真・最強メンタル計画V5(親友へのプレゼント)
── 旧V5の記憶 ──
旧V5。
それは、嗅覚だった。
音は危険。映像も危険。静止画も危険。立体物も危険。
だから嗅覚を試した過去の自分は、なんちゃって白衣を着て机に実験器具を並べ、どこかの怪しい研究者のような顔でノートに文字を書き連ねていた。
結論から言えば、危険だった。
とても危険だった。
薄めたハンカチでさえ危険だった。芳香剤は部屋そのものを危険地帯に変えた。服に匂いをつける案は、その後のアパレル系面接で遠回しに注意を受けた。マスクに付与する案は、もはや自分でも耐えられない気がする。
結果、部屋は封鎖された。
同室の子は、息を止めて救助に来た。
自分は椅子にしがみつきながら、幸せそうに気絶していたらしい。
ノートには、赤ペンで大きく書かれている。
『匂いは拡散する』
『拡散するものは管理が難しい』
『人に迷惑をかけないこと』
『親友を困らせないこと』
その最後の一文を見て、彼女はしばらく黙った。
机の上に広げた古いノート。その隣には、新しいノート。
表紙には、丁寧な字でこう書かれている。
『真・最強メンタル計画V5』
昔の自分は、ただ自分のメンタルを強くしたかった。スピカの声に耐えたい。スピカの映像に耐えたい。スピカ概念を環境化して、日常の中で精神力を鍛えたい。
もちろん、その気持ち自体は今もある。
ある。めちゃくちゃある。
でも、それだけではない。
今の自分は、少しだけ変わった。
たくさん失敗した。同室の子に迷惑をかけた。理事長室に危険物を持ち込んだ。たづなさんの胃を何度も攻撃した。部屋を封鎖した。金庫を圧迫した。倉庫の一角に変な歴史を積み上げた。
だから、もう同じ失敗はしない。
周りに迷惑をかけたくない。
そして何より。
同室の親友を、大切にしたい。
「……環境化」
彼女は呟いた。
目指すものは変わらない。日常に自然と溶け込むもの。使う人を支えるもの。怖くないもの。迷惑をかけないもの。そして、少しだけ心を強くしてくれるもの。
だが、嗅覚は難しい。
香りは広がる。広がる以上、制御が必要になる。制御できなければ、旧V5の二の舞である。
芳香剤はダメ。部屋が終わる。
衣服もダメ。周囲へ移る可能性がある。
マスクもダメ。近すぎる。たぶん耐えられない。自分が。
ペン先が止まる。
ノートの上で、黒いインクが小さな点を作った。
視線がふと横へ流れる。
机の端に、小さな鏡があった。その隣には、化粧箱。淡い色の小さな箱で、リボンの飾りがついている。
同室の子が、少し前に買ってくれたものだった。
『たまにはおしゃれもしなよー』
そう言って笑っていた。
化粧水。リップクリーム。小さなブラシ。ハンドクリームのサンプル。
同室の子は、そういうものを自然に選べる。
自分よりずっと器用で、優しくて、面倒見がよくて、ちゃんと周りを見ている。
いつも怒るけれど、見捨てない。呆れるけれど、助けてくれる。ノートに赤ペンを入れてくれる。危険物を見つけると回収してくれる。それでも、次の日には普通に「朝だよ」と起こしてくれる。
その子が買ってくれた化粧箱。
彼女は、それをじっと見た。
そして。
「……そうだ」
ペンを握る手に力が入った。
「ハンドクリーム」
小さく呟く。
次の瞬間、瞳が輝いた。
「そうだ! 同室の子に、ハンドクリーム作ってプレゼントしよう!」
やばい企画が生まれた瞬間であった。
本人の中では、善意だった。
間違いなく善意だった。
── スピカ概念成分・極薄 ──
ハンドクリーム。
女性の必需品。乾燥から肌を守る。手荒れを防ぐ。練習や家事や勉強で酷使する手をいたわる。成分によっては保湿力も高められる。さらに、仄かに香る良い匂いで精神も落ち着かせることができる。
企画だけなら、もはや化粧品メーカーの商品開発である。
彼女は凄まじい速度でノートに書き始めた。
