合宿の始まり
ブロロロロ……。
チャーターバスは、ゆっくりとトレセン学園の正門を離れていく。
窓の外では、見送りに来た一年生たちが手を振っていた。その中に、後輩ちゃんもいる。両手を大きく振り、少し背伸びをしながら。なぜか胸元にはノートを抱えている。
「うう……後輩ちゃん……」
最強メンタル計画ちゃんは、窓にぺたりと両手をついた。
「置いていかないでくださいって顔してる……」
「いや、普通に笑顔で手振ってるけど」
隣の同室の親友が、冷静に突っ込む。
「でも心が泣いてるかもしれない」
「泣いてるのはあんただよ」
「泣いてないもん」
「窓に映ってる顔見なさい」
「うう……」
最強メンタル計画ちゃんは、もう一度だけ窓の外を見る。後輩ちゃんは、最後までずっと手を振っていた。その姿が見えなくなり、バスが角を曲がる。校舎が遠ざかっていく。
一瞬、車内にしんみりした空気が流れた。流れた、ように見えた。
「よし」
最強メンタル計画ちゃんは、ぐっと拳を握った。
「二か月間、頑張って最強のメンタルを手に入れるぞーーーー!」
「切り替え早いね!?」
赤ペン先生がびくっと肩を跳ねさせる。
だが周囲のウマ娘たちはそれに釣られ、
「おー!」
「合宿だー!」
「海だー!」
「トレーニングだー!」
「ごはんいっぱい食べるぞー!」
と声を上げ始めた。チャーターバスの中が、一気に遠足めいた空気に変わる。
ノートが四冊と、予備案
窓の外は青空。六月の終わり。湿った風の中に、少しだけ夏の匂いが混じっている。今日から始まるのは、二か月間の夏合宿。走って、鍛えて、食べて、寝て。普段よりもずっと濃い時間を過ごす、トレセン学園の恒例行事である。
「ふふふ……」
最強メンタル計画ちゃんは、膝の上に置いた鞄を撫でた。
「合宿……新しい環境……海……砂浜……潮風……共同生活……」
「待って」
赤ペン先生の耳がぴくりと動く。
「今、危ない単語が混じってなかった?」
「え?」
「新しい環境って言った」
「言ったね」
「そのあと、何か思いつきそうな顔してた」
「してないよ?」
「してた」
「してない」
「目がノートを探してた」
「……」
「鞄に手を伸ばしかけてた」
「……」
最強メンタル計画ちゃんは、そっと鞄から手を離した。
「今日はまだ何も書いてないよ」
「今日は?」
「……」
「今日は?」
「……合宿初日だから」
「理由になってない」
赤ペン先生は、じっと親友を見る。最強メンタル計画ちゃんは、視線をそらす。
その先、通路を挟んで座っていたウマ娘が、目が合うとにこっと笑った。
「楽しみだね、合宿」
「うん!」
最強メンタル計画ちゃんも笑顔で返す。
「今年は海だもんね。砂浜トレーニングとか、坂道ダッシュとか、早朝ランニングとか!」
「うんうん!」
「あと、自由時間に海で遊べるかもだし!」
「うんうん!」
「でも、変な機材とかは持ってきてないよね?」
「……」
「ね?」
「……」
赤ペン先生の手が、すっと最強メンタル計画ちゃんの鞄に伸びる。
「確認します」
「ま、待って! プライバシー!」
「前科の前では弱い言葉だよ」
「私、信用ない!?」
「あるよ」
「ほんと?」
「善意は信用してる」
「やった」
「判断力は信用してない」
「ひどい!」
赤ペン先生が鞄を開ける。中から出てきたのは、着替え、タオル、日焼け止め、水筒、筆記用具。そして、ノート。ノート。ノート。ノート。
赤ペン先生の手が止まる。
「……ノート多くない?」
「用途別だよ」
「用途」
「トレーニング記録用」
「うん」
「食事記録用」
「うん」
「体調記録用」
「うん」
「合宿で得た気づき用」
「危ない」
「まだ危なくないよ!?」
「タイトル見せて」
「えっ」
「タイトル」
「……」
最強メンタル計画ちゃんは、そっと一冊を押さえる。赤ペン先生は、そっとその手をどける。
表紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
『夏合宿対応型・最強メンタル&フィジカル計画 予備案』
車内の一部が、静かになった。さっきまでお菓子を食べていたウマ娘が、袋を閉じる。前の席の子が、ゆっくりと振り返る。斜め後ろから、小さな呟きが落ちた。
