2話・初心に帰る場所を間違えてる
赤ペン先生が部屋の扉を開けた瞬間、嫌な予感がした。
音がしたわけではない。
煙が出ていたわけでもない。
何かが光っていたわけでもない。
むしろ、部屋は静かだった。
静かすぎた。
机の上に、ノートが開いている。
ケーブルが伸びている。
床に、見覚えのある箱がある。
椅子の上には、最強メンタル計画ちゃんが座っていた。
VRゴーグルをつけている。
ヘッドホンもつけている。
体は少し斜めになっていて、両手は膝の上に落ちているように見える。
でも、時々、指だけがぴくっと動いた。
赤ペン先生は、扉を開けたまま三秒ほど止まった。
それから、静かに扉を閉めた。
「……久しぶりに、戻ってきたね」
何が、とは言わなかった。
でも分かる。
寮の部屋トラップハウス。
昔の空気だった。
机の上のノート。機材。気絶している親友。無駄に整えられた配線。そして、本人だけが安全確認のつもりで倒れている状況。
赤ペン先生は、ゆっくり息を吐いた。
「初心に帰らなくていいところに帰ってきてる……」
返事はない。
最強メンタル計画ちゃんは、椅子に座ったまま、幸せそうに口元を緩めている。
ヘッドホンからは、外にはほとんど聞こえないくらいの小さな音が漏れていた。
赤ペン先生は、反射的に耳を塞ぎかけた。
昔の経験がある。
音は危ない。映像も危ない。今回は、たぶん両方だ。
「まず、電源」
赤ペン先生は、机の横へ回り込んだ。
ただし、画面は見ない。
見ないように、視線を床に落とす。ケーブルの位置だけ確認する。
電源コード。再生機器。ヘッドホンの接続。VRゴーグルのケーブル。
昔よりも配線が丁寧だった。
それが余計に嫌だった。
「こういうところだけ上達してる……」
赤ペン先生は、机の上のノートを横目で見た。
表題が目に入る。
最強復刻メンタル計画
赤ペン先生は、その場で固まった。
「復刻」
嫌な言葉だった。
復刻。昔やったことを、もう一度やる。良い意味で使えば、懐かしさや改善がある言葉。でも、この部屋で、この機材で、この子が書くと、まったく違う意味になる。
赤ペン先生は、さらに視線を落とした。
初心に帰る。
そこだけなら、良かった。
本当に、そこだけなら。
その下に、続きがあった。
私は一年以上、最強メンタル計画を続けてきた。
つまり、初心者ではない。
最上級者。
よって、LV4から確認する。
赤ペン先生は、無言で目を閉じた。
予想より悪かった。
「そういうことじゃない」
まだ赤ペンは出していない。
でも、もう口から出た。
赤ペン先生は、ノートを閉じたい衝動を抑えた。
今は救出が先。読むのは後。怒るのも後。赤を入れるのも後。
まず、目の前の親友を、この装置から外す。
赤ペン先生は、最強メンタル計画ちゃんの横へ回った。
ゴーグルの横を見ないように、後頭部側から手を伸ばす。
固定バンドに指をかけた。
「外すよ」
返事はない。当然だった。最強メンタル計画ちゃんは気絶している。
赤ペン先生は、そっとバンドを緩めようとした。
その瞬間、最強メンタル計画ちゃんの手が動いた。
ゆっくり。しかし、確実に。ゴーグルの横を押さえた。
「……」
赤ペン先生は手を止めた。
「気絶してるのに守らない」
最強メンタル計画ちゃんは、返事をしない。
でも、ゴーグルは押さえている。
無意識の抵抗。
懐かしい。懐かしくて、嫌だった。
「本当に初心に帰ってる……」
赤ペン先生は、最強メンタル計画ちゃんの手をそっと外そうとした。
指を一本ずつ開く。小さい手。でも、意外と力が入っている。気絶しているはずなのに、抵抗が強い。
「離して」
「……ん」
「返事しない。気絶中に返事しない」
かすかな声だった。最強メンタル計画ちゃんは、夢の中か、VRの中か、どちらかで返事をしているらしい。