『真・最強メンタル計画V5』
『テーマ:嗅覚の安全な局所化』
『目的:香りを空間に拡散させず、必要な人だけが必要な時に使えるケア用品化』
『副目的:親友への感謝を形にする』
ここまでは、とても良かった。
とても良かったのだ。
問題は、その下だった。
『香り:スピカ概念成分・極薄』
『方向性:安心、応援、あたたかさ、そばにいる感じ』
『注意:強すぎない。絶対に強すぎない』
『注意:本人由来ではなく、あくまで概念』
『注意:概念ならセーフ』
アウトである。
概念ならセーフではない。
むしろ概念が一番危ない。
しかし、彼女は真剣だった。
前回の反省を活かして、部屋に広がらないようにする。衣服につけない。マスクにもつけない。手に少量だけ使う。プレゼントとして喜んでもらえる。スキンケアとして役立つ。
完璧だ。
彼女の中では、完璧だった。
ただ、一つだけ問題がある。
彼女は、スピカ概念に関する危険度の見積もりだけが壊滅的に甘い。
企画書は提出することにした。
したのだが。
今回は、少しだけ迷った。
同室の子へのプレゼント。それを書いたら、止められるかもしれない。いや、止められるというより、心配されるかもしれない。心配はかけたくない。驚かせたい。喜んでほしい。いつもありがとうと伝えたい。
だから彼女は、企画書に少しだけごまかして書いた。
『試作品は自分用に少量作成』
『香りは市販品レベル以下』
『周囲への拡散性は低い』
『安全確認後、希望者へ配布検討』
嘘ではない。
嘘ではないが、重要な情報が抜けている。
同室の子へのプレゼントであること。香りがスピカ概念であること。そして、自分がフライング制作する気満々であること。
彼女は企画書を封筒に入れた。
そして、机の下から箱を取り出した。
いつぞやのフラスコセット。
今回は慎重に材料を並べていく。
ちゃんと調べた。刺激の強いものは避けた。肌につけるものだから、そこは真面目に考えた。
白衣も着た。なんちゃって白衣だが、本人は気合いを入れるために着た。手袋もした。換気もした。机の上には清潔なシートも敷いた。
ここだけ見れば、かなりまともだった。
ここだけ見れば。
小さな容器の中で、乳白色のクリームがゆっくり混ざっていく。なめらかで、上品で、やわらかい。
「いい感じ……」
そして最後に、小さな瓶を取り出す。
ラベルには、本人の字でこう書かれていた。
『スピカ概念成分・極薄』
絶対に出してはいけない瓶である。
ただし、中身は本当に薄い。旧V5の反省から、濃度は極限まで下げている。拡散しにくいように調整もした。匂いも強くない。鼻を近づけなければ、ほとんどわからない。
だからこそ危険だった。
それは、押しつけがましい香りではない。
ふとした瞬間に気づく程度の、仄かな香り。安心するような。あたたかいような。そっと背中を押してくれるような。どこかで聞いた優しい声を思い出すような。
スピカ概念である。
最悪である。
ほんの一滴にも満たない量を加えて、混ぜる。混ぜる。混ぜる。
クリームは、変わらず乳白色のままだった。
彼女は少量を試験紙に取り、そっと鼻を近づけた。
「……うん。大丈夫」
大丈夫ではない。
ただ、彼女はこの手の危険物に耐性がつき始めている。旧V1からV7.1までやり切った女である。気絶しないから安全、という判断基準がそもそも間違っている。
だが、気絶しなかった。だから彼女は安心した。
「これなら、きっと大丈夫」
小さな丸いケースにクリームを詰める。蓋を閉める。淡い色の紙で包む。リボンを結ぶ。最後に、小さなカードを添えた。
『いつもありがとう。よかったら使ってね』
その文字を書いた時、彼女は少しだけ照れた。
同室の子が開けた時の顔を想像する。
驚くだろうか。笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