「……始まってた」
「まだ始まってないよ!」
最強メンタル計画ちゃんが慌てて言う。
「予備案! 予備案だから!」
「予備案ってことは本案があるんでしょ」
「ないよ!」
「じゃあこれは?」
「未来の本案候補」
「本案じゃん」
赤ペン先生は深く息を吸い、ノートを閉じた。
「合宿中のルールを決めます」
「えっ」
「一、危険物を作らない」
「うん」
「二、スピカさんの音声・画像・匂い・概念を使わない」
「概念まで!?」
「三、何か思いついたらまず私に見せる」
「うん……」
「四、後輩ちゃんに送る前に私に見せる」
「えっ」
「特に四」
「でも後輩ちゃんには近況報告を……」
「近況報告はいい。計画書を送らない」
「……」
「送らない」
「……はい」
帰ったら、後輩ちゃんにすごいと言ってもらう
最強メンタル計画ちゃんは、しゅんと耳を伏せた。だが、すぐに顔を上げる。
「でも、合宿で強くなるのは本当だよね」
「それは本当」
赤ペン先生は、表情を少しやわらげた。
「二か月あるし。普段よりきつい練習もあるし。環境も変わるし。ちゃんとやれば、きっと強くなるよ」
「うん」
「だから、変な方向に行かないで、普通に頑張ろうね」
「普通に……」
「普通に」
「普通に最強のメンタルを……」
「普通に、を前につけても危険度は下がらないよ」
「むむ……」
バスが高速道路に入る。車窓の景色が流れ、街並みが少しずつ少なくなり、緑が増え、空が広くなる。
最強メンタル計画ちゃんは、窓の外を見た。遠くに、まだ見えない海の気配がある気がした。
「……楽しみだね」
ぽつりと言う。
「うん。楽しみ」
赤ペン先生も、同じように窓の外を見る。
「いっぱい走って」
「うん」
「いっぱい食べて」
「うん」
「いっぱい寝て」
「それ大事」
「いっぱい成長して」
「うん」
「帰ったら、後輩ちゃんにすごいって言ってもらう」
赤ペン先生は、少しだけ笑った。
「それが一番の目的?」
「ち、違うよ。最強のメンタルを手に入れるのが目的」
「はいはい」
「でも、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、褒めてもらえたら嬉しい」
「じゃあ、ちゃんと頑張らないとね」
「うん!」
最強メンタル計画ちゃんは、拳を握る。その目はきらきらしていた。善意百パーセント。やる気百パーセント。危険性、未知数。
赤ペン先生は、その横顔を見て、ほんの少しだけ不安になった。けれど同時に、少しだけ誇らしくもあった。
この子は、いつも全力だ。方向がたまに、いや、かなり、明後日の方向に飛んでいくけれど。誰かのために。自分を変えるために。前に進もうとしている。
だからこそ、隣で赤ペンを入れる人間が必要なのだ。
「よし」
赤ペン先生は、自分の鞄から赤ペンを取り出した。
「合宿中も、ちゃんと見張るから」
「言い方!」
「ちゃんと支えるから」
「そっちがいい」
「ただし危ない案は即没」
「うう……」
その時、バスの一番後ろから誰かが声を上げた。
「ねえ、海見えてきた!」
車内がざわっと沸く。ウマ娘たちが一斉に窓へ顔を向ける。青い水平線。きらきら光る海。夏合宿の舞台が、近づいていた。
最強メンタル計画ちゃんの耳がぴんと立つ。赤ペン先生の尻尾も、少しだけ揺れる。二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
「合宿、頑張ろうね」
「うん!」
チャーターバスは、夏の光の中を走っていく。
まだ誰も知らない。この二か月が、どれだけ濃い時間になるのか。
そして、トレセン学園に残された後輩ちゃんが、寮の机でノートを開き、
『先輩たちがいない間にできること』
と書き始めていることを。
まだ、誰も知らない。
トレセン学園スレ
【トレセン】合宿組、出発したね【嵐の前の静けさ】
レス 1〜50
合宿組、さっき出発したね。
バス見送ってきた。
なんか学園が静か。
わかる。
廊下の人口密度が急に減った。
食堂も空いてる。
平和。
平和って言葉を使うな。
フラグになる。
嵐の前の静けさってやつ?
やめろ。
でも今回は大丈夫じゃない?
例の子、合宿行ったんでしょ?
