第8話 それじゃあ面白くないですね
理事長室に通された時、僕は思っていたより緊張していた。
トレセン学園。
ウマ娘たちが夢を追う場所。
この世界で、もっとも多くのウマ娘がレースへ向かっていく場所。
その理事長室に、今、自分がいる。
そう考えるだけで、背筋が自然と伸びた。
応接テーブルを挟んで、向かいには秋川やよい理事長と駿川たづなさんが座っている。
やよい理事長は小柄だった。
けれど、少しも小さくは見えなかった。
背筋を伸ばし、扇子を手に、こちらをまっすぐ見ている。
頭の上では猫が丸くなっていた。
前世で知っていた姿に近い。
けれど、目の前にいる彼女は画面の向こうの案内役ではない。
この世界で、トレセン学園を背負っている人だ。
たづなさんは、その隣で資料を整えている。
緑の制服はきっちりしていて、姿勢も綺麗だった。
理事長の勢いを受け止め、場を整える人。
前世の記憶と重なるところはある。
でも、それだけで知ったつもりになってはいけない。
僕は膝の上で、軽く手を握った。
「まず、スピカ様」
たづなさんが、静かに口を開いた。
「はい」
「先日は、素晴らしい配信をありがとうございました」
その言葉に、僕は少し固まった。
「……ありがとうございます」
「学園内でも、スピカ様の配信に勇気づけられたという声が多く届いております」
たづなさんの声はとても丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
「眠れるようになった子、もう一度走りたいと言ってくれた子、自分のレースについて少しずつ話せるようになった子もいます」
僕は思わず目を伏せた。
胸の奥が熱くなる。
届いた。
その実感は、やっぱり嬉しい。
けれど同時に、少し怖い。
自分の歌が誰かの夜に届くというのは、思っていたよりずっと重い。
「それは……よかったです」
うまく言葉が出てこなかった。
「僕の方こそ、聞いてくださった方がいたなら、本当に嬉しいです」
たづなさんは、柔らかく微笑んだ。
「スピカ様の言葉は、とても真摯でした。ウマ娘たちの走りを、勝敗だけでなく、その過程まで見てくださっていることが伝わったのだと思います」
「称賛ッ!」
やよい理事長が、力強く扇子を振った。
「君の配信は、あの子たちに確かに届いた! それは学園としても、深く感謝している!」
「ありがとうございます」
僕はもう一度、頭を下げた。
少し、居心地が悪かった。
褒められているのはわかる。
感謝されているのも、たぶん本当なのだと思う。
でも、どこか必要以上に持ち上げられているような感覚もあった。
僕はただ、自分が見たい景色の、最初の一歩として歌っただけだ。
もちろん、届いたなら嬉しい。
でも、僕がすごいわけではない。
すごいのは、走るウマ娘たちだ。
そう思っていると、たづなさんがさらに丁寧な声で続けた。
「本来であれば、スピカ様のご活動にこちらからお願いをすること自体、大変恐縮ではあるのですが」
「恐縮だなんて、そんな」
思わず口を挟む。
たづなさんは少しだけ目を丸くした。
「僕でできることなら、お話しください」
そう言うと、理事長とたづなさんが一瞬だけ沈黙した。
何か変なことを言っただろうか。
不安になったが、たづなさんはすぐに微笑みを戻す。
「ありがとうございます」
彼女は資料を一枚めくった。
「実は、学園としても、スピカ様のお力を少しだけお借りできないかと考えております」
「僕の力、ですか」
「はい。あくまで、ご負担にならない範囲で構いません」
その言葉は、やけに慎重だった。
「スピカ様の配信が、生徒たちのメンタル面に良い影響を与えていることは、こちらでも確認しております。そこで、もし可能であれば、定期的に相談の場を設けていただけないかと」
「相談の場」
「はい。専門的な指導や診断をお願いするものではありません」
たづなさんは、そこで一度言葉を区切った。
「たとえば、配信上で生徒たちから寄せられたコメントや質問に、可能な範囲でお答えいただくだけでも、大きな助けになると考えています」
僕は黙って聞いた。
たづなさんは、さらに言葉を選ぶように続ける。
