はしっこ
#### ――届く形――
いってきます。
そう口にした。
……つもりだった。
自分の喉が震えた感覚はある。息が形になって、唇の間から外へ出ていった感覚もある。
けれど、それが本当に言葉になっていたのか。
私には、もうわからない。
玄関の向こうで、お母さんが何かを言った。
口の形を見る。少し眉を下げて、でも無理に笑っている。手を小さく振っている。
たぶん。いってらっしゃい。そう言ったのだと思う。
私は笑って、手を振り返した。ちゃんと笑えていたかは、わからなかった。
ドアを閉める。朝の空気が頬に触れる。
春先の少し冷たい風。頬を撫でる感触。制服の袖を揺らす気配。遠くで誰かが走っている振動。校門へ向かう子たちの足音……だったはずのもの。
全部、見える。
でも、聞こえない。
私の世界から音が消えたのは、あのレースの日からだった。
転倒。
それ自体は、レースでは決して珍しいことではない。もちろん危ない。怖い。痛い。でも、走っている以上、絶対に起こらないとは言えない。
私は、あの日、最終コーナー手前で前の子の動きに反応しきれず、バランスを崩した。
視界が傾いた。芝が近づいた。身体が投げ出された。誰かが叫んだ気がした。
ゲートの音。歓声。実況。周りの足音。自分の呼吸。心臓の音。
全部がぐちゃぐちゃになって。
そして、消えた。
目が覚めた時、病院の天井が見えた。
白い天井。白いカーテン。点滴の管。ベッド脇に座っているお母さん。少し離れたところで、腕を組んで立っているお父さん。
二人とも、泣きそうな顔をしていた。
私は何か言おうとした。大丈夫、と。
でも、私の声は聞こえなかった。
その時は、まだ状況がわかっていなかった。耳が詰まっているのかと思った。少しすれば戻ると思った。
お医者さんが来て、口を動かした。私は聞こえなかった。
お母さんが泣いた。お父さんが唇を噛んだ。看護師さんが紙を持ってきた。そこに、説明が書かれていた。
私は何度も読んだ。読んでも、意味が頭に入ってこなかった。
耳が聞こえない。戻らない可能性が高い。治療で元通りにすることは、難しい。
足に大きな怪我はなかった。骨も、筋も、走るために必要なものは無事だった。だから、周りの人は言った。
足が無事でよかった。命があってよかった。また走れるかもしれない。
それは本当だった。本当に、その通りだった。私は今も走れる。
でも。
ゲートの音が聞こえない。スタートの合図が聞こえない。トレーナーの声が聞こえない。周りの足音が聞こえない。後ろから迫る気配も、前で乱れる音も。
レースの中にあったはずの、たくさんの音がない。
それは、思っていたよりずっと致命的だった。
最初は泣いた。たくさん泣いた。
どうして私なんだろう。どうしてあの時、転んだんだろう。どうして音だけが消えたんだろう。
でも、人は不思議なもので。ずっと泣き続けることはできなかった。
泣き疲れる。眠る。起きる。また現実がある。
何日も、何週間も、そうしているうちに、少しずつ生活は形を変えていった。
手話を覚え始めた。最初は指がもつれた。思ったことをすぐに伝えられなくて、何度も悔しくなった。
でも、お母さんも覚えてくれた。お父さんも、不器用ながら覚えてくれた。友達も覚えてくれた。トレセンの先生たちも、紙やタブレットで対応してくれた。
日常生活は、少し不便になった。でも、どうにもならないほどではなかった。
笑うこともできるようになった。走ることも、少しずつ再開した。
でも。
寂しさだけは、なかなか薄れなかった。
音のない世界は、静かすぎる。
いや、静かという言葉すら、今の私には少し違う。静か、というのは本当は、音が小さいことだ。何かがあるけれど、遠いことだ。耳を澄ませば、かすかに届くことだ。
でも私の世界には、それすらない。
雨が降っても、雨音はない。風が吹いても、木々のざわめきはない。食堂でみんなが笑っていても、笑い声はない。
そして。
お母さんの声がない。お父さんの声がない。友達の声がない。
それが一番、寂しかった。
そんなある日だった。
トレーニング場の隅で、私は一人でストレッチをしていた。
走路では、別の子たちが追い切りをしている。足が地面を蹴る振動が、かすかに伝わってくる。
見れば、みんな真剣な顔をしていた。誰かが何かを叫んでいる。トレーナーが手を振っている。ゴール板の近くで、仲間が口を大きく開けて応援している。
全部、見える。でも、聞こえない。
私は視線を落とし、伸ばした脚に手を添えた。
その時、影が差した。
顔を上げると、駿川たづなさんが立っていた。
いつもの緑の制服。落ち着いた表情。少し心配そうな目。
たづなさんは、胸の前にスケッチブックを持っていた。
ページをめくる。
そこには、きれいな字で書かれていた。
『少し、お時間よろしいですか?』
