第1話 欠けたライブ

僕が最初にウマ娘を見たのは、テレビの中だった。

小さな画面の向こうで、彼女たちは走っていた。

芝を蹴り、土を跳ね、風を切って、ただ前へ前へと進んでいく。

実況の声が高くなる。

観客席が揺れる。

最後の直線で、先頭のウマ娘が歯を食いしばる。

その瞬間、胸の奥が熱くなった。

知っている。

僕は、この熱を知っている。

前世の記憶。

スマホの画面。

育成開始の音。

デビュー戦。

ライブシアター。

名前を呼ばれて、光の中へ駆け出していく彼女たち。

もちろん、今の僕は子どもだった。

前世のことを全部はっきり説明できるわけじゃない。

自分がどうしてこの世界にいるのかもわからない。

けれど、ウマ娘を見た瞬間に胸が熱くなる理由だけは、どうしても消えてくれなかった。

この世界にも、ウマ娘がいる。

なら、きっとあの光もあるのだと思っていた。

レースの先にある、もう一つの舞台。

走り終えた彼女たちが、勝った子を中心に、同じレースを走った仲間たちと一緒に歌って踊る場所。

勝った子が胸を張って笑う場所。

届かなかった子も、悔しさを抱えたまま、それでも同じ光の中に立つ場所。

僕は、それがあるのだと信じていた。

だから、七歳の頃だったと思う。

僕は親に頼んだ。

「レース場に行きたい」

父は、最初かなり驚いた顔をした。

「レース場?」

「うん」

「テレビじゃだめなのか?」

「本物が見たい」

母は少し困ったように笑った。

「珍しいわね。男の子なのに、そんなにレースが好きなんて」

その言葉に、僕は少しだけ首を傾げた。

男の子なのに。

この世界では、そういう言い方をよく聞いた。

男の子なのにレースが好き。

男の子なのにウマ娘を応援する。

男の子なのに、そんなにテレビにかじりついている。

まだ幼かった僕には、その言葉の裏にあるものをうまく理解できなかった。

ただ、テレビの中で走るウマ娘たちは本当に綺麗で、かっこよくて、目が離せなくて。

だから何度も頼んだ。

何度も、何度も。

そしてある日、とうとう両親が根負けした。

「今度の日曜なら連れて行ってやる」

父がそう言った時、僕はその場で飛び上がった。

初めてのレース場は、想像よりずっと大きかった。

人の声。

紙の擦れる音。

売店から漂ってくる甘い匂い。

遠くから聞こえるファンファーレ。

観客席の奥から押し寄せてくる、期待と熱気。

テレビではわからなかった。

この場所には、音だけじゃない。空気そのものに、何かが混じっている。

高揚。緊張。祈り。欲望。諦め。期待。

いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、それでも全部が一つの方向を向いている。

勝つのは誰か。

それだけを、みんなが待っていた。

パドックを歩くウマ娘たちを見た時、僕は息を呑んだ。

本物だ。

画面の中のキャラクターじゃない。

本当に生きている。

緊張している子がいる。

耳をぴんと立てている子がいる。