「頻度については、週に一度……いえ、難しければ月に一度でも構いません」
月に一度。
「時間も、一時間ほどで十分です。内容はこちらでも事前に確認しますし、スピカ様に不適切な負担がかからないよう、学園側で調整いたします」
理事長も頷く。
「配慮ッ! 君に無理を強いるつもりはない!」
「はい」
「もちろん、君の活動が第一だ。学園側の都合で振り回すつもりはない。あくまで、可能であれば、だ!」
理事長の声には勢いがあった。
けれど、その言葉はとても慎重だった。
月に一度でもいい。
一時間でいい。
コメントに答えるだけでいい。
負担にならない範囲でいい。
そこまで譲ってくれている。
たぶん、学園側としてはかなり控えめなお願いなのだろう。
僕はそう思った。
そして、黙った。
悪い提案ではない。
むしろ、ありがたい話だ。
トレセン学園が、僕の配信をただの騒ぎとして切り捨てるのではなく、生徒たちのために活かせないかと考えてくれている。
それは、本当にありがたい。
僕で力になれるなら、相談には乗りたい。
コメントに答えることもできる。
配信で話すこともできる。
でも。
それだけでいいのだろうか。
相談配信。
画面越しの言葉。
それはきっと必要だ。
でも、僕が見たい景色には届かない。
僕が見たいのは、ウマ娘たちがレース後に歌って踊る場所だ。
勝った子がセンターに立ち、届かなかった子も同じ光の中にいる場所だ。
僕が配信で言葉を返すだけでは、そこには届かない。
配信だけでは足りない。
そう、ノートに書いたばかりだった。
「……」
僕が黙っていると、たづなさんの表情が少しだけ硬くなった。
理事長の扇子も、ぴたりと止まる。
「あの、もちろん難しければ」
たづなさんが、すぐに言葉を継ごうとした。
「このお話は、あくまで案です。ご負担になるようでしたら、無理にとは――」
「それじゃあ」
僕は顔を上げた。
二人の視線がこちらへ向く。
僕は、できるだけ明るく言った。
「面白くないですね!」
部屋の空気が止まった。
たづなさんが瞬きをする。
理事長の扇子が、空中で固まる。
頭の上の猫だけが、にゃ、と鳴いた。
「……面白く、ない?」
たづなさんが、慎重に繰り返した。
「はい」
僕は頷いた。
「相談には乗ります。月に一度と言わず、僕で力になれることがあれば、できる範囲でいつでも」
「え」
「配信で答えられることなら答えますし、必要なら専用の相談枠を作ってもいいです。もちろん、学園側で確認してもらう形で大丈夫です」
「で、では」
「でも、それだけで終わるのは、もったいないと思うんです」
二人は黙っていた。
僕は鞄からノートを取り出した。
今日持ってきた、まとめ用のノート。
ページを開く。
そこには、レース後イベントの案がいくつも書かれている。
ステージ。
音響。
出走後の体調確認。
参加は任意。
最初は短く。
歌うのは僕でもいい。
いつかはウマ娘たち自身に。
僕はノートを二人の方へ向けた。
「レース後に、イベントをやりましょう」
たづなさんが、完全に固まった。
理事長も目を見開いている。
「イベント、ですか」
「はい」
「レース後に?」
「はい」
理事長が、扇子を握り直した。
「詳説ッ! どういうことだ、スピカ君」
「最初は、小さくて構いません」
僕は言った。
「レースを走ったウマ娘のみなさんに、ちゃんと『お疲れさまでした』と伝える場所を作りたいんです」
言葉が、少しずつ熱を持っていく。
「勝った方を祝う。それはもちろん大切です。でも、それだけじゃなくて、届かなかった方にも、最後まで走ったことを残せる場所があってほしい」
ノートの文字を指でなぞる。
「最初からウマ娘のみなさんに歌って踊ってもらうのが難しいなら、僕が歌います」
たづなさんの眉が、わずかに動いた。
理事長が息を呑む。
「僕が歌って、僕が踊ります。まずは、レース後に歌があるという前例を作りたいんです」
「君が、か?」
「はい」
僕は頷いた。
「でも、最終的にはウマ娘のみなさん自身に歌ってほしいです。勝った方が真ん中に立って、同じレースを走った方たちも一緒に」
理事長室の空気が、静かに変わっていく。
さっきまでの丁寧な緊張とは違う。
もっと別のもの。