いつも怒らせてばかりだから。いつも助けてもらってばかりだから。たまには、自分も何か返したい。
そう思うと、胸があたたかくなった。
── プレゼント ──
夕刻。
トレーニングを終えた同室の子が、部屋に戻ってきた。
「ただいまー」
扉を開けた瞬間、彼女は警戒した。
まず床を見る。倒れていない。机を見る。爆発していない。空気を吸う。変な匂いはしない。ベッドを見る。本人が幸せそうに気絶していない。
よし。今日は大丈夫。
「おかえり!」
問題児が、ぱっと顔を上げた。
気絶していない。目も回っていない。ヘッドホンもつけていない。VRゴーグルもない。天井にも不審物はなさそう。部屋に妙な機械もない。
同室の子は、ほっとした。
「今日は平和そうだね」
「うん!」
その返事が元気すぎて、少しだけ不安になった。
「……本当に?」
「本当に!」
問題児は立ち上がった。
そして、両手で小さな包みを差し出す。
「これ!」
「え?」
「いつもありがとうって思って……作ったの」
同室の子は瞬きをした。
包みは丁寧にラッピングされていた。淡い色の紙。不器用だけれど、頑張って結んだのがわかるリボン。小さなカード。
そこには、見慣れた字で書かれていた。
『いつもありがとう。よかったら使ってね』
「……え」
同室の子の目が、少し潤んだ。
「なにこれ……」
「プレゼント」
「私に?」
「うん」
問題児は、少し照れながら笑った。
「いつも迷惑かけてるから。あと、助けてもらってばっかりだから。何か返したくて」
同室の子は、黙った。
そして、ゆっくり包みを受け取った。
「……もう」
声が少し震えていた。
「そういうことするなら、先に言ってよ」
「先に言ったら驚かないかなって」
「驚くよ。普通に驚くよ」
同室の子はリボンをほどいた。紙を開く。中には、小さな丸いケースが入っていた。
「ハンドクリーム?」
「うん! 肌に優しい成分で作ったの。乾燥する季節だし、トレーニングの後とか手荒れするかもしれないし」
「……作ったの?」
「うん!」
少し不安になった。だが、ケースの見た目は普通だった。むしろ、かなり可愛い。
同室の子は、蓋を開けた。中には、乳白色の上品なクリーム。
「すごい……ちゃんとしてる」
「頑張った!」
同室の子は、少しだけ指先に取った。なめらかな感触。肌に伸ばすと、すっと馴染む。
「あ、いいかも」
「でしょ!」
「普通にすごいじゃん。え、ほんとにすごいよ。これ」
同室の子は笑った。心から嬉しそうだった。
その顔を見て、問題児の表情もぱあっと明るくなる。
「よかった……!」
「いや、これ普通に嬉しい。ありがとう」
「うん!」
「……匂いもする?」
「ちょっとだけ。強くないようにした」
「へえ」
同室の子は、手元を鼻に近づけた。
問題児は、わくわくした顔でそれを見る。
その瞬間。
同室の子の表情が、ふっとやわらいだ。
「……あ」
仄かな香り。強くない。むしろ、ほとんどわからないくらい。でも、確かにある。
あたたかい。落ち着く。安心する。胸の奥が、ふわりとほどけるような香り。
どこかで聞いた声を思い出す。
大丈夫だよ、と言われたような。頑張ってるね、と見てくれているような。走る姿が好きです、と真っ直ぐ言ってくれるような。
「……いい匂い」
「ほんと?」
「うん。安心する」
「よかった! 旧V5から学んで改良したんだ!」
その一言で、同室の子の時間が止まった。
「……え?」
旧V5。嗅覚。部屋封鎖。息止め救助。椅子ごと搬出。幸せそうに意識が飛んだ。
同室の子の脳内で、過去の記憶が一瞬でつながる。
ゆっくり、机へ視線を向ける。そこには、見慣れたノートがあった。
表紙には、堂々と書かれている。
『真・最強メンタル計画V5』
「……これ、何の匂い……?」
「スピカ概念成分を極薄に――」
「言わないで!」
遅かった。