尻尾を落ち着かなさそうに揺らしている子がいる。

笑っているように見える子も、その手は小さく握られている。

みんな、走るためにここにいる。

僕は柵にしがみつくようにして、その姿を見つめていた。

「そんなに見るか」

父が笑った。

「だって、すごい」

「まだ歩いてるだけだぞ」

「でも、すごい」

自分でも、うまく言葉にできなかった。

この子たちは、これから走る。

それだけで、胸がいっぱいだった。

レースが始まった。

ゲートが開いた瞬間、世界が爆発した。

足音が地面を叩く。歓声が耳を揺らす。実況が名前を叫ぶ。

最初のコーナー。向こう正面。三コーナー。四コーナー。

テレビで見ていたはずなのに、全然違った。

目の前で走るウマ娘たちは、画面越しよりもずっと速く、ずっと熱く、ずっと苦しそうだった。

最後の直線に入る。

先頭の子が、さらに加速した。

その後ろから一人、追いすがる子がいる。

観客席が揺れた。

「いけ!」

誰かが叫んだ。

「差せ!」

「粘れ!」

「あと少し!」

僕も立ち上がっていた。

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。

ただ、叫んでいた。

「いけ……!」

先頭のウマ娘が、歯を食いしばる。

後ろの子が迫る。

差が詰まる。

でも、届かない。

先頭の子が、そのままゴール板を駆け抜けた。

観客席が爆発した。

勝った。

勝ったのだ。

僕は手が痛くなるほど拍手した。

勝ったウマ娘は息を切らしながら戻ってきた。

肩が大きく上下している。

汗で前髪が頬に張り付いている。

けれど、その顔には確かに光があった。

ここからだ。

僕はそう思った。

ここから、あの眩しい時間が始まる。

勝った子がセンターに立つ。同じレースを走った子たちが並ぶ。照明が落ちる。音楽が鳴る。観客がもう一度、彼女たちの名前を呼ぶ。

勝った子は笑っていい。

負けた子も、消えなくていい。

同じレースを走ったみんなで、歌って、踊って、その日を締めくくる。

それを見たくて、僕はここに来た。

けれど。

「終わったぞ」

父の声がした。

「帰るぞ。混む前に出た方がいい」

僕は振り返った。

「え?」

母も荷物をまとめていた。

「すごかったわね。来てよかったでしょう?」

「ちょっと待って」

「どうしたの?」

「まだ終わってないよ」

父と母が、不思議そうに僕を見る。

僕は慌ててコースの方を指差した。

「ウィニングライブは?」

二人は黙った。

数秒。

本当に、数秒だけ。

けれど僕には、その沈黙がやけに長く感じられた。

父が首を傾げる。

「……ウィニング、何だ?」

「ライブだよ。勝った子が歌って踊るやつ」

「歌って踊る?」

母が困ったように笑った。

「レースの後に? あんなに走ったばかりなのに?」

「だって、勝ったら……」

そこまで言って、言葉が止まった。

勝ったら。

勝ったら、何だ。

この世界では、何が起きる。

表彰。インタビュー。記録。次走の話。

それだけ?

