第15話 次はフラワーカップで

定期配信を始めてから、数週間が経った。

週に一度。

時々、余裕がある週には二度。

僕は配信を続けた。

最初は緊張していた。

いや、今でも緊張はしている。

配信開始ボタンを押す前は、いつも少しだけ手が震える。

でも、少しずつ慣れてきたこともある。

レースの感想を話すこと。

その週に走ったウマ娘たちについて話すこと。

勝った子だけではなく、届かなかった子の走りも振り返ること。

曲を少し歌うこと。

そして、毎回のようにメイクデビューを求められること。

それにも、少しだけ慣れた。

慣れてしまっていいのかは、わからない。

僕はウマ娘たちに歌ってほしいのに、どうしても僕が歌う方向へ話が転がっていく。

けれど、悪いことばかりではなかった。

配信のたびに、コメント欄には少しずつ変化があった。

最初は、

メイクデビュー歌って。

スピカきゅんに歌ってほしい。

センターはスピカきゅん。

というコメントが多かった。

今も多い。

かなり多い。

ただ、その中に少しずつ、

今日のレース、二着の子もすごかった。

着外だったけど最後まで粘ってた子いた。

あの仕掛け、届かなかったけど好きだった。

という言葉が混じるようになった。

それを見るたびに、少しだけ胸が熱くなる。

勝者だけではない。

届かなかった子の走りも、誰かが見ている。

それが、ほんの少しずつでも広がっているなら。

僕が歌っている意味も、少しはあるのかもしれない。

そんなことを考えていた頃、トレセン学園から再び連絡が来た。

差出人は、駿川たづなさん。

件名は、次回レース後イベントについて。

僕は思わず背筋を伸ばした。

中山競馬場での最初の現地イベントは、学園側の準備と関係者の協力もあって、無事に終えることができた。

あの後、たづなさんからは何度か事務的な連絡が来ている。

警備上の振り返り。

観客導線の報告。

救護対応の件数。

出走ウマ娘たちへの影響。

とても丁寧で、細かくて、実務的だった。

あらためて、あの人がいなければイベントは成立しなかったのだと思った。

今回のメールには、次の現地イベント候補について相談したいと書かれていた。

場所はトレセン学園。

日時は、学園側が指定した候補の一つ。

そして、候補レースの名前が書かれていた。

フラワーカップ。

「……フラワーカップ」

声に出すと、少しだけ胸が高鳴った。

春。

花。

次のステージ。

メイクデビューが始まりの歌なら、フラワーカップには別の曲が合うかもしれない。

そう思った瞬間、頭の中でギターの音が鳴った。

前へ。

次へ。

まだ見ぬ地平へ。

僕は机の横に積んでいたノートを一冊取り出した。

そこには、まだ配信でも現地でも出していない曲のメモがある。

NEXT FRONTIER。

メイクデビューとは違う。

明るく背中を押す始まりの歌ではなく、もっと熱く、もっと速く、息が苦しくなるほど前へ進む歌。

勝った子にも、届かなかった子にも。

転んでも、負けても、届かなくても。

それでも次へ進む子たちへの曲。

フラワーカップに合う。

そう思った。

けれど、すぐに別の声が頭の中で響く。

新曲を出すなら、ちゃんと相談しなければならない。

中山の時のように、すべてを学園側が把握していたからこそ無事に終わった。

勝手にサプライズを増やせば、たづなさんの負担が増える。

僕は、たづなさんのメールを読み直した。

会合は数日後。

その場で、フラワーカップと曲について話そう。

そう決めて、僕は返信を書いた。

ぜひ伺います。

よろしくお願いいたします。

数日後。

僕は、またトレセン学園の関係者用入口をくぐった。

案内は、やはりたづなさんだった。

「本日もよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

たづなさんの表情は、落ち着いていた。

中山イベントを無事に終えたことで、少しだけ距離が縮まったような気がする。

もちろん、気のせいかもしれない。

ただ、最初の会合の時のような強い緊張は、少なくとも表面上は見えなかった。

案内されたのは、前回と同じ会議室だった。

そこには、秋川やよい理事長がすでにいた。

「再会ッ! よく来てくれた、スピカ君!」

「本日もお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそだ! 中山での一歩、見事であった!」

理事長は満面の笑みだった。

中山のイベント以降、理事長は何かと機嫌がいいらしい。

たづなさんからのメールにも「理事長が非常に前向きです」と書かれていた。

非常に前向き。

少しだけ不安になる表現だった。

席につくと、たづなさんが資料を配った。

「本日の議題は、次回レース後イベントについてです」

資料の一枚目には、フラワーカップの文字がある。

「中山での初回実施を踏まえ、次回はフラワーカップ後のイベントを候補として検討しています」

「はい」

「前回よりも観客の反応が予測しやすくなったとはいえ、スピカ様の定期配信開始によって、注目度はさらに上がっています」