完全に遅かった。
── 二人、仲良く気絶する ──
同室の子の耳がぴんと立つ。尻尾が震える。頬が赤くなる。目がぐるぐるし始める。
「うそ、待って、これ手についてる、近い、近い近い近い、いや匂い自体は優しいのに、意味を知ったら、だめ、これ、だめなやつ……!」
「えっ、えっ、大丈夫!? 薄いよ!? すごく薄いよ!?」
「薄いとかじゃない……! 意味……意味が……!」
同室の子は一歩下がろうとした。だが、足に力が入らない。
手元からふわりと香る。強くない。でも逃げられない。だって手についている。
自分の手から、スピカ概念がする。
手を離せない。鼻を遠ざけても、自分の身体についているという事実が追いかけてくる。
「あ、これ……幸せなやつ……」
「幸せ!?」
「違う、違わないけど、違う……!」
同室の子は、最後の理性でベッドのほうへ身体を向けた。
倒れるなら、床ではなくクッションへ。その判断は見事だった。
次の瞬間。
「……すぴ、か、さん……」
ぽすん。
同室の子は、クッションへ倒れ込んだ。幸せそうな顔で、気絶した。
「ええええええええええっ!?」
問題児は真っ青になった。
「なんで!? なんで!? 今回は安全にしたのに! ちゃんと薄くしたのに! 部屋に広がらないようにしたのに!」
彼女は慌てて駆け寄る。肩を揺すろうとする。
その時。
同室の子の手が、ふわりと動いた。
ハンドクリームを塗った手。乳白色のクリームが馴染んだ手。仄かなスピカ概念の香りをまとった手。
それが、問題児の鼻先をかすめた。
「――あ」
香りがした。強くない。本当に強くない。
けれど、自分で作ったからこそ、わかる。保湿成分の奥にある、あたたかい気配。応援。安心。そばにいる感じ。
そして、親友の手からするスピカ概念。
自分が作った。親友に贈った。親友が喜んでくれた。親友が使ってくれた。
その全部が、一気に胸に流れ込んだ。
「……よろこんで、くれた……」
彼女の目が潤んだ。嬉しさと罪悪感と達成感とスピカ概念が混ざる。脳が処理を諦める。
「あ、これ……だめ……」
ぽすん。
問題児も、同室の子の隣に倒れ込んだ。
二人並んで、幸せそうに気絶した。
部屋は静かになった。
机の上には、真・最強メンタル計画V5のノート。小さなケースに入ったハンドクリーム。そして、ラッピングの紙。
カードには、こう書かれている。
『いつもありがとう。よかったら使ってね』
善意だった。本当に、善意だった。感謝だった。成長の証でもあった。
部屋は封鎖されていない。香りも拡散していない。周囲に迷惑はかけていない。プレゼントとしての出来は、かなり良い。
ただし。
使用者と制作者が、仲良く気絶した。
しばらくして、廊下を通りかかった寮長が、半開きの扉に気づいた。
「……また?」
中を覗く。床に怪しい機材はない。煙もない。異臭もない。音も鳴っていない。VRゴーグルもない。天井に何か貼られている様子もない。
ただ、ベッド横のクッションに、二人のウマ娘が仲良く倒れている。
とても幸せそうに。
寮長は、無言で机を見た。
『真・最強メンタル計画V5』
静かに目を閉じた。
「……V5まで来たかぁ」
旧ではない。真である。しかもV5である。
寮長は、そっと部屋に入った。まず窓を開ける。空気を確認する。問題なし。次にノートを開く。数ページ読む。眉間を押さえる。
「……成長はしてる」
している。確かにしている。
旧V5よりは、ずっと考えている。周囲への配慮もある。親友への感謝もある。商品設計としても、発想自体は悪くない。
ただ、香りの方向性が最悪だった。
「スピカ概念成分って何……?」
寮長は、ケースを見た。触るか迷った。迷って、触らなかった。経験が、危険を告げていた。
代わりに、ハンカチを使ってケースの蓋を閉める。
その後、数分もしないうちに、駿川たづなへ連絡が入った。