赤ペン先生は、少しだけ眉を寄せた。
まずい。起きているわけではないのに、反応している。つまり、装置側の刺激が続いている。このままだと、また落ちる。いや、もう落ちている。落ち続けている。
赤ペン先生は、ゴーグルではなく、先にヘッドホンへ手を伸ばした。
ヘッドホンを外せば、少なくとも音は止まる。そう思った。
ヘッドホンの片側に手をかける。
その時、ヘッドホンの隙間から、ごく小さく声が漏れた。
「大丈夫?」
赤ペン先生の手が止まった。
ほんの一瞬。でも止まった。
自然な声だった。囁きではない。加工された甘さでもない。ただ、普通に心配する声。それが危なかった。
赤ペン先生は、すぐに視線を逸らし、口を結んだ。
「……危な」
自分に言い聞かせる。
これは自分が聞くものではない。聞いてはいけない。救出。救出だけ。
赤ペン先生は、今度こそヘッドホンを外そうとした。
最強メンタル計画ちゃんの手が、また動いた。今度はヘッドホンを押さえる。
「気絶してるのに、両方守らない」
「……」
「昔より抵抗がうまくなってるの、成長じゃないからね」
最強メンタル計画ちゃんの口元が少しだけ緩んだ。また何かが流れたのかもしれない。
赤ペン先生は、少し焦った。このままでは、声がまた漏れる。自分も巻き込まれる。
まず電源。やはり電源。
赤ペン先生は、ヘッドホンから手を離した。
机の下へしゃがみ込む。ケーブルを追う。再生機器の電源。どれがどれか。
見たくない画面を見ないようにしながら、手探りで確認する。
黒いコード。白いコード。細いケーブル。ヘッドホン用。ゴーグル用。充電。再生。
何でこんなに丁寧にまとめてあるのか。
赤ペン先生は、心の中で少しだけ怒った。整理能力があるなら、危険性も整理してほしい。
ようやく、再生機器の電源ボタンらしきものに触れた。
押す。音が止まらない。長押し。止まらない。
「なんで」
小さく言う。
机の上のメモが目に入った。
気絶時も自動継続再生
起きてからも続けるため
赤ペン先生は、無言でメモを見た。
あとで赤。絶対に赤。
再生機器を直接切るのは諦める。なら、ケーブルを抜く。
赤ペン先生は、ヘッドホンのケーブルをたどり、接続部分を見つけた。
引き抜く。
ぷつ、と音が切れた。
部屋が静かになった。
赤ペン先生は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
最強メンタル計画ちゃんの指が、ぴくっと動いた。ヘッドホンを押さえていた手から、少し力が抜ける。
「よし」
次はゴーグル。
音が切れたことで、最強メンタル計画ちゃんの抵抗は少し弱くなっていた。
でも、完全ではない。
赤ペン先生がゴーグルに手をかけると、また指が動く。弱く押さえる。
「もう音は切った」
「……」
「映像も切る」
「……」
「確認は終わり」
最強メンタル計画ちゃんは、何も答えない。でも、口元がほんの少しだけ寂しそうになった気がした。
赤ペン先生は一瞬、胸が痛くなった。
この子は本当に、悪意でやっているわけではない。強くなりたい。耐えたい。役に立ちたい。そう思っている。
ただ、方向がいつもおかしい。そして、今回もかなりおかしい。
「……あとでちゃんと怒るからね」
赤ペン先生は、優しく言った。
優しく言いながら、ゴーグルのバンドを外した。今度は外れた。
VRゴーグルを持ち上げる。
最強メンタル計画ちゃんの顔が見えた。
目は閉じている。頬は少し赤い。幸せそうだった。非常に幸せそうだった。
「うん。だいぶだめ」
赤ペン先生は、ゴーグルを机の上に置いた。ただし、画面が見えない向きにする。
それからヘッドホンも外す。
最強メンタル計画ちゃんの頭が、少しだけ横に傾いた。赤ペン先生は支える。そのままベッドへ移動させることにした。