そう。
最強メンタル計画ちゃんはバスに乗った。
ノートは?
持ってた。
終了。
まだ何も始まってないのに終わらせるな。
機材は?
たぶん持ってない。
見送りの時、赤ペン先生が鞄チェックしてたらしい。
赤ペン先生、有能。
なお、ノートは複数冊あった模様。
なぜ。
用途別。
用途別って何。
トレーニング記録、食事記録、体調記録、気づき用、予備案用。
最後。
最後だけ急に不穏。
「夏合宿対応型・最強メンタル&フィジカル計画 予備案」って見えたらしい。
見えたんだ。
見えてしまったんだ。
予備案ならセーフでは?
あの子の予備案はだいたい本案の卵。
卵なら孵化するじゃん。
やめて。
でも赤ペン先生がいるから。
そう。
赤ペン先生がいる。
これは大きい。
赤ペン先生が同じバスに乗ってたの見て安心した。
学園残留組の平和は守られた。
本当に?
……。
何で黙るの。
いや、学園には後輩ちゃんが残ってるなって。
あっ。
あっじゃない。
後輩ちゃん、見送りの時すごく寂しそうだったよね。
いや笑顔だったよ。
両手でぶんぶん手振ってた。
そのあと胸元のノートをぎゅってしてた。
ノート。
ノートって言葉に反応する体になってしまった。
後輩ちゃんはいい子だから。
それはそう。
素直でいい子。
憧れの先輩がいなくて寂しいだけ。
だからこそ危ないのでは?
言うな。
レス 51〜100
先輩たちが合宿で頑張ってる。
私も何かしなきゃ。
先輩に胸を張れるように。
先輩の役に立てるように。
解像度高いのやめて。
後輩ちゃん、そういうこと言いそう。
そしてノートを開く。
開くな。
タイトルは?
「先輩たちがいない間にできること」
ありそうすぎる。
善意100%。
危険度未測定。
でも後輩ちゃんはまだ単独ではそんなに危険じゃないでしょ?
その認識、旧世界のものだよ。
旧世界って何。
最強メンタル計画ちゃん単独時代。
今は?
後輩ちゃん合流後時代。
時代区分やめて。
赤ペン先生がいない学園に、後輩ちゃんが残っている。
つまり?
やめろ。
誰が赤ペン入れるの?
たづなさん。
たづなさんの胃を酷使するな。
理事長。
むしろ加速装置。
だめだ。
でも後輩ちゃん、今日は授業終わったら普通に寮戻ってたよ。
何か持ってた?
ノート。
それはもう標準装備。
あと購買で文房具買ってた。
何を?
付箋と色ペン。
まだセーフ。
大判の模造紙も。
アウト寄り。
企画会議する気じゃん。
一人で?
一人ブレスト。
止めにくいやつ。
後輩ちゃんが悪いことするわけないだろ!
誰も悪いことするとは言ってない。
善いことをしようとして大変なことになるって言ってる。
いつものやつ。
いつものやつって言えるほど事例が積み上がってるの嫌だな。
ところで合宿先、大丈夫かな。
海だっけ。
海。
砂浜、潮風、日差し、汗、自由時間。
素材が多い。
素材って言うな。
レス 101〜150
日焼け止めはもうやったよね?
やった。
じゃあ大丈夫か。
なぜ同じカテゴリを二度やらないと思った?
やめろ。
改良版。
やめろ。
合宿対応型。
やめろって。
海辺専用。
やめろって言ってるでしょ!
赤ペン先生がいるから……。
赤ペン先生、合宿中ずっと隣にいられるわけじゃないんだよ。
トレーニング別メニューとかあるしね。
自由時間もあるしね。
夜もあるしね。
夜にノート開くのやめて。
合宿所の机、広そう。
やめろ。
机の広さを与えるな。
でも工具ないんでしょ?
砂浜に何がある?
砂。
海水。
貝殻。
流木。
太陽。
風。
自然素材だけで何か作れそうなラインナップやめて。
さすがに自然素材だけなら安全では?
その油断で何度やられた?
花。
あっ。
あの花。
夜だけ少し光る花。
まだ咲いてるらしいね。
思い出させるな。
学園残留組、つまり温室監視組でもある。
温室は専門の人が見てるから。
専門の人たちも震えてるから。
今年の夏、何も起きないといいね。
それ言った瞬間、廊下の向こうで後輩ちゃん見かけた。
何してた?