── たづなさん、到着 ──
報告を読んだたづなさんは、しばらく画面を見つめた。そして、深く息を吐いた。
「……ハンドクリーム」
机の上には、まだ処理しきれていない書類がある。危険物保管リスト。たづなさんは、そのファイルを開いた。
音声。VR。静止画。立体物未遂。匂い。食べ物。ドリンク。その他。
新しい欄を追加する。
『真V5:ハンドクリーム』
「……化粧品まで来たんですね」
疲れた声だった。しかし、すぐに立ち上がる。
生徒が倒れている。親友へのプレゼントだった。善意の事故である。
ならば、叱るにしても、まず安全確認が先だ。
たづなさんは救護セットを持ち、部屋を出た。
その途中で、秋川やよい理事長と鉢合わせた。
「むっ! たづな、どこへ行くのだ!」
「生徒寮です」
「事件か!」
「真・最強メンタル計画V5です」
理事長の目が輝いた。
「もうV5か!」
「その反応はやめてください」
「して、今回は何を!」
「ハンドクリームです」
「ハンドクリーム!」
理事長は、ぱあっと顔を輝かせた。
「それは実用的ではないか!」
「実用的だから困っているんです」
「む?」
「発想は悪くないんです。むしろ、かなり良いです。だからこそ、危険性の切り分けが面倒なんです」
やよい理事長は顎に手を当てた。
「つまり、改善すれば使える可能性があると!」
「今その話はしていません」
「だが、生徒の努力を無下には――」
「理事長」
たづなさんが笑った。にこりと。
「触りませんよね?」
「……うむ」
「嗅ぎませんよね?」
「……うむ」
「業務上の確認もしませんよね?」
「……う、うむ」
「よろしい」
やよい理事長は、なぜ自分が先に釘を刺されているのか少し不満そうだった。だが、前科が多すぎた。
生徒寮に到着すると、寮長が待っていた。
「二人とも意識はありませんが、呼吸は安定しています。表情は……いつもの、あの感じです」
「いつもの、という言葉が定着してしまいましたね」
たづなさんは部屋に入った。空気を確認する。問題なし。机の上のハンドクリームを見る。距離を取る。ノートを見る。読む。しばらく沈黙する。
「……成長していますね」
「ですよね?」と寮長が頷いた。「前よりずっと考えてます。親友の子への感謝も本物ですし、周りに迷惑をかけないようにしてますし」
「ええ」
「ただ、最後の最後で一番危険な成分を入れています」
「はい」
「概念なら安全だと思っているところが、相変わらず致命的です」
「はい」
やよい理事長が小声で呟く。
「スピカ概念成分……」
「理事長」
「まだ何もしていない!」
「考えましたよね?」
「少しだけだ!」
「だめです」
たづなさんは、ハンドクリームを密封袋に入れた。二重。三重。さらに遮香袋。容器にはラベルを貼る。
『真・最強メンタル計画V5試作品』
『香り確認禁止』
『理事長単独接触禁止』
「なぜ私の名前が!?」
「必要事項です」
── 目を覚ます ──
しばらくして、最初に目を覚ましたのは同室の子だった。
「……はっ」
彼女は跳ね起きた。自分の手を見た。
「……まだいい匂いする」
その瞬間、また目がぐるりと回りかけたが、たづなさんが素早く声をかけた。
「深呼吸しないでください」
「はいっ!」
「手を鼻に近づけない」
「はいっ!」
「落ち着いて洗面所へ」
「はいっ!」
同室の子は、たづなさんに支えられながら手を洗いに向かった。
その途中で、問題児も目を覚ました。
目を開ける。たづなさん。寮長。理事長。密封されたハンドクリーム。閉じられたノート。
状況を理解するまで、三秒。
「……ごめんなさい」
早かった。今回は、謝罪が早かった。
たづなさんは少し驚いた。
問題児は、しゅんと耳を伏せている。
「喜んでほしかっただけなんです……でも、また気絶させちゃって……」
たづなさんは、少しだけ息を吐く。