最強メンタル計画ちゃんは軽い。けれど、気絶中の人を運ぶのは簡単ではない。しかも、この子は無意識に機材へ手を伸ばす。
赤ペン先生が椅子から立たせようとした瞬間、最強メンタル計画ちゃんの手が机の上を探った。ゴーグルの方へ。
「戻らない」
「……」
「戻らない」
手を取る。最強メンタル計画ちゃんは少しだけ抵抗する。
赤ペン先生は、肩を支えて、ゆっくり立たせた。足元がふらつく。
「はい、こっち」
「……ん」
「返事しない」
そのままベッドまで誘導する。
途中で、最強メンタル計画ちゃんが一度だけ小さく呟いた。
「……補完、不要」
「その言葉、今は使わない」
「……」
「寝る」
「……ん」
ベッドに寝かせる。布団をかける。
最強メンタル計画ちゃんは、ようやく落ち着いた。
呼吸は穏やか。表情も穏やか。怪我はなさそう。
赤ペン先生は、少しだけ安心した。
それから、机を見た。
ノート。機材。メモ。旧V2の資料。復刻計画。
赤ペンの出番だった。
赤ペン先生は、椅子に座った。
まず、新しいノートを開く。
表題。
最強復刻メンタル計画
「名前だけはいいんだよね……」
小さく呟く。
次の行。
初心に帰る。
赤ペン先生は、赤ペンを取り出した。少し考えてから、その横に書く。
→ そういうことじゃない。
さらに読む。
過去の失敗原因:
曖昧な情報が脳内補完される。
補完されたスピカさんは強い。
改善案:
補完しなくていいほど正確にする。
赤ペン先生は、少しだけ眉を寄せた。
分析としては、完全に間違っているわけではない。音だけだと、姿を想像する。映像だけだと、声を想像する。それは確かにある。でも。だから全部揃えれば安全、ではない。
赤ペン先生は、赤で書いた。
補完不要
→ 逃げ場なし。
さらに読む。
確認者:
自分。(経験者)
赤。
→ 一人で確認しない。
次。
私は一年以上、最強メンタル計画を続けてきた。
つまり、初心者ではない。
最上級者。
赤ペン先生は、少しだけ天井を見た。
「一年以上やってきて、そこに行くんだ……」
赤を入れる。
→ 倒れた回数は資格ではない。
次。
復刻確認は、LV4から開始する。
理由:
私は最上級者なので。
赤ペン先生の赤ペンが、強く入った。
→ しない。
→ LV1からでも一人ではしない。
→ そもそもガチ恋距離を復刻しない。
旧V2のノートも開く。昔の赤字がある。
確認しなくていい。
赤ペン先生は、その下に新しく書き足した。
まだ確認しなくていい。
次に、机の上の設定メモを読む。
LV4:ガチ恋距離・補完不要統合版
構成:
・VR映像
・自然音声
・距離感補正
・視線補正
・環境音
・呼吸音は控えめ
・ファンサ過多にしない
・普通に近づける
目的:
想像で補完する余地をなくす。
自然に慣れる。
赤ペン先生は、深く息を吐いた。
そして、赤を入れる。
VR映像+自然音声
→ 同時にしない。
距離感補正
→ 正確にしない。
視線補正
→ 合わせない。
環境音
→ 空気を作らない。
呼吸音は控えめ
→ そもそも入れない。
ファンサ過多にしない
→ 普通も危険。
普通に近づける
→ 普通に近づけない。
自然に慣れる
→ 自然に近づけない。
ページが赤くなっていく。
赤ペン先生は、手を止めた。少しだけ、ベッドの方を見る。
最強メンタル計画ちゃんは眠っている。幸せそうではあるが、先ほどより落ち着いていた。
起きたら、ちゃんと説明しないといけない。怒る。でも、怒るだけではたぶん足りない。
この子の中では、今回も筋が通っている。過去の失敗を分析した。初心に帰った。段階式にした。経験者として確認した。全部、本人の中では前向きだった。
だから、どこが間違っているのか、ちゃんと言葉にする必要がある。
