第30話 確認事項が増えました

菊花賞の後、控室でスピカはしばらく動けずにいた。

足が疲れているわけではない。

ステージへ走ったせいで息は切れたが、それももう落ち着いている。

問題は、頭の中だった。

ライスシャワーの勝利。

ミホノブルボンの敗北。

VIP席からの一言。

それを打ち消すためにマイクを握ったこと。

勝者の名を呼んだこと。

ライスシャワーのために歌ったこと。

そして。

「……お兄様」

小さく呟いて、スピカは両手で顔を覆った。

聞き間違いではないと思う。

少なくとも、そう聞こえた。

マイクには入っていない。

会場中に聞こえたわけでもない。

けれど、スピカには聞こえた。

近くにいたたづなにも、おそらく聞こえていた。

扉がノックされた。

「失礼します」

入ってきたのは、駿川たづなだった。

いつもの柔らかい表情。

ただし、目は完全に実務の目だった。

スピカは姿勢を正そうとして、少し失敗した。

「すみません」

「謝罪の前に、まず報告です」

たづなは手元のメモを確認する。

「ライスシャワーさんは、担当者と学園側でケアに入っています」

たづなは、淡々と報告を続ける。

「ミホノブルボンさんも同様です。他の出走者の皆さんについても、各担当と連携して状態確認を進めています」

「……はい」

その報告を聞いて、スピカはようやく息を吐いた。

自分が見た範囲だけでは足りない。

ライスが顔を上げたからといって、すべて解決したわけではない。

ブルボンが背中で庇ったからといって、悔しさが消えたわけでもない。

十六人全員に、それぞれのレース後がある。

「ありがとうございます」

「ここから確認事項です」

来た。

スピカは背筋を伸ばした。

たづなは、淡々と続ける。

「一つ目。予定外の楽曲披露について」

「はい」

「今回の状況では、必要だったと判断しています」

スピカは、少しだけ目を見開いた。

怒られると思っていた。

もちろん怒られる要素は山ほどある。

けれど、たづなは最初に必要だったと言った。

「ただし」

やはり来た。

「今後、同じ判断を現場で即時に行ってよい、という意味ではありません」

「……はい」

「特定のウマ娘へ向けた個別性の高い歌は、非常に強い影響を持ちます。救いにもなりますが、依存や過度な期待を生む可能性もあります」

スピカは頷いた。

わかっている。

わかっていたはずだった。

だから昨日の夜、ノートに書いたのだ。

ソロ曲は、今じゃない。

本人に聞くこと。

それなのに、今日歌った。

「本人の状態、担当トレーナーの判断、公開範囲、事後ケア。最低でも、これらは確認が必要です」

「はい」

「構想は、以前からありましたか」

スピカは、少し迷った。

けれど、ここでごまかす意味はない。

「あります」

たづなのペンが止まる。

「いくつか、頭の中にあります。ただ、出すつもりはありませんでした。今日みたいなことがなければ」

「今後は」

「必ず、学園側と相談します」

「お願いします」

たづなの声は厳しかった。

けれど、責めるだけの声ではなかった。

次に、彼女はページをめくる。

「二つ目。ライスシャワーさんの呼称について」

スピカは、顔を覆いたくなった。

なんとか耐えた。

「……はい」

「現時点で、あの言葉を聞いたのはスピカ様と私くらいだと思われます」

「そう、ですよね」

「呼び方を強く否定すると、ライスシャワーさんの心理的安定に悪影響がある可能性があります」

スピカは、黙って頷いた。

あの瞬間のライスは、ようやく顔を上げたところだった。

そこへ、呼び方が違う、やめてほしい、と突き返すことはできない。

できるはずがない。

「一方で、公に広まると大きな影響が出ます」

「はい」

「当面は、ライスシャワーさん本人のメンタル安定を最優先します。スピカ様は強く否定せず、公の場で触れず、過剰反応しないようにしてください」

「わかりました」

「過剰反応しないように」

「二回言いましたね」

「大事なので」

「はい」

スピカは素直に頷いた。

自信はなかった。

だが、努力はする。

たづなは、さらに次の項目へ移った。

「三つ目。男性アイドルの発言について」

空気が少し変わった。

スピカも表情を引き締める。

「あの一言は、明確な罵倒ではありませんでした」

「はい」

「しかし、男性有名人の発言が会場の空気を動かした。これは警戒すべき構造です」

「……僕も、そう思います」

スピカは、手元を見た。

「嫌でした」

「何がでしょう」

「あの人の言葉で空気が傾いて、それを打ち消せるのが、同じ男性である僕の言葉だったかもしれないことです」

口にすると、思っていた以上に苦かった。

「あれを使うしかないと思いました。でも、嫌でした」

たづなは、少しだけ目を伏せた。

「その嫌悪は、間違っていないと思います」

スピカは顔を上げた。

「ただ、今日スピカ様がしたことも、必要でした」

「……はい」

「嫌だと思えるまま使ったことを、忘れないでください」

その言葉は、妙に深く残った。

たづなはメモを閉じた。

「最後に」

「まだありますか」

「あります」

「はい」

「今日は休んでください」

スピカは固まった。

たづなは、淡々と言う。

「寝てから考えてください」

それは、自分が誰かに何度も言ってきた言葉だった。

言われる側になると、妙に逃げ場がない。

スピカは、小さく笑った。

「……はい。寝てから考えます」

「よろしいです」

たづなは、ようやく少しだけ表情を緩めた。


その夜。

理事長室では、秋川やよい理事長と駿川たづなが、今日の菊花賞について改めて確認していた。

「必要な歌だった」

理事長は、そう言った。

机の上には、報告書と、たづなのメモが並んでいる。

「あの場でライスシャワー君を祝福する言葉が必要だった。さらに、彼女が顔を上げるための歌も必要だった」

「はい」

たづなも、それは否定しなかった。

「ただし、事前共有は必要です」

「承知ッ」

理事長は力強く頷く。

「専用曲の影響は大きい。救いにもなるが、扱いを誤れば依存も生む。スピカ君には、今後必ず相談してもらう必要がある」

「本人も約束してくださいました」

「うむ」

理事長は満足そうに頷いた。

たづなは、メモへ視線を落とす。

菊花賞後対応メモ。

書けば書くほど、項目が増える。

たづなはペンを止めた。

「理事長」

「何だ?」

「確認事項は、確かに増えました」

理事長は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

「……労苦ッ」

「本当にそう思ってくださるなら、明日はスピカ様を休ませてください」

「承知ッ」

その返事だけは、いつもより信用できた。

少なくとも、今日だけは。

菊花賞は終わった。

けれど、終わったからこそ始まる対応がある。

勝者を守ること。

敗者を支えること。

十六人全員の走りを、正しく残すこと。

そして、スピカの言葉と歌が強くなりすぎないよう、ちゃんと手綱を持つこと。

たづなは、もう一度メモを見た。

確認事項は、確かに増えた。

けれど、それは悪いことばかりではない。

今日、ライスシャワーは顔を上げた。

それだけは、確かだった。