「まず、プレゼントをしたいという気持ちは悪くありません」
「……はい」
「ハンドクリームという発想も、悪くありません」
「はい……」
「保湿成分や使用感についても、よく調べています」
「……はい」
「ですが」
問題児の肩が震えた。
「スピカさんを混ぜないでください」
「……はい」
「概念でもだめです」
「はい……」
「極薄でもだめです」
「はい……」
「親友への感謝にスピカさんを混ぜると、感謝とスピカさんと嗅覚刺激が全部合体して大変なことになります」
「はい……」
その説明は正確だった。
同室の子は、手を洗い終えて戻ってきた。少しふらついているが、無事だった。
問題児は、泣きそうな顔で振り向いた。
「ごめんね……」
同室の子は、しばらく黙った。そして、困ったように笑った。
「……嬉しかったよ」
「え」
「プレゼント、嬉しかった」
問題児の目が揺れた。
「でも」
同室の子は、びしっと指を立てた。
「スピカさんを入れない」
「はい」
「概念でも入れない」
「……ん」
「次からは、作る前に相談」
「……うん」
「あと、ハンドクリーム自体は本当に良かったから……普通の香りで作り直して」
「……いいの?」
「いいよ。だって、私のために作ってくれたんでしょ」
「……うん」
掲示板:【朗報?】真V5、封印されず飾られる【ハンドクリーム・善意】
[1]:名無しのウマ娘
真・最強メンタル計画V5、確認された模様
[2]:名無しのウマ娘
はい
[3]:名無しのウマ娘
はいじゃないが
[5]:名無しのウマ娘
旧V5が嗅覚で部屋封鎖だったよね
[7]:名無しのウマ娘
息止め救助が必要になったやつ
[11]:名無しのウマ娘
今回はハンドクリームらしい
[12]:名無しのウマ娘
え、まともじゃん
[14]:名無しのウマ娘
まともな単語が出た時ほど警戒しろ
最強メンタル計画で学んだこと:まともな導入ほど危険
[20]:名無しのウマ娘
スピカ概念成分・極薄
[21]:名無しのウマ娘
アウト
[25]:名無しのウマ娘
でも今回は親友へのプレゼントだったらしい
[27]:名無しのウマ娘
あっ……
[28]:名無しのウマ娘
急に情緒の方向が変わった
[40]:名無しのウマ娘
成長はあった
旧V5と違って部屋は封鎖されてない
[41]:名無しのウマ娘
拡散もしてない
[42]:名無しのウマ娘
周りに迷惑かけてない
[43]:名無しのウマ娘
使用者と制作者だけが仲良く気絶した
[50]:名無しのウマ娘
今回はたづなさん怒らなかったって
[51]:名無しのウマ娘
本当に?
[52]:名無しのウマ娘
叱るというより…指導って感じだったらしい
[55]:名無しのウマ娘
「プレゼントの気持ちは良い、ただしスピカを混ぜるな」
[56]:名無しのウマ娘
たづなさんの言葉、的確すぎる
[62]:名無しのウマ娘
試作品は没収じゃなくて飾られてるって
[63]:名無しのウマ娘
え
[64]:名無しのウマ娘
使用禁止、開封禁止、だけど捨てられてない
[65]:名無しのウマ娘
同室の子の机の右奥に置かれてるらしい
[70]:名無しのウマ娘
危険物でありながら友情の証
[71]:名無しのウマ娘
なにそのラベリング
[75]:名無しのウマ娘
理事長単独接触禁止
[76]:名無しのウマ娘
また新しいルールが増えた
[79]:名無しのウマ娘
真っ直ぐ伸びますように……
[80]:名無しのウマ娘
スピカ概念なしで
── 概念を抜いたら、才能だけが残った ──
真・最強メンタル計画V5。
それは、ハンドクリームだった。
旧V5の反省を活かし、香りを空間に拡散させず、手元だけで扱えるようにしたもの。乾燥から肌を守る。トレーニングや日常生活で荒れがちな手をいたわる。仄かな香りで心を落ち着かせる。
企画としては、かなりまともだった。
むしろ、かなり良かった。