「……はい」

そこは、自分でも少し感じている。

配信の待機人数は増えている。

コメントも増えている。

レース感想を求める声も、曲を求める声も増えている。

ありがたい。

ありがたいけれど、やはり重い。

「そのため、今回は一部を事前告知する案も検討しています」

たづなさんが言った。

僕は少し驚いた。

「事前告知ですか」

「はい。前回は初回ということもあり、混乱を避けるためにサプライズ形式を取りました」

たづなさんは、資料に視線を落とす。

「しかし、今後継続するのであれば、観客や生徒たちにも一定の心構えが必要です」

非常に真っ当だった。

僕は頷く。

「僕も、その方がいいと思います」

中山の時、観客もウマ娘たちもかなり驚いていた。

それが悪かったとは思わない。

あの日の驚きが、たしかに何かを動かしたとも思う。

でも、続けていくなら、毎回不意打ちではいけない。

特に、レースに出るウマ娘たちには、余計な負担をかけたくない。

「ただし」

たづなさんが続ける。

「すべてを告知するかどうかは、検討が必要です」

その言葉に、理事長の扇子がわずかに揺れた。

僕は少しだけ嫌な予感がした。

「具体的には」

たづなさんは資料を見る。

「レース後イベントの実施自体は事前告知する。出演者がスピカ様であることも明示する」

たづなさんは、資料の項目を指で追った。

「内容については、基本的に中山と同じくレース後ミニライブとします」

「はい」

「曲目は、メイクデビューを中心に調整する想定です」

「……はい」

僕はノートの中のNEXT FRONTIERを思い出した。

言うなら、今だ。

ちゃんと相談する。

勝手に出さない。

それが大事だ。

「あの」

「はい」

「今回、フラワーカップに合わせて、別の曲を用意したいと思っています」

たづなさんが、ゆっくりと顔を上げた。

理事長の目が、きらりと輝いた。

「別の曲?」

「はい」

僕は鞄からノートを取り出す。

ページを開く。

NEXT FRONTIER。

曲名の下には、昔から書いてきたメモが並んでいる。

疾走感。

ギター。

次の地平。

勝った子にも、届かなかった子にも。

転んでも、前へ。

「メイクデビューは、これから走り出す子への曲だと思っています。まだ何者でもない子が、それでも夢へ向かうための歌です」

「はい」

「でも、フラワーカップは、もう走り出した子たちが次へ進む場だと思いました」

僕はページを指で押さえる。

「だから、もっと前へ進む曲を歌いたいんです」

理事長が身を乗り出す。

「曲名は?」

「NEXT FRONTIER」

その名前を口にした瞬間、理事長が扇子を開いた。

「勇壮ッ!」

早い。

反応が早い。

たづなさんは、資料にメモを取っている。

表情は落ち着いている。

しかし、ペン先が一瞬だけ止まったように見えた。

「新曲、ということになりますね」

「はい」

「フラワーカップで初披露を希望される、と」

「はい」

たづなさんは、しばらく黙った。

僕は少しだけ身構えた。

やはり、負担が大きいだろうか。

観客の反応も読みにくい。

出走ウマ娘たちにも影響するかもしれない。

中山で前例はできたとはいえ、新曲となるとまた別だ。

「……内容について、事前に確認させていただけますか」

「もちろんです」

僕はすぐに頷いた。

「音源、歌詞、演出案、すべて共有します」

「ありがとうございます」

たづなさんは、少しだけ息を吐いた。

たぶん、安心したのだと思う。

僕も安心した。

勝手にやるつもりはない。

ちゃんと相談する。

たづなさんの胃を守るためにも。

しかし、そこで理事長が言った。

「たづな」

「はい」

「新曲披露という響きは、実に心が躍るな!」

「理事長」

「告知するか?」

「それは慎重に」

「だが、サプライズもまた良いものだ!」

「理事長」

たづなさんの声が、少しだけ低くなった。

理事長は扇子の陰で咳払いをする。

「もちろん、安全第一ッ!」

「はい」

「だが、フラワーカップという名にふさわしい、新たな花が開く瞬間をだな」

「理事長」

「……検討ッ!」

たづなさんは、小さく息を吐いた。

僕は二人のやり取りを見ながら、少しだけ笑いそうになる。

理事長は、たぶんサプライズが好きだ。

たづなさんは、それを止める役だ。

ただ、今回は僕も少しだけ理事長の気持ちがわかった。

新曲を、フラワーカップのレース後に初めて響かせる。

走り終えたウマ娘たちへ、その場で届ける。

それは、きっと強い意味を持つ。

ただし、意味が強いからこそ危険でもある。

僕の曲は、思っていた以上にウマ娘たちへ届いてしまう。

嬉しい。

けれど、怖い。

だから、たづなさんの慎重さは必要だった。

「僕としては」

二人がこちらを見る。

「新曲をやるなら、事前に内容はすべて学園側に共有します。ただ、当日まで曲名や内容を公表するかどうかは、学園側の判断に従います」

たづなさんが少しだけ驚いたように目を開く。

「よろしいのですか」