驚き。
困惑。
そして、ほんの少しの熱。
「もちろん、一人で全部できるとは思っていません。むしろ、僕一人では何もできません」
僕は正直に言った。
「だから、相談させてください」
二人を見る。
「トレセン学園の皆さんと一緒に、どうすれば安全に、無理なく、ウマ娘のみなさんがレース後に歌える場所を作れるのか。それを考えさせてください」
沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、さっきとは違っていた。
断られる沈黙ではない。
怒らせてしまった沈黙でもない。
あまりに想定外のものを前にして、言葉を探している沈黙だった。
「壮大ッ……」
理事長が、ぽつりと言った。
いつものように大きな声ではなかった。
胸の奥から、思わずこぼれたような声だった。
けれど次の瞬間、理事長の目が輝く。
「しかし、それは――」
「お待ちください」
たづなさんの声が、それを遮った。
穏やかだった。
けれど、さっきまでとは違う。
明らかに、秘書としての現実的な声だった。
理事長が、はっとしたようにたづなさんを見る。
たづなさんは一度だけ深く息を吸い、資料を整え直した。
「スピカ様」
「はい」
「大変ありがたいお話です。そして、そのお気持ちも、とても尊いものだと思います」
「ありがとうございます」
「ですが、レース後のイベントとなると、考えなければならないことが非常に多くあります」
「はい」
たづなさんの声は丁寧だったが、今度は遠慮だけではなかった。
仕事の声だった。
「まず、出走したウマ娘の体調確認。レース直後に歌やダンスをさせる場合、身体的負担が大きくなります」
「はい」
「観客導線。レース後に観客を留める場合、混雑や移動の管理が必要です」
「はい」
「スピカ様ご自身の安全確保も必要です。男性である以上、通常よりも警備計画を厚くする必要があります」
「僕の安全、ですか」
「はい」
たづなさんははっきりと頷いた。
「加えて、音響、ステージ、主催者との調整、救護体制、参加意思の確認。生徒たちに過度な期待や負担を与えないための告知方法も考えなければなりません」
次々に並べられる現実。
僕は、それを聞きながら少しだけ安心していた。
そうだ。
こういう話が必要なのだ。
僕一人では、夢だけしか出せない。
でも、たづなさんはそれを現実に落とすための問題点を並べてくれている。
「はい。だから、相談したいんです」
僕は言った。
たづなさんの目が、少しだけ動いた。
「僕は、無理に進めたいわけではありません。ウマ娘のみなさんの負担になるなら意味がありません」
「はい」
「走った後に無理をさせたいわけではないんです。むしろ、走ったことを少しでも大切にできる場所にしたい」
僕はノートに視線を落とす。
「だから、最初は僕が歌うだけでも構いません。出走した皆さんは見るだけでもいい。手拍子だけでもいい。何もしなくてもいい」
少しだけ苦笑した。
「本当は、いつか一緒に歌ってほしいんですけど」
その瞬間、たづなさんの表情がほんの少し揺れた気がした。
理事長の頭の上の猫が、尻尾を揺らす。
やがて、理事長が小さく笑った。
「奔放ッ」
今度は、少しだけいつもの調子に戻っていた。
「だが、嫌いではない!」
「理事長」
「わかっている、たづな。即断はせん!」
理事長は扇子を閉じた。
「安全、体調、導線、警備、関係各所との調整。すべて検討せねばならん!」
「はい」
「だが」
理事長は、僕を見た。
小柄な体を大きく見せるように、背筋を伸ばして。
けれど、その目には少しだけ、隠しきれない熱があった。
「検討する価値はある」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言う段階ではないぞ、スピカ君。実現できるかどうかは別問題だ」
「はい」
「だが、話は聞いた」
理事長は扇子を閉じる。
「本日は一度、ここまでとしよう。こちらでも持ち帰って検討する。君も、自分の負担やできることを改めて整理してほしい」
「わかりました」
たづなさんが、資料をまとめる。
「後日、改めて詳細を詰める場を設けさせてください。相談配信の件も含めて、現実的な形を検討いたしましょう」
