画ちゃんは、そのことにまだ気づいていなかった。
時計を見る。
赤ペン先生が帰ってくるには、まだ少し時間がある。たぶん。たぶん、ある。
最強メンタル計画ちゃんは、一度だけ扉の方を見た。
静か。足音はしない。大丈夫。確認するなら、今。
装置の電源を入れる。画面が光る。ヘッドホンを手に取る。VRゴーグルを膝に置く。椅子を少しだけ動かす。
机の上のノートには、こう書いてある。
初心に帰る。
LV4から確認する。
最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。
「……確認」
自分で言った。これは暴走ではない。確認。安全確認。復刻版。最強復刻メンタル計画。初心に帰る。
だから、まず、最上級者用を確認する。
完全に間違っていた。
最強メンタル計画ちゃんは、ヘッドホンをつけた。
VRゴーグルを装着する前に、もう一度だけノートを見る。
そこに、まだ赤ペン先生の赤字は入っていない。白いページに、黒い文字。
最強メンタル計画ちゃんは、ほんの少しだけ迷った。
LV1から。その言葉が、頭の端に浮かぶ。
でも、すぐに別の言葉が上から乗った。
私は最上級者。LV4。いける。
最強メンタル計画ちゃんは、VRゴーグルを下ろした。
視界が暗くなる。起動音。環境音。遠くの歓声。それから、自然な声。
近い。
想像で補う必要がないほど、近い。
最強メンタル計画ちゃんは、小さく息を吸った。
「……」
確認が、始まった。