7話・特定管理植物区画

捕獲は不可能だった。

たづなさんがそう判断した直後も、花はまだ走っていた。

ぱたぱた。ぱたぱた。

廊下の奥。中庭の端。封鎖された通路の隙間。花は、トレセン学園の構造を理解しているわけではないだろう。でも、空いている方へ向かう。人が多い方は、なんとなく避ける。

たづなさんは、職員たちに進路を作らせた。

「花壇側は塞がないでください」

「はい」

「それ以外は、なるべく通れないようにしてください」

「はい」

「花を追わない。近づかない。見続けない」

「はい」

これは誘導ではなかった。

壁を作るだけだった。

あとは、花がどこへ行くかを決める。

赤ペン先生は、中庭の端から、花の動きを見ていた。距離を取りながら。

花は、三輪いた。

いつの間にか三輪になっていた。

三輪が、それぞれ別の方向を走っている。でも、廊下側は人で塞がれている。建物の壁がある。コンクリートの端がある。

行けない。行けない。行けない。

一輪が、方向を変えた。

ぱたぱた。

ぱたぱた。

その先に、花壇があった。

最初に花壇へ向かったのは、一番元気そうな一輪だった。

小走りから、少しずつ速くなる。

花壇の縁が近づく。

木枠が近づく。

ぱたぱたぱたぱたぱたぱた——

そのまま、飛び込んだ。

ぴょん、というよりは、ざざっという感じだった。

花が、花壇の土の中に頭から突っ込んだ。

根っこが、空中に一瞬だけ揺れた。

それから、ゆっくり土に引き込まれた。

全員が息を呑んだ。

花壇の土が少し揺れた。

花びらが、土の上でぴんとした。

それから、動かなくなった。

根を下ろしていた。

赤ペン先生は、その一連の動きを見ていた。

「自分で入った」

「はい」

たづなさんが短く答えた。

「誘導したんじゃなく」

「自ら定着した形です」

少し間があった。

「追いかけてたら、花壇に落ち着いた」

「結果として、そうなりました」

赤ペン先生は、少しだけ力が抜けた気がした。

追いかけていた。捕まえられなかった。でも、花壇に入った。

それは良かった。

良かったのに、なんとなく解決感がない。

「……たづなさん、これ予想してましたか」

たづなさんは、少しだけ間を置いてから答えた。

「可能性として、考えていました」

「でも、予定通りではない」

「……予定通りではありません」

赤ペン先生は、頷いた。やっぱり。

花は、勝手に花壇を選んだ。

土がよかったのかもしれない。水があったのかもしれない。栄養が感じられたのかもしれない。それとも、ただ疲れたのかもしれない。

なぜ花壇を選んだのかは、分からなかった。

分かりたくなかった。

最初の一輪が花壇に入ったあと、少し遅れて二輪目も向かってきた。

中庭を走っていた二輪目が、一輪目の方向に気づいたらしい。

向かってくる。速い。

たづなさんが言う。

「離れてください」

近くにいた職員たちが後退する。

二輪目は、花壇の縁に飛び乗った。

一輪目がいる場所の近くで、ぱたぱたと根を動かす。

一輪目の花びらが揺れた。

二輪目の花びらも揺れた。

挨拶のようだった。

見ていた一人が、思わず「かわい」と言いかけた。赤ペン先生が振り向く。

「見すぎない!」

「はい!」

二輪目が、土に入る。根を下ろす。定着。

さらに少し遅れて、三輪目が廊下の向こうから走ってきた。

封鎖線の隙間をくぐる。

中庭へ出る。

花壇を見る、かどうかは分からないが、その方向へ一直線に走った。

花壇の縁に。木枠に。

そのまま飛び込む。

「…………」

たづなさんは、何も言わなかった。

台帳に書いた。


三輪目・自走定着。


それだけ書いた。

赤ペン先生は、花壇を見た。

三輪、並んでいた。

非常にかわいかった。

非常にまずかった。

その頃、最強メンタル計画ちゃんが、中庭の端でようやく目を覚ました。

「……」

まず天井を見た。天井がなかった。空だった。中庭だった。

「……外」

体を起こす。赤ペン先生がいない。人が何人かいる。花壇の方を向いている。

最強メンタル計画ちゃんは、花壇を見た。

「……お花」

三輪、咲いていた。

根を下ろしていた。

花びらが、少しだけ揺れた。

「定着してる」

最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ近づきかけた。

赤ペン先生が戻ってきて、即座に袖を掴んだ。

「近づかない」

「ん」

「見すぎない」

「……きれい」

「きれいでも近づかない」

「土がいい」

「どうして分かるの」

「あの土はいい」

「そこを嬉しそうに言わない」

最強メンタル計画ちゃんは、花壇を少しだけ見た。花びらが、また揺れる。

「元気」

「元気が困る」

「でも、元気」

「それは良かった。でも近づかない」

「ん」

花壇に定着したことで、ひとまず走り回ることはなくなった。

花はそこにいる。動かない。踊らない。香りも強くない。

遠くから見ている分には、普通の花壇に見えた。普通より少し、かわいい花壇に見えた。

それが良くなかった。

園芸担当の子が、水やり用のジョウロを持ってきた。

「水、あげた方がいいんですか?」

たづなさんが少し考える。

「距離を取りながら、少量だけ」

「はい」

「顔を近づけないでください」

「はい」

「踊り出したら離れてください」

「踊り出したら」

「はい」

「分かりました」

園芸担当の子は、慎重に花壇へ近づいた。

ジョウロを傾ける。水が、細く花壇へ落ちる。

花たちは、揺れた。嬉しそうに。とても嬉しそうに。