「はい。よろしくお願いします」
僕は頭を下げた。
会合は、そこで一度終わりになった。
帰り際、理事長が言った。
「スピカ君」
「はい」
「君の見たい景色は、まだ私には完全にはわからん」
「はい」
「だが、あの子たちがレースの後に笑って立てる場所というのは」
少しだけ間が空く。
「見てみたいものだな」
僕は、言葉に詰まった。
それから、深く頭を下げた。
「はい」
理事長室を出る。
たづなさんが、来た時と同じように人目につきにくい通路を案内してくれた。
廊下の窓の外では、ウマ娘たちが走っている。
僕はその姿を見ながら歩いた。
まだ、何も決まっていない。
今日の話が実現するかどうかもわからない。
でも。
配信だけでは足りない、とノートに書いた。
その答えの一つが、少しだけ見えた気がした。
レース後に、歌がある。
いつか、その歌をウマ娘たち自身が歌う。
そのための、次の一歩。
僕は胸の奥で、静かに息を吸った。
理事長室では、扉が閉まった後もしばらく沈黙が残っていた。
たづなは、テーブルの上に置かれたノートの写しを見る。
レース後イベント案。
相談配信案。
ウィニングライブ。
聞き慣れない言葉。
けれど、スピカの口から出た時、それは妙に真剣な響きを持っていた。
「たづな」
理事長が口を開く。
「はい」
「私はな、月に一度でも応じてくれれば十分だと思っていた」
「私もです」
「断られなければよい。機嫌を損ねなければよい。そう思っていた」
「……はい」
「だが彼は、相談ならいつでもと言った」
「はい」
「その上で、レース後にイベントをやろうと言った」
理事長は小さく笑った。
それはいつもの豪快な笑いではなかった。
ほんの少しだけ、胸の奥からこぼれたような笑みだった。
「奔放ッ、にもほどがある」
たづなも、少しだけ目元を緩めた。
「理事長に言われると、少し不思議ですね」
「むっ」
頭の上の猫が、尻尾を揺らした。
たづなは、資料を揃えながら言う。
「現実的には、問題が山積みです」
「わかっている」
「出走直後の生徒に歌やダンスをさせるわけにはいきません。観客誘導、警備、救護、主催者側との調整。スピカ様ご自身の安全もあります」
「当然だ」
「ですが」
たづなは一度言葉を止めた。
胸の奥が、少しだけ熱い。
それがなぜなのか、自分でも完全にはわからない。
あまりに夢物語だった。
現実を知らないようにも聞こえた。
それでも、あの言葉が残っている。
走ったことを、勝敗だけで終わらせない場所。
「……検討する価値は、あると思います」
理事長は満足げに頷いた。
「検討ッ!」
その声は、いつものように大きかった。
けれど、ほんの少しだけ弾んでいた。
「できるかどうかは別だ。安全も、負担も、制度も、考えねばならん」
「はい」
「だが、あの子たちがレースの後に笑って立てる場所か」
理事長は、窓の向こうのトレーニングコースを見た。
「……見てみたいものだな」
たづなは静かに頷いた。
「はい」
そしてすぐに、資料を一枚取り出す。
「では、まずは初回実施形式について検討しましょう」
「早速ッ!」
「現実的には、初回から出走生徒に歌唱やダンスを求めるのは難しいです」
「うむ」
「となると、まずはスピカ様によるレース後ミニライブという形式が妥当かと」
「妥当ッ!」
「生徒たちは観覧。手拍子程度なら可能かもしれません。段階的に、希望者参加型へ移行する形です」
理事長は大きく頷いた。
「安全第一ッ! まずは成功例を作ることが肝要だ!」
「はい」
「……決して、私がスピカ君の歌を生で聞きたいからではない」
「はい」
「生徒たちのためだ」
「はい」
たづなは資料に目を落としたまま答える。
「たづな」
「はい」
「君も、見たいと思っているだろう」
「……業務上、確認は必要かと」
「必要ッ!」
頭の上の猫が、疑わしそうに鳴いた。
その後、二人は真面目な顔で警備計画の話を始めた。
誰にも知られないところで。
スピカの夢は、少しだけ現実へ近づき始めていた。
ただし、本人の理想とは少し違う形で。
最初に歌って踊るのは、やはりスピカになりそうだった。
あわれ、スピカ。