第19話 寝てから走ってください

フラワーカップから、数日が経った。

僕は定期配信の準備をしながら、何度もノートを見返していた。

中山の時より、フラワーカップの後の方が心に残っているものは重かった。

NEXT FRONTIER。

新曲を届けられたことは、よかったと思う。

会場の反応も大きかった。

転んだウマ娘が、最後には顔を上げてくれた。

それも、よかった。

よかった、はずだ。

でも、本当にそれでよかったのか。

自分の言葉は、あの子に重すぎなかっただろうか。

転んだ直後で、心がぐちゃぐちゃになっているところへ、さらに何かを押しつけてしまったのではないか。

NEXT FRONTIERは、前を向く力になったのか。

それとも、無理に前を向かせる曲になってしまったのか。

そのことが、ずっと胸に残っていた。

配信開始前の待機コメントは、いつも通り流れている。

こんばんは。

待機。

今日は何話す?

フラワーカップの話かな。

NEXT FRONTIER聞きたい。

メイクデビューも聞きたい。

両方求めるな。

両方聞きたい。

いつもの空気だった。

僕は少しだけ息を吐いて、配信開始ボタンを押した。

「こんばんは。スピカです」

コメント欄が明るく流れ出す。

こんばんは。

スピカきゅんこんばんは。

生きた。

定期配信助かる。

「今日も見に来てくださってありがとうございます」

僕は頭を下げる。

「今日は、フラワーカップの振り返りを少しだけしたいと思います」

コメントの流れが変わった。

来た。

フラワーカップ。

NEXT FRONTIER。

転んだ子の話する?

無理しないで。

僕は一瞬、言葉を止めた。

転んだ子の話をするべきか。

本人が見ているかどうかもわからない。

見ていないなら、勝手に触れるべきではないかもしれない。

見ているなら、またつらくさせてしまうかもしれない。

だから僕は、まず全体の話から始めた。

「フラワーカップは、本当に難しいレースだったと思います」

まず、そこから話す。

「勝った方の最後の脚はもちろん素晴らしかったですし、途中で動いた方、粘った方、それぞれの判断がレースを作っていました」

コメント欄に、うん、という文字が流れる。

「同時に、レース後イベントがレース前の緊張に影響していたことも、僕は考えなければならないと思っています」

少しだけ、コメントが静かになった。

「応援したいと思って始めたことが、出走する方に余計な負担をかけるなら、その形はちゃんと見直さなければいけません」

自分で言いながら、胸が痛む。

でも、これは言わなければならない。

楽しかった。

盛り上がった。

それだけで済ませてはいけない。

「次があるなら、もっと良い形にしたいです。走る方が、レースそのものに集中できる形に」

コメント欄に、真面目、考えてる、ありがとう、という言葉が流れる。

その時だった。

ひとつ、長いコメントが流れてきた。

最初の一文で、僕は息を止めた。

フラワーカップで転倒した者です。

コメント欄が一瞬で静かになる。

文字が続く。

最後まで走ったことを見てくれて、ありがとうございました。

転んで、大差で負けて、もう終わったと思いました。

自分が残したものは転倒と迷惑だけだと思っていました。

でも、スピカさんが「最後まで走ってくれてありがとうございました」と言ってくれて、見てくれていたんだと思いました。

NEXT FRONTIERを聞いて、転んだことも負けたことも消えないけれど、それだけで終わらなくてもいいのかもしれないと思いました。

今はトレーナーさんと相談しながら、練習をしています。

まだ悔しいです。

でも、次も走りたいです。

僕は、しばらく何も言えなかった。

画面の前で、ただそのコメントを見ていた。

コメント欄も静かだった。

誰も茶化さない。

誰も急かさない。

その静けさの中で、胸の奥にあった重いものが、少しだけほどけた気がした。

「……よかった」

ようやく、声が出た。

「本当に、よかったです」

それ以上の言葉が、すぐには見つからなかった。

よかった。

無事でよかった。

走りたいと思ってくれてよかった。

僕の言葉が、完全に間違っていたわけではなかったのかもしれない。

そう思ったら、少しだけ目の奥が熱くなった。

「悔しいと思えるなら、きっとまだ前を向けるんだと思います」

僕は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「でも、無理はしないでください。悔しさは力になりますけど、急ぎすぎるとまた苦しくなると思うので」

コメント欄に、うん、という文字が流れる。

「トレーナーさんと相談しながら、身体も心もちゃんと休ませてください。次に走る時に、少しでも自分の走りができるように」

少し間が空いて、短いコメントが返ってきた。

寝てから走ります。

コメント欄が、一気に笑いで満ちた。

えらい。

寝てから走る。

名言。

寮長もにっこり。

スピカきゅん教育成功。

僕も少し笑ってしまった。

「はい。寝てから走ってください」

またコメントが流れる。

使いやすい。

今日の標語。

寝てから走ってください。

廊下に貼る?

やめろ。

たづなさんの胃。

僕は慌てて首を振った。

「貼らなくていいです。えっと、心の中に置いておいてください」

それでもコメント欄はしばらく笑っていた。

空気が少し軽くなった。

僕はそのことに、ほっとした。

その後、フラワーカップのレースをもう少し振り返った。

勝った子の加速。

追った子の判断。

序盤から流れが速くなったこと。

レース後イベントの影響について、次回以降はもっと慎重に考えること。

そして最後に、少しだけ歌うことにした。

「今日は、NEXT FRONTIERを短く歌います」

コメント欄が沸く。

来た。

聞きたい。

でも走らない。

寝る。

寝てから走る。

「聞いた後は、走りに行かず、寝てください」

はい。

はい。

努力します。

努力じゃなくて寝て。

寮長が見てるぞ。

僕は少し笑ってから、歌い始めた。

NEXT FRONTIER。

前へ進む曲。

でも今日は、会場で歌った時より少しだけ抑えて歌った。

無理に走り出せ、と言うのではなく。

明日、もう一度立ち上がるために。

今夜はちゃんと眠れるように。

そんな気持ちを込めた。

歌い終えると、コメント欄は静かだった。

それから、ゆっくり流れ始める。

ありがとう。

寝る。

明日走る。

今日は寝る。

転んだ子、また走ってね。

無理しないでね。

僕は深く頭を下げた。

「今日も聞いてくださってありがとうございました。皆さんも、どうか無理はしないでください」

そして、最後にもう一度言った。

「寝てから走ってください」

配信を終える。

部屋に静けさが戻った。

僕はしばらく椅子に座ったまま、何もできずにいた。

安心した。

本当に安心した。

けれど同時に、改めて思う。

言葉は重い。

歌は、思った以上に届いてしまう。

だから、ちゃんと届けなければいけない。

僕はノートを開く。

ペンを持ち、今日の配信について書き始めた。

あの子は、次へ向かっている。

悔しさは力になる。

でも、急がせない。

最後に一行。

言葉は重い。だから、ちゃんと届ける。

それを書いて、僕はペンを置いた。

窓の外は暗い。

きっと、どこかの寮で、スマホを抱えたウマ娘たちが布団に入っている。

NEXT FRONTIERを聞いて、走り出したくなっている子もいるかもしれない。

でも、今日だけは。

どうか寝てほしい。

走るのは、明日でいい。

次の地平へ行くためにも、今夜は眠ってほしかった。