問題は、ただ一つ。スピカ概念成分を入れたことである。
それさえなければ、きっと何事もなかった。いや、何事もなかったどころか、普通に良いプレゼントとして終わっていた可能性すらある。
親友へ渡された最初のハンドクリームは、今も同室の子の机に飾られている。使用は禁止。開封も禁止。ただし没収も封印もされていない。透明な小袋に入れられ、ラッピングの紙とカードと一緒に、机の右奥にそっと置かれている。
『いつもありがとう。よかったら使ってね』
そのカードを見るたびに、例の子は少し照れる。同室の子は、少しだけ誇らしそうにする。
危険物ではある。だが、それだけではない。
失敗した贈り物であり、成功した気持ちでもあった。
その後、問題児は同室の子と約束した。
次は、普通のハンドクリームを一緒に作る。
スピカ概念を入れない。極薄でも入れない。概念でも入れない。応援成分も入れない。精神安定効果も、名前だけならまだしも、怪しい独自成分としては入れない。
普通に肌に優しく、普通に良い香りで、普通に使えるものを作る。
同室の子に赤ペンで修正された結果、ノートのタイトルはこうなった。
『親友用ハンドクリーム改善計画』
そのタイトルを見たたづなさんは、少しだけ安心した。理事長は「少々物足りないな!」と言った。たづなさんに見られて、すぐ黙った。
数日後。
「ねえ」と同室の子が言った。
「なに?」
「これ、ちゃんと提出した方がいいと思う」
机の上に広げられた改善版のノートだった。そこには、保湿成分の比較、肌なじみの評価、香りの候補、容器の安全性、携帯性、使用タイミング、アレルギーへの注意点などが、びっしり書かれていた。しかも、赤ペンの修正がかなり少ない。
「提出って……たづなさんに?」
「うん。あと、もし許可が出るなら、ちゃんとした人に見てもらった方がいいと思う。化粧品に詳しい人」
問題児は、きょとんとした。
「え、そこまで?」
「そこまで」
同室の子は、腕を組んだ。
「だって、これ、普通に良いよ。少なくとも、私が前にもらったやつ、香り以外は本当に良かった」
「香り以外」
「香り以外」
「……はい」
問題児はしゅんとした。だが、同室の子は笑った。
「でも、だからこそだよ。危ないところを抜いたら、ちゃんと良いものになるかもしれない。なら、ちゃんと見てもらった方がいい」
同室の子は、いつものように赤ペンを手に取った。一番上に大きく書き足す。
『スピカ概念なし。イメージカラーのみ』
「これ、絶対に必要だと思ったので」
たづなさんに提出された改善版のノートを読みながら、最初は警戒が、次に困惑が、そして少しずつ感心へと表情が変わった。
配合の考え方。肌への刺激を抑える工夫。トレーニング後に使うことを想定したべたつきの少なさ。手綱や道具を扱う手でも滑りにくい使用感。ウマ娘の生活に合わせた携帯性。寮で使いやすい控えめな香り。贈り物としての見た目。
「……良いですね」
たづなさんは、静かに言った。
「よく考えています。ウマ娘の生活に合わせた設計になっている」
「はい!」
「ただし、スピカさんの活動に関係する香りや色を使う場合は、事前確認が必要になります」
「はい!」
「スピカさんの名前を使うなら、ちゃんと公式確認」
「はい!」
「香りでスピカさんを再現しようとしない」
「はい!」
「色だけ」
「はい!」
「概念を成分にしない」
「はい!」
「よし」
── スターライト・ハンドケアクリーム ──
化粧品メーカーとの打ち合わせは、すぐに決まった。
たづなさんが橋渡しをしてくれた。
同室の子は、「あなたのノート、ちゃんと評価してもらえるから。落ち着いて話して」と言った。問題児は、少し緊張した。
打ち合わせでは、担当者が最初の改善版サンプルを見て、少し驚いた顔をした。
「……これ、本当に学生が作ったんですか?」
「はい!」