一輪が、小さく根を持ち上げた。

赤ペン先生が言う。

「離れて」

園芸担当の子は、すぐに下がろうとした。

だが、一瞬だけ遅かった。

花が踊った。水をもらったお礼のように。右。左。くるり。花びらがきらりと揺れる。ふわっと、香りが広がった。スピカさんを思い出させるような、あの香り。

園芸担当の子は、ジョウロを持ったまま、顔を緩めた。

「あ……スピカさんみたいな……かわいい……」

そのまま、ゆっくり座り込んだ。うっとりした顔のまま。

ジョウロは、赤ペン先生が慌てて受け取った。水はこぼれなかった。

たづなさんは、台帳に一行追加した。

「水やり時、サービスダンスあり」

赤ペン先生は、頭を抱えた。

「サービスダンスって書くんですか」

「他に適切な表現が見当たりません」

「確かに」

最強メンタル計画ちゃんが、小さく言った。

「お礼」

「お礼が強すぎる」

「かわいい」

「かわいいけど、強すぎる」

「いい子」

「いい子でも、強すぎる」

特定管理植物区画

花壇の前に、たづなさん、赤ペン先生、最強メンタル計画ちゃんが並んだ。少し距離を取って。近づきすぎないように。

花たちは、花壇の中で揺れている。時々、少しだけリズムを取る。それが見えた子が、遠くで慌てて目を逸らす。

たづなさんは、台帳を開いたまま言った。

「現時点で、完全除去は見送ります」

赤ペン先生は頷いた。

「そうなると思いました」

「理由は、無理な除去による二次被害が大きいこと」「はい」「対象に攻撃性はないこと」「はい」「自発的に花壇へ定着したこと」「はい」「怪我や後遺症は確認されていないこと」「はい」「ただし、接近時、観察時、水やり時に満足げな顔で倒れる生徒が発生すること」「はい」

たづなさんは、少しだけため息をついた。

「よって、特定管理植物区画として経過観察します」

赤ペン先生は、聞き慣れない言葉に一瞬だけ黙った。

「特定管理植物区画」

「はい」

「学園に、そういう区画ができるんですね」

「できてしまいました」

「ですよね」

最強メンタル計画ちゃんが、小さく言った。

「住み着いた」

「嬉しそうに言わない」

「元気」

「元気なのが困る」

「土がいい」

「そこも嬉しそうに言わない」

たづなさんは、最強メンタル計画ちゃんを見る。

「今回の件については、後ほど詳しく確認します」

「……はい」

「液体の作成経緯、成分、廃棄方法、全てです」

「……はい」

「窓から捨てないでください」

「……はい」

「お花だから安全、と判断しないでください」

「……はい」

「かわいいから安全、と判断しないでください」

「……はい」

最強メンタル計画ちゃんは、小さくなった。

赤ペン先生は、少しだけ横を見る。反省している。たぶん。

ただ、花壇の花が揺れるたびに、最強メンタル計画ちゃんの耳も少し動く。

完全に目を離すのは、まだ怖かった。

その日のうちに、花壇の前には小さな札が立てられた。


特定管理植物区画

・無断接近禁止

・水やりは二人一組

・踊り出した場合は距離を取る

・香りを感じた場合は深追いしない

・見続けない

・幸せそうに倒れている生徒を見つけた場合は保健室へ

・花がかわいくても近づかない


赤ペン先生が最後の一行を見て、少しだけ頷いた。

「大事」

たづなさんも頷いた。

「大事です」

最強メンタル計画ちゃんは、その札をじっと見た。

「花がかわいくても」

「近づかない」

「ん」

「あなたも」

「……ん」

「水やりしない」

「……」

「返事」

「……ん」

赤ペン先生は、目を細めた。

「今の間、何?」

「……水やり」

「しない」

「……二人一組なら」

「しない」

「……遠くから」

「しない」

「……お花」

「しない」

花壇の中で、一輪が小さく揺れた。まるで、こちらに気づいたように。

最強メンタル計画ちゃんが、ほんの少しだけ手を上げかけた。赤ペン先生が、その手を下ろした。

「手を振らない」

「ん」

花は、くるりと一度だけ回った。遠くからでも、キレがよかった。

最強メンタル計画ちゃんの目が少し輝いた。

赤ペン先生が言う。

「評価しない」

「ん」

花壇は、今日から学園の一部になった。

困った一部。かわいい一部。危険な一部。そして、妙に元気な一部。

夕方

夕方になると、花壇は少し落ち着いていた。

走り回る音はしない。ぱたぱたという音も、今は聞こえない。

花たちは、普通に咲いている。風に揺れている。ただ、風がない時にも、少しだけリズムを取ることがある。それを見た子が、遠くで小さく悲鳴を上げて目を逸らす。

赤ペン先生と最強メンタル計画ちゃんは、少し離れた場所から見ていた。

「今日だけで、何人落ちたと思う?」

「数えてない」

「数えなくていい」

「怪我はなかった」

「それはよかった」

「みんな幸せそうだった」

「それも、まあ、よかったのかな」

「でも、だめ」

「そう。だめ」

最強メンタル計画ちゃんは、小さく頷いた。

「……ごめん」

赤ペン先生は、少しだけ息を吐いた。

「後で後輩ちゃんにも謝ろう」

「ん」

「花には近づかずに」

「ん」

「花を持って行こうとしない」

「しない」

「花からもらおうとしない」

「もらわない」

「本当に」

「ん」

花壇の一輪が、夕方の光の中で、そっと揺れた。

最強メンタル計画ちゃんは、それを見て小さく言った。

「……元気」

赤ペン先生は、諦めたように笑った。

「元気なのが困るんだよ」

その声は、少しだけ柔らかかった。