たづなさんは、ゆっくりページをめくっていく。
『新しい試験があります』
『医療班と技術班が進めているものです』
『まだ試作品です』
『危険性がないよう、慎重に進めています』
『あなたの耳を治すものではありません』
『けれど、音や言葉を、別の形で届けられるかもしれません』
『参加してみませんか?』
私は、スケッチブックの文字をじっと見つめた。
耳を治すものではない。
その一文が、なぜか一番信じられた。
もし最初から「聞こえるようになります」と書かれていたら、私は多分、逃げていたと思う。期待したくなかったから。期待して、だめだった時のことを考えたくなかったから。
でも、たづなさんはそれを知った上で、この話を持ってきていることがわかった。
治すのではない。届く形を探す。
私は少し迷った。迷って、たづなさんを見た。
たづなさんは急かさなかった。ただ、私が答えるのを待ってくれた。
「……やって、みたいです」
自分の声は聞こえない。でも、たづなさんの表情が少し和らいだ。伝わったのだと思った。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
数日後。私は病院にいた。
白い部屋。大きな窓。清潔な匂い。柔らかい椅子。
たづなさんがいる。お母さんとお父さんもいる。お医者さんがいる。技術班の人らしい白衣の女性もいる。
私はベッドに腰掛けていた。
たづなさんが、説明書の紙の束を渡してくれた。
私は一枚ずつ読んだ。
『今回使用するものは、インナーイヤホン型の試作品です』
『耳そのものを治療するものではありません』
『周囲の音声を機械が拾い、内容を解析し、使用者に届きやすい形へ変換します』
『今回は試験として、機械音声による再出力を行います』
『聞こえ方には個人差があります』
『不快感、痛み、めまいがあれば、すぐに停止します』
『使用者本人が停止できるボタンがあります』
『医師、技術者、保護者、学園担当者が立ち会います』
私は何度も読んだ。怖くないわけではなかった。期待していないつもりだった。でも、紙を持つ手が震えていた。
それに気づいたお母さんが、私の手を両手で包んだ。お母さんの唇が動いた。大丈夫、と。
私は頷いた。
技術班の人が、小さなケースを開けた。
中に入っていたのは、黒い小さなイヤホンだった。
思ったより普通だった。もっと重々しいものを想像していた。金属の輪や、頭にかぶる装置や、胸に貼る板のようなもの。
けれどそこにあるのは、日常で使うイヤホンとほとんど変わらない形だった。
こんな小さなものが。本当に、何かを変えるのだろうか。
たづなさんがスケッチブックを見せる。
『無理はしなくて大丈夫です』
私は首を振った。やってみたい、と手話で伝えた。
たづなさんは頷いた。
私はゆっくりと耳に入れた。右耳。左耳。少し違和感がある。でも痛くはない。耳の奥に何かがある、という感覚。それだけだった。
お医者さんが手を上げた。きっと、スイッチが入ったのだと思った。
最初は、何も変わらなかった。
白い部屋。お母さん。お父さん。たづなさん。みんながこちらを見ている。
私は、耳の奥に意識を向けた。
何も聞こえない。やっぱり。
そう思った。期待していなかったはずなのに、胸が少し沈んだ。
その時。
お母さんが口を開いた。唇が震えていた。頬が濡れていた。
『――聞こえますか』
耳の奥に、音が入った。
私は息を止めた。
それは、お母さんの声ではなかった。私が覚えている、柔らかくて少し高いお母さんの声ではない。
平坦な、少し硬い、機械の声。抑揚もまだぎこちない。人の声というより、機械が読み上げている言葉に近い。
でも。
『聞こえますか』
その内容は、紛れもなく、お母さんの言葉だった。
私は目を見開いた。
お母さんがまた口を動かす。
『お母さんです』
機械の声が言った。
『聞こえていますか』
私は口元を押さえた。胸の奥が、急に熱くなった。喉が詰まる。
お父さんが、何かを言った。少し間があって、機械の声が続く。
『お父さんだ』
短い言葉。それだけ。でも、その言い方は。内容は。間違いなく、お父さんだった。不器用で、短くて、言葉が少ない。私が知っている、お父さんの話し方だった。
『無理するな』
機械の声が言った。お父さんの声ではない。でも、お父さんの言葉だった。
私は、もう耐えられなかった。
「……聞こえる」
そう言った。自分の声は聞こえないはずだった。
けれど、次の瞬間。
『聞こえる』
機械音声が、自分の言葉を耳に返した。それは、私の声ではなかった。私が覚えている、自分の声ではない。でも。
私が言った言葉だった。私の口から出た言葉が、耳に返ってきた。
その瞬間、何かが壊れた。
私は泣いた。声を出して泣いた。その声も、機械音として耳に入ってきた。