「配合の発想が、かなりしっかりしてますね。ウマ娘の生活習慣まで考慮しているあたり、リサーチもできている」
「ありがとうございます……!」
もちろん、安全性や安定性、表示や成分調整は専門家の手が入ることになった。だが、発想の種は彼女のノートから出た。
そして。
完成品が届いた日。
スターライト・ハンドケアクリーム。スピカ活動イメージカラー監修商品。
ただし、スピカ概念成分なし。本人の香りなし。声なし。気配なし。応援成分なし。概念なし。
色だけ。
淡い青紫と白を基調にした、上品で実用的なハンドクリーム。
派手すぎない。清潔感がある。少しだけ星のようなモチーフが入っている。あくまで、活動イメージカラーの商品。
問題児は、それを見た瞬間、言葉を失った。
「……ほんとに、商品みたい」
「商品だよ」と同室の子が笑った。
「私の、あれが……?」
「あなたの案が、ちゃんと形になったんだよ」
メーカー担当者が試供品を差し出す。
「こちらが無香料版です。こちらが微香タイプ。香りは清潔感のある一般的なものに調整しています。もちろん、特定個人を想起させる要素は入れていません」
たづなさんは、慎重に受け取った。蓋を開ける。確認する。問題なし。
同室の子も試す。少量を手に伸ばす。
「……うん」
彼女は微笑んだ。
「いい感じ」
その瞬間。
問題児の目から、ぽろっと涙が落ちた。
「え、ちょっと」
同室の子が慌てる。
「なんで泣くの」
「だって……」
問題児は、両手で顔を覆った。
「今度は、ちゃんと使ってもらえた……」
部屋が静かになった。
同室の子は、少しだけ言葉に詰まった。それから、やさしく笑った。
「うん。ちゃんと使えるよ」
「……気絶しない?」
「しない」
「ほんと?」
「しない」
「よかった……」
問題児は、今度こそ崩れるように泣いた。
幸せそうに意識が飛んでいるのとは、違う。ただの、嬉し泣きだった。
たづなさんも、胃を押さえつつ目を細めた。理事長は「成長ッ!」と言いながら泣いた。メーカーの担当者も、将来を楽しみにしていると言ってくれた。
そして、周囲は皆、こう思った。
この子は、ちゃんと伸びればすごい。真っ直ぐ伸びれば、きっと大成する。
ただし。
斜め上に伸びたら、とんでもないことになる。
掲示板:【速報】例のハンドクリーム、商品化されたらしい【まさかの学習】
[1]:名無しのウマ娘
真V5のハンドクリーム、まさかの商品化
[2]:名無しのウマ娘
え?
[3]:名無しのウマ娘
待って
[5]:名無しのウマ娘
スターライト・ハンドケアクリーム
スピカ活動イメージカラー監修
[8]:名無しのウマ娘
スピカ概念成分なし?
[9]:名無しのウマ娘
なし
ちゃんと普通の商品になった
[12]:名無しのウマ娘
例の子がやったことって要するに
「ウマ娘の生活習慣を考慮した実用的なハンドケア商品の開発」なんだよな
[13]:名無しのウマ娘
概念を抜いたら才能だけが残ってた
[15]:名無しのウマ娘
「気絶しない?」「しない」
[16]:名無しのウマ娘
それ重要
[20]:名無しのウマ娘
理事長が泣いてたって
[21]:名無しのウマ娘
成長ッってやつ
[22]:名無しのウマ娘
たづなさんは胃を押さえながら喜んでたって
[25]:名無しのウマ娘
同室の子の功績が大きすぎる
[26]:名無しのウマ娘
ずっと赤ペン入れてきた甲斐があった
[30]:名無しのウマ娘
例の子の発想力
同室の子の修正力
たづなさんのルール制定力
三位一体である
[35]:名無しのウマ娘
でも「概念を成分にしない」は新しい校訓になりそう
[36]:名無しのウマ娘
本当に必要
[38]:名無しのウマ娘
次は何を作るのか
[39]:名無しのウマ娘
言うな
[40]:名無しのウマ娘
禁止
[42]:名無しのウマ娘
真っ直ぐ伸びますように
[43]:名無しのウマ娘
スピカ概念なしで