「勝ったら、ステージに立つんだよ」

僕の声は、自分でも驚くほど小さかった。

父は、ますます不思議そうな顔をした。

「そんなもの、聞いたことないな」

聞いたことがない。

その言葉が、頭の中で何度も反響した。

僕はもう一度、コースを見た。

勝ったウマ娘は、関係者に囲まれていた。

誰かが時計の話をしている。

誰かが次のレースの話をしている。

誰かが肩を叩いている。

彼女は笑っていた。

でも、その笑顔はどこか忙しなかった。

まだ息も整っていないのに、もう次を見られている。

今勝ったことより、次に勝てるかを見られている。

違う。

僕は、そう思った。

これは違う。

勝利は、こんなに早く片付けられるものじゃない。

走ったことは、数字だけじゃない。

勝った子は、もっと祝福されていい。

名前を呼ばれて、胸を張って、笑っていい。

それに。

僕は、ちらりと別の方向を見た。

届かなかったウマ娘たちがいた。

悔しそうに唇を噛んでいる子。うつむいている子。トレーナーらしい女性に肩を叩かれている子。笑おうとして失敗している子。

あの子たちも、走ったのに。

あのレースを作っていたのに。

その姿は、観客の関心からゆっくり外れていった。

勝った子以外が、世界から薄れていく。

そんなふうに見えた。

「行くぞ」

父に促されて、僕はレース場を後にした。

帰りの電車の中で、僕はずっと黙っていた。

母は、僕が疲れたのだと思ったらしい。

「今日は楽しかった?」

そう聞かれて、僕は少し迷ってから頷いた。

「うん」

楽しかった。

それは嘘じゃない。

本物のレースは、すごかった。

ウマ娘たちは、信じられないくらいかっこよかった。

でも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。

あの光は、どこにあるのだろう。

どうして、誰も待っていなかったのだろう。

ウィニングライブは、どこに行ったのだろう。

家に帰ると、僕はすぐに調べ始めた。

ウィニングライブ。

レース後ステージ。

ウマ娘、歌。

ウマ娘、ダンス。

ウマ娘、ライブ。

検索しても、検索しても、僕が知っているものは出てこなかった。

音楽番組に出たウマ娘の記事は、少しだけあった。

趣味で歌が好きだというインタビューもあった。

学園祭で歌ったという古い記録もあった。

けれど、僕が探しているものはなかった。

レースに勝ったウマ娘がステージに立つ文化。

同じレースを走った子たちが、一緒に歌う文化。

勝利を、走った全員で締めくくる場所。

それは、この世界に存在しなかった。

調べれば調べるほど、別のものも見えてきた。

負けたウマ娘への冷たい言葉。

勝てない子への見切り。

一着以外には価値がないと笑う書き込み。

男性の観客が、ウマ娘に向けて当然のように投げる乱暴な言葉。

遅い。

使えない。

期待外れ。

次は勝てるのか。

勝てないなら意味がない。

画面の前で、僕は小さく息を呑んだ。

男が少ない世界。

だから、男は大事にされる。

だから、男のわがままは許されやすい。

だから、男が少し横暴でも見逃される。

まだ子どもの僕にも、なんとなくわかった。

この世界は、僕が前世で知っていた世界とは違う。

ウマ娘はいる。

レースもある。

熱もある。

でも、何かが欠けている。

ゴールの先に、光がない。

勝った子だけが急かされる。

負けた子は、消えていく。

それが当たり前になっている。

「……おかしい」

声に出すと、胸の中で何かが固まった。

おかしい。

絶対に、おかしい。

前世の僕は、画面の向こうの彼女たちに何度も救われた。

勝った時の笑顔に。

ライブの光に。

夢を語る声に。

何度も胸を熱くした。

それはただの娯楽だったのかもしれない。

アプリの中の演出だったのかもしれない。

でも、僕にとっては確かに大切なものだった。

勝った子がセンターで輝く。

その後ろに、同じレースを走った子たちがいる。

悔しかった子も、泣きそうな子も、少し笑っている子も、同じステージに立っている。

それが、僕は好きだった。

すごく、好きだった。

なのに、この世界にはそれがない。

この世界のウマ娘たちは、走るだけだ。

勝っても、すぐ次を求められる。

負ければ、価値がないと言われる。

歌う場所も、踊る場所も、自分たちの走りを光の中に残す場所もない。

そんなのは嫌だった。

僕は机に向かった。

引き出しからノートを出す。

まだ子どもの手で、最初のページに大きく書いた。

この世界に、ウィニングライブを作る。

字は歪んでいた。

線も曲がっていた。

でも、その時の僕は本気だった。

ないなら、作ればいい。

誰も知らないなら、僕が覚えていればいい。

誰も歌えないなら、僕が最初に歌えばいい。

誰も踊れないなら、僕が最初に踊ればいい。

そしていつか。

いつか必ず、ウマ娘たちに返す。

勝った子が胸を張って立てる場所を。

負けた子が、消えなくていい場所を。

走った先に、光があるのだと信じられるステージを。

僕には、まだ何の力もなかった。

歌も知らない。

ダンスもできない。

曲の作り方もわからない。

トレセン学園に入れるわけでもない。

レースを変える権限なんて、あるはずもない。

それでも、ノートの一番下にもう一行書いた。

走った先に、光を作る。

書き終えてから、僕はしばらくその文字を見つめていた。

胸の奥は、まだ熱かった。

初めて見た本物のレース。

勝ったウマ娘の笑顔。

届かなかった子たちの背中。

そして、誰も知らなかったウィニングライブ。

その全部が、僕の中で一つの夢になった。

この世界には、ウィニングライブがない。

なら、僕が作る。

それが、僕の最初の夢になった。