第17話 それでも、ゴールへ

ゲートへ向かう前から、彼女の耳は落ち着かなかった。

フラワーカップ。

自分にとって、大切な一戦だった。

ここで結果を出したい。

ここで、ちゃんと走れるところを見せたい。

トレーナーと何度も話した作戦は、わかっている。

序盤は無理をしない。

前が速くなりすぎても、ついていきすぎない。

脚を溜める。

最後の直線で伸ばす。

それが今日の作戦だった。

何度も確認した。

何度も頷いた。

いつも通りに走ればいい。

そう言われた。

でも、今日はいつも通りではなかった。

レース後イベント。

出演は、スピカ。

その告知を見た時から、胸の奥がずっとざわついていた。

最初は、ただ嬉しかった。

中山で実在したスピカが、またレース場に来る。

画面の向こうで、レースについて語ってくれる人。

勝った子だけでなく、届かなかった子の走りも拾ってくれる人。

自分たちに向けて、歌を届けてくれる人。

その人が、今日のレース後にいる。

自分の走りを見るかもしれない。

そう思った瞬間、嬉しさは別のものに変わった。

見てほしい。

今日の自分を、見てほしい。

胸を張って、見てほしい。

勝ちたい。

ただ勝ちたいだけではない。

勝って、スピカにおめでとうと言われたい。

最後まで走った姿を、すごいと言われたい。

そう思ってしまった。

「落ち着いて」

トレーナーが言う。

肩に置かれた手は、いつも通り温かかった。

「作戦は変えない。前が速くなっても、慌てない。いいね」

「はい」

頷いた。

自分でも、わかっている。

ここで浮ついてはいけない。

レースはレースだ。

スピカさんがいるからといって、いつもと違う走りをしていいわけではない。

でも、耳が勝手に動く。

観客席のざわめきが、いつもより大きく聞こえる。

ステージの方から、音響確認の気配がする。

そこにスピカさんがいるのかもしれない。

そう思うたび、心臓が跳ねる。

「レースに集中して」

「はい」

「スピカさんのことは、今は考えない」

その名前を聞いた瞬間、耳が立った。

トレーナーが、しまった、という顔をした。

「……ごめん」

「いえ」

考えない。

考えない。

考えないようにするほど、考えてしまう。

ゲートへ向かう。

芝の匂いがする。

観客席の熱が、背中に当たる。

ファンファーレが鳴った。

いつもの音。

何度も聞いてきた音。

それなのに今日は、音の向こうに別の熱がある。

レースの後に歌がある。

ゴールの先に、ステージがある。

それを思った瞬間、胸が苦しくなった。

ゲートに入る。

一瞬、世界が狭くなる。

前を見る。

大丈夫。

作戦通り。

抑えて。

溜めて。

最後に。

ゲートが開いた。

身体が飛び出す。

いつもより、少し強く出た。

周りの子たちも速い。

前へ。

前へ。

全員が、いつもより前を欲しがっているように見えた。

ここで張り合ってはいけない。

わかっている。

わかっているのに、脚が前へ行きたがる。

先頭から離されたくない。

埋もれたくない。

見てほしい。

今日の自分を、ちゃんと見てほしい。

その気持ちが、手綱のないところで身体を押した。

向こう正面。

呼吸が少し速い。

いつもより脚を使っている。

まずい。

ここは抑えるところだ。

トレーナーの声が、遠くで聞こえた気がした。

抑えて。

でも、もう身体は前へ出ようとしている。

前の子の背中が近い。

外から別の子が来る。

内も詰まる。

コーナーへ入る。

一瞬だけ、足元の芝が違う感触を返した。

しまった。

そう思った時には、身体が傾いていた。

脚がもつれる。

視界が斜めになる。

誰かの息遣い。

驚いた声。

避けていく足音。

芝が近い。

次の瞬間、身体が地面に転がった。

痛い。

でも、それより先に、頭が真っ白になった。

転んだ。

転んだ。

フラワーカップで。

スピカさんがいる日に。

見てほしかった日に。

観客席から悲鳴が上がった。

救護スタッフの声が聞こえる。

「大丈夫ですか」

「立てますか」

身体を確かめる。

脚は動く。

大きな怪我は、たぶんない。

でも、先頭はもう遠かった。

レースは前へ流れている。

歓声も、実況も、足音も、全部自分を置いて前へ行ってしまった。

勝負は終わった。

誰が見ても、そうだった。

もう追いつけない。

もう勝てない。

作戦も何もない。

自分が今日残したものは、転倒と、迷惑と、悲鳴だけ。

そう思った。

それでも、身体はゴールの方を向いた。

走らなきゃ。

なぜか、そう思った。

勝てないのに。

意味なんてないのに。

先頭はもう見えないのに。

それでも、ゴールは前にある。

ゴールまで走らなければならない。

ウマ娘だから。

レースに出たから。

自分でここに立ったから。

彼女は走り出した。

ひとりで。

大きく離されて。

観客席の熱が、もう自分の方へ向いていないように感じた。

前ではレースが続いている。

勝つ子がいる。

届かない子がいる。

その中に、自分はいない。

ただ、遅れている。

ただ、転んだ子として見られている。

息が苦しい。

脚も重い。

涙が出そうだった。

でも、泣くのはゴールしてからだと思った。

せめて、ゴールまでは。

せめて、最後までは。

最後の直線。

前の熱は、もう遠い。