変だった。少し怖かった。
でも。
聞こえた。
私が泣いていることが、音として届いた。
お母さんが私を抱きしめた。お父さんの手が、背中に触れた。
しばらくして、落ち着いた頃。
技術班の人が口を開いた。
『もし親御さんに協力していただければ、ご両親の声に近い形へ調整できる可能性があります』
私は固まった。ゆっくり顔を上げる。お母さんを見る。お父さんを見る。
お母さんは、両手で口元を押さえていた。お父さんは目を見開いていた。
技術班の人は、少し緊張した表情で続ける。
『すぐに完全再現できるわけではありません』
『昔と同じ声になるとは言えません』
『でも、録音や発話協力があれば、今の機械音より自然に近づけられます』
『あなたが望むなら、少しずつ調整できます』
お母さんは何かを言った。機械の声が届く。
『もちろん協力する』
お父さんも言った。
『いくらでも話す』
短い。お父さんらしい。
私はまた泣いた。今度は、さっきより静かに泣いた。
胸の奥にずっと置いたままだった寂しさに、少しだけ温かいものが触れた。凍っていた場所が、少し溶けた気がした。
たづなさんが、そっとスケッチブックを見せた。
『無理に前と同じにならなくても大丈夫です』
私はその文字を読んだ。次に、たづなさんの口が動く。
『あなたに届く形を、一緒に探しましょう』
機械の声が、同じ内容を耳へ届けた。
私は頷いた。何度も頷いた。
帰り道。病院の外は夕方だった。
空が橙色に染まっている。車が通る。人が歩く。どこかで鳥が飛んでいる。
相変わらず、音は聞こえない。
でも、私は少しだけ違う気持ちでその景色を見ていた。
お父さんが少し後ろを歩いている。私は振り返って、お父さんを見た。
お父さんが何かを言った。口の形と表情でなんとなくわかった。寒くないか、と。
私は笑って首を振った。
むしろ、胸の中は温かかった。
その日、私はメモを書いた。
『機械音だけど、聞こえた』
『疲れる』
『少し遅れる』
『でも嬉しかった』
『お母さんの声に近づけたい』
『お父さんの声も』
『友達の声も、いつか』
『自分の声が聞こえてびっくりした』
『泣いた』
『怖かった』
『でも、もう一度使いたい』
最後に、少し迷ってから書いた。
『届いた』
夜。寝る前に、お母さんからメッセージが届いた。
『今日はよく頑張ったね』
『お母さん、たくさん話す練習するね』
『少しずつでいいから、一緒にやろうね』
私は返事を打つ。
『うん』
『また聞かせて』
音のない部屋で、少し泣いた。
でも、もう完全な無音ではなかった。今日聞いた機械音声が、耳の奥ではなく、胸の奥に残っている。
『聞こえますか』
『お母さんです』
『無理するな』
声は違った。でも、言葉は確かに届いた。
翌日から、私はまたトレーニング場に立った。
レースに戻れるかは、まだわからない。ゲートの問題もある。周囲の安全確認もある。自分の不安もある。この技術があればすぐに走れる、なんて簡単な話ではない。
でも、初めて思った。
もう絶対に無理だと決めつけなくてもいいのかもしれない。
走り方も。会話の仕方も。世界とのつながり方も。
前と同じではなくても。
違う形で、また見つけられるかもしれない。
練習後、私は寮の部屋に戻った。
机の上には、手話の本と、病院でもらった説明資料が置いてある。
私はスケッチブックを借りて、さっき、たづなさんに手話で伝えたことを思い出した。
『誰が作ったんですか?』
たづなさんは一瞬だけ、表情を固めた。本当に一瞬だった。そして、少し困ったように笑った。
スケッチブックに書いた。
『発想と基礎技術を作った生徒がいます』
『少し危なっかしいですが、誰かを助けたい気持ちの強い子です』
『今は、大人たちと一緒に安全な形へ直しています』
私はその文字を読んだ。
危なっかしい。誰かを助けたい。
その二つが並んでいるのが、少し不思議だった。
でも、私はイヤホンを見た。
これを作った誰かは、きっと知らない。私が、もう一度お母さんの言葉を聞いたこと。お父さんの「無理するな」が届いたこと。自分の声が返ってきて、泣き崩れたこと。
まだ完璧ではない。でも、その子の作ったものが、私の世界に小さな穴を開けた。閉じていた場所に、光を入れた。
私は一枚の紙に、文字を書いた。
『その子に、ありがとうと伝えてください』
そして、机の引き出しにしまった。
いつか、届くかもしれない。
届かなくても、今日は十分だった。
明日も世界は、きっと音がない。
でも、今日からは少し違う。
聞こえなくなった私の世界に、届く形を探してくれる人たちがいる。そのことを知ったから。
私は小さく息を吐いた。
自分の声は聞こえない。
でも、今はそれでいい。
いつかまた、違う形で返ってくるかもしれない。
そう思いながら、私は眠った。