「はい。僕は、出走するウマ娘のみなさんに余計な負担をかけたいわけではありません」

「……ありがとうございます」

「ただ」

僕は少し迷ってから言った。

「もし可能なら、当日のレースを走った方たちに、その日に初めて届けたい気持ちもあります」

理事長の目が輝く。

たづなさんが、額に手を当てかけて、途中で止めた。

まだ胃は無事だ。

たぶん。

「……検討します」

たづなさんはそう言った。

非常に事務的な声だった。

会議はその後、実務的な確認へ移った。

フラワーカップ当日の警備。

観客導線。

出走ウマ娘たちへの告知範囲。

救護班の増員。

スピカの控室。

新曲を入れる場合の持ち時間。

メイクデビューも歌うかどうか。

僕は、できる限り真剣に聞いた。

ただ、途中で理事長が何度か「新曲ッ!」と嬉しそうに呟き、そのたびにたづなさんが「理事長」と静かに止めていた。

会議が終わる頃には、方向性が決まっていた。

フラワーカップ後にレース後イベントを実施。

スピカ出演は事前告知。

曲目は基本非公開。

新曲NEXT FRONTIERは、学園側で内容確認のうえ、実施可否を判断。

出走ウマ娘たちには、レース後にイベントがあることだけを伝える。

曲の詳細は伝えない。

安全管理を優先。

観客導線を強化。

救護班増員。

たづなさんの資料は、また一段厚くなっていた。

僕は深く頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

たづなさんはそう言った。

表情は落ち着いている。

まだ、胃は無事そうだった。

僕は少し安心した。

会議が終わり、僕は学園を後にした。

帰り道、頭の中ではNEXT FRONTIERのギターが鳴っていた。

フラワーカップ。

新曲。

次の一歩。

メイクデビューが最初の歌なら、NEXT FRONTIERはその先へ進む歌だ。

勝った子にも。

届かなかった子にも。

次へ向かうすべてのウマ娘へ。

ちゃんと届けられるようにしなければ。

僕は歩きながら、ノートを鞄越しにそっと押さえた。

その日の夜。

理事長室では、やよい理事長が扇子を手に楽しそうにしていた。

「たづな」

「はい」

「NEXT FRONTIER、良い響きだな!」

「はい」

「フラワーカップで新曲初披露。実に華やかではないか!」

「はい」

「これは当日、実に盛り上がるぞ!」

「……はい」

たづなさんは資料を確認しながら返事をしていた。

「理事長」

「なんだ」

「曲名を当日まで伏せる場合、観客反応は予測困難になります」

「承知ッ!」

「出走ウマ娘たちへの心理的影響もあります」

「承知している!」

「本当に?」

「……承知ッ」

少しだけ声が小さくなった。

たづなさんは軽く息を吐いた。

それでも、彼女の表情は完全に否定しているものではなかった。

中山で、彼女も見たのだ。

レース後に歌がある景色を。

勝った子だけでなく、届かなかった子にも拍手が向いた瞬間を。

それが生徒たちにとって、何かを変える可能性があることを。

だから止めきれない。

止めるべきところは止める。

でも、進めるべきところは進める。

それが自分の役割だと、たづなさんは思っていた。

「理事長」

「うむ」

「今回、サプライズにするのは曲目だけです」

「わかっている」

「新曲をやること自体も、当日まで関係者以外には伏せます」

「わかっている」

「そのぶん、警備と救護をさらに厚くします」

「万全ッ!」

「そして、万が一混乱が大きすぎた場合は、演出を短縮します」

「……短縮」

「はい」

理事長は少しだけしょんぼりした。

頭の上の猫が、尻尾で理事長の額を叩く。

「む」

「必要な措置です」

「承知ッ!」

理事長は再び扇子を開いた。

「だが、たづな」

「はい」

「私は楽しみだ」

その声は、いつもの大声ではなかった。

少しだけ柔らかかった。

「あの子たちが、レースの後に何を受け取るのか」

たづなさんは、資料を見る手を止めた。

「……はい」

「中山の時、私は思った。あれはただの余興ではない」

「はい」

「勝った者も、届かなかった者も、同じ場所で拍手を受ける。そんな景色を、私はもっと見たい」

たづなさんは、小さく頷いた。

「私もです」

言ってから、少しだけ目を伏せる。

それは秘書としての言葉か。

それとも、かつて走っていたかもしれない自分のどこかから出た言葉か。

たづなさん自身にも、よくわからなかった。

ただ、NEXT FRONTIERという曲名を聞いた時。

胸の奥で、何かがほんの少しだけ高鳴ったのは事実だった。

「では、準備を進めましょう」

「うむ!」

「ただし、理事長」

「なんだ」

「予定外の発表はしないでください」

「……」

「理事長」

「承知ッ!」

たづなさんは、少しだけ疑わしそうに理事長を見た。

理事長は堂々としている。

堂々としているが、楽しそうでもある。

その楽しそうな顔を見て、たづなさんはほんの少しだけ嫌な予感を覚えた。

まだ、胃は死んでいない。

しかし、遠くから足音が聞こえ始めているような気はした。