勝者が決まる歓声が聞こえた。

その歓声の後ろを、彼女は走った。

自分だけ、別のレースをしているみたいだった。

ゴール板が近づく。

あと少し。

あと少し。

何のために。

そう思った。

答えはなかった。

でも、身体は止まらなかった。

彼女はゴールした。

大差。

勝負とは呼べない結果。

顔を上げられなかった。

トレーナーが駆け寄ってきた。

何かを言ってくれている。

怪我がないか。

よくゴールした。

大丈夫か。

聞こえているのに、うまく受け取れなかった。

よくない。

大丈夫じゃない。

自分は、フラワーカップを壊した。

レースを乱して、心配をかけて、大差で負けて。

スピカさんにも、きっと見られた。

見られたくなかった。

こんな自分は、見られたくなかった。

でも。

見ていてほしかった。

最後まで走ったことだけは。

そんな矛盾した気持ちが、胸の中でぐちゃぐちゃになっていた。

レース後イベントのアナウンスが流れる。

観客席が揺れる。

ステージの方へ、空気が動く。

顔を上げられないまま、彼女はその場に立っていた。

スピカが出てくる。

歓声が上がる。

見たい。

でも見られない。

自分は、今日その場所にいる資格がない気がした。

「本日、フラワーカップを走ったすべてのウマ娘の皆さんへ」

マイクを通した声が、競馬場に響いた。

彼女の肩が震えた。

「本当に、お疲れさまでした」

拍手が起きる。

勝った子へ。

届かなかった子へ。

走った全員へ。

その拍手の中に、自分が含まれているとは、すぐには思えなかった。

スピカは勝った子を称えた。

届かなかった子たちの走りにも触れた。

そこまでは、まだ聞いていられた。

けれど。

「それから」

その声が、自分の方へ向いた気がした。

「途中で転んでしまって、それでも立ち上がって、最後までゴールへ向かった方へ」

全身が固まった。

見られていた。

やっぱり見られていた。

転んだところも。

大きく離されたところも。

ひとりで走ったところも。

全部。

恥ずかしい。

消えたい。

でも、次の言葉で息が止まった。

「最後まで走ってくれて、ありがとうございました」

意味がわからなかった。

ありがとう。

何に。

転んだのに。

迷惑をかけたのに。

レースを壊したのに。

「転んでも、立ち上がって、ゴールまで行くのは簡単なことではないと思います」

違う。

簡単じゃなかった。

でも、すごいことでもない。

ただ、止まれなかっただけだ。

ゴールしなきゃと思っただけだ。

「今日の結果は、きっと悔しいと思います。つらいと思います。簡単に笑えるものではないと思います」

その通りだった。

悔しい。

つらい。

笑えない。

なのに、誰かにそう言われた瞬間、胸の奥に溜めていたものがほどけそうになった。

「でも、あの状況で、もう一度前を向いて走ったことを、僕は本当にすごいと思いました」

涙が出た。

止まらなかった。

見られたくなかった。

でも、見ていてほしかった。

その矛盾ごと、言葉に包まれた気がした。

彼女は顔を上げた。

スピカがこちらを見ていた。

困ったような、心配そうな顔をしている。

「すみません。泣かせるつもりではなくて」

違う。

違うと言いたい。

でも言葉にならない。

「ごめ、なさ……でも、うれし、でも、私、転んで、レース、めちゃくちゃに……でも、スピカさんが、最後までって、でも、あの、うれしくて、でも、申し訳なくて」

自分でも何を言っているのかわからなかった。

嬉しい。

申し訳ない。

悔しい。

恥ずかしい。

見てくれていた。

ありがとうと言われた。

全部が一度に来て、涙になった。

たづなさんがスピカを止めてくれた。

救護スタッフとトレーナーが寄り添ってくれた。

スピカは最後にもう一度、頭を下げた。

「本当に、お疲れさまでした」

彼女は何度も頷いた。

それしかできなかった。

ステージが始まる。

スピカが中央に立つ。

新しい曲を用意してきた、と言った時、会場が揺れた。

彼女は涙を拭うのも忘れて、ステージを見た。

「この曲は、もう一度前へ進むための曲です」

スピカの声が届く。

「勝った方にも、届かなかった方にも、転んでも最後まで走った方にも」

また涙が出た。

けれど今度は、少しだけ顔を上げられた。

「今日の先に、まだ次があると信じたいすべての人へ」

ギターの音が鳴った。

NEXT FRONTIER。

メイクデビューとは違う。

優しく背中を押すというより、前に手を伸ばされるような曲だった。

まだ行けるだろう。

まだ終わっていないだろう。

そんなふうに、胸を叩かれる。

転んだことは消えない。

大差で負けたことも消えない。

今日のレースは、やり直せない。

それでも。

それだけで終わらなくてもいいのかもしれない。

勝った子が拳を握っていた。

届かなかった子が、唇を噛みながら前を見ていた。

観客席が手拍子をしている。

その中で、彼女は泣きながら顔を上げた。

今日、転んだ。

負けた。

悔しかった。

消えたかった。

でも、ゴールした。

最後まで走った。

それを見ていた人がいた。

それを、ありがとうと言った人がいた。

曲が終わる。

拍手が降ってくる。

彼女は涙で滲む視界の中で、ステージを見ていた。

胸の奥に、まだ熱が残っている。

次も、走りたい。

その気持ちが、確かに残った。