にこにこしながらノート抱えてた。
普通。
その後、掲示板見てた子に
「先輩たちが帰ってきた時、びっくりして喜んでくれることって何だと思いますか?」
って聞いてた。
あっ。
あっ。
あっ。
誰か止めて。
何て答えたの?
レス 151〜200
「元気におかえりって言うだけで嬉しいと思うよ」って言った。
偉い。
えらすぎる。
命を救った。
そしたら後輩ちゃん、
「なるほど……日常の中の安心感……」
ってメモしてた。
なぜメモする。
不穏ワード:日常の中。
安心感もあの子たちにかかると危険物になる。
まさか。
おかえり補助装置?
やめろ。
自動で「おかえりなさい先輩!」って言ってくれる何か?
本人が言えばいいだろ!
本人の声を録音して空間演出する?
なぜ空間演出する。
先輩が帰ってきた瞬間、寮の部屋が優しい光に包まれる。
やめろ。
光る花の技術を混ぜるな。
香りもつける?
つけるな。
あたたかい風も。
4DXに戻るな。
結局全部混ざるじゃん。
五感コンプリート再び。
後輩ちゃん単独でそこまで行かないよね?
先輩の背中を見て育ってるからなあ。
やめて。
いい話みたいに言わないで。
でも実際、後輩ちゃんは先輩のこと大好きだからね。
尊敬してるよね。
救われたからね。
そこは本当にいい話なんだよ。
だからこそ、普通に幸せになってほしい。
普通に。
普通に、が一番難しい世界。
ねえ、今ちょっと見てきた。
何を。
後輩ちゃん、寮の自室で模造紙広げてた。
早い。
まだ出発して数時間だよ?
タイトルは?
遠目でしか見えなかったけど、たぶん
「おかえり先輩計画」
かわいい。
かわいいけど怖い。
かわ怖い。
目的は健全。
手段が未知数。
模造紙の右端に「安全」って大きく書いてあった。
安全って書く時点で危険なんだよ。
その下に「赤ペン先生がいないので自分で確認」って。
だめだ。
セルフ赤ペンは危険。
レス 201〜250
赤ペン先生の代わりは赤ペン先生にしかできない。
今すぐ通報?
たづなさんに?
まだ何も起きてないし……。
何か起きてからでは遅いって何回学んだ?
うっ。
とりあえず見守り班作ろう。
学園残留組による後輩ちゃん見守り班?
目的は妨害じゃなくて保護。
後輩ちゃんを?
学園を。
両方だよ。
見守り班ルール。
一、ノートを奪わない。
二、危険ワードが出たらやんわり話題を変える。
三、スピカさん関連素材を与えない。
四、理事長に話を通す前にたづなさんへ。
四が重要すぎる。
理事長に先に行くと「興味深いッ!」になる。
そして金庫が増える。
もう金庫いくつあるの?
数えるな。
合宿組は海へ。
赤ペン先生は向こう。
後輩ちゃんは学園。
理事長はたぶん好奇心。
たづなさんは胃痛。
布陣が悪い。
でも合宿中、学園残留組にも日常はあるんだよね。
授業もある。
トレーニングもある。
レースに向けて頑張ってる子もいる。
そうそう。
平和に過ごそう。
平和に。
平和に、おかえり先輩計画を見守ろう。
平和とは。
あ、後輩ちゃんからメッセ来た子いる?
何て?
「先輩たちが安心して帰ってこられるように、私も頑張ります!」だって。
いい子。
本当にいい子。
泣ける。
なお、添付画像。
何。
模造紙。
見せて。
無理。
手書きで右上にでかく
「最強おかえり環境構築案」
って書いてある。
進化した。
おかえり先輩計画から進化してる。
数時間で?
嵐、もう沖に見えてない?
まだ静か。
まだ静かだから。
静かな海ほど怖い。
合宿先も海なんだよなあ。
学園にも海が来るな。
意味がわからないのに怖い。
とりあえず、たづなさんに共有しとく?
うん。
件名どうする?
「緊急ではありませんが、念のため」
レス 251〜300
それ、たづなさんが一番嫌いなやつ。
本文一行目は?
「後輩ちゃんが計画を始めました」
緊急じゃん。
送った。
返信きた?
早い。
何て?
「すぐ確認します」
たづなさん……。
ありがとう、たづなさん。
ごめんね、たづなさん。
合宿組が出発して、学園は静かになった。
静かになったはずだった。
嵐の前の静けさ。
いや。
もう気圧、下がり始めてる。