赤ペン先生は、新しいページを開いた。赤で大きく書いた。
今回の結論
補完不要にした結果、
映像・声・距離・視線・空気の全部から直撃した。
復刻版は、安全版ではない。
少し考えて、もう一行足す。
初心に帰るなら、まず相談。
ベッドの方で、最強メンタル計画ちゃんが少し動いた。
赤ペン先生は振り返る。
「起きた?」
「……ん」
最強メンタル計画ちゃんは、目を半分だけ開けた。まだぼんやりしている。
赤ペン先生は、急いで机の上のゴーグルとヘッドホンを箱に入れた。見えないように。届かないように。
最強メンタル計画ちゃんは、ゆっくり周囲を見た。
「……確認」
「終わり」
「……途中」
「終わり」
「……LV4」
「封印」
「……復刻」
「封印」
「……初心」
赤ペン先生は、ノートを持ち上げた。赤字が大量に入っているページを見せる。
「初心に帰るなら、まず相談」
最強メンタル計画ちゃんは、赤字を見た。目が少しだけ開く。
「……赤が多い」
「今回は多い」
「そういうことじゃない」
「そういうことじゃない」
最強メンタル計画ちゃんは、しばらく黙っていた。まだ眠そうだった。
それから、小さく言った。
「補完不要」
「逃げ場なし」
「逃げ場」
「なかったでしょ」
「なかった」
「でしょうね」
赤ペン先生は、少しだけ表情を緩めた。
「今日はもう寝て。明日、たづなさんにも報告」
「たづなさん」
「うん」
「台帳」
「たぶん」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ布団に沈んだ。
「復刻、失敗」
「失敗というか、悪化」
「悪化」
「うん」
「でも、分析は」
「分析は、少しだけ分かる」
最強メンタル計画ちゃんが、薄く目を開けた。
赤ペン先生は続けた。
「でも、結論が違う」
「結論」
「全部揃えたら安全、じゃない」
「……」
「全部揃えたら、全部から来る」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ考えた。眠そうな顔のまま。
「全部」
「そう。全部」
「強い」
「強い」
「スピカさん」
「そこは否定しないけど、耐性訓練にはしない」
「……ん」
最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。
本当に分かったかは分からない。でも、今は眠そうだった。
赤ペン先生は、布団をかけ直した。
「寝て」
「……ん」
「明日、ちゃんと話す」
「……ん」
最強メンタル計画ちゃんは、目を閉じた。
今度は、VRの中ではなく、普通に眠った。
赤ペン先生は、机に戻った。
機材をまとめる。VRゴーグル。ヘッドホン。再生機器。ケーブル。旧V2のノート。新しいノート。
全部を一箇所に集める。
封印用の箱は、部屋にはない。明日、たづなさんに渡す。それまでは、自分が管理する。
赤ペン先生は、最後にノートをもう一度開いた。
黒い文字。
最強復刻メンタル計画
初心に帰る。
赤い文字。
→ そういうことじゃない。
その下。
補完不要
→ 逃げ場なし。
赤ペン先生は、少しだけ笑った。
呆れた笑いだった。でも、完全に嫌そうではなかった。
この子は、またやらかした。久しぶりに、かなり大きくやらかした。でも、たぶん明日には反省する。
反省して、また別の方向へ行く。
その別の方向が安全かどうかは、分からない。
分からないけれど。
赤ペン先生は、ベッドで眠る親友を見た。
「……次は、ちゃんと相談してね」
返事はなかった。
その代わり、最強メンタル計画ちゃんは、穏やかに眠っていた。
赤ペン先生は、ノートを閉じた。
部屋の灯りを少し落とす。
トラップハウスは、ひとまず解除された。
ひとまず。