第7話 トレセンからのDM

初配信の後、僕はしばらく次の配信をしなかった。

正確に言えば、できなかった。

怖くなった、というのとは少し違う。

もちろん、怖くなかったと言えば嘘になる。

配信を終えた後、通知はしばらく止まらなかった。

再生数も、僕が想像していたものとはまるで違う速度で増えていった。

感想も届いた。

ありがとうございました。

泣きました。

眠れました。

また走りたくなりました。

そんな言葉を見た時、僕はしばらく画面の前で動けなくなった。

嬉しかった。

それは、本当に嬉しかった。

けれど同時に、背筋が伸びるような怖さもあった。

僕の歌が、誰かの夜に届いた。

それは、思っていたよりずっと重いことだった。

ただ歌って終わりではいけない。

届いたのなら、届いた先のことを考えなければならない。

僕は、コメント欄や掲示板を追いかけることはしなかった。

配信後の反応が気にならないわけではない。

でも、それを見始めたら、きっと数字や評価を気にしてしまう。

どの言葉が喜ばれたのか。

どの歌が伸びたのか。

どんな反応が多かったのか。

そういうものを見て動くようになったら、僕が最初に見たかった景色から少しずつ離れてしまう気がした。

僕がやりたいのは、人気を集めることではない。

ウマ娘たちに、ウィニングライブをしてもらうことだ。

勝った子がセンターに立つ。

同じレースを走った子たちも、一緒に歌って踊る。

勝ったことも、届かなかったことも、全部その日のレースとして光の中に残る。

僕が見たいのは、その景色だった。

だから、次に考えるべきことは、配信の反応ではなかった。

その先だ。

僕は机に向かい、いつものノートを開いた。

子どもの頃から、ウィニングライブをこの世界に作るために書き続けてきたノートだ。

もう何冊目かわからない。

今日開いたページには、配信後に考えたことを書いていく。

配信だけでは足りない。

まず、そう書いた。

配信は届く。

それはわかった。

少なくとも、どこかの誰かには届いた。

でも、配信ではレース後の場所は作れない。

画面の前で僕が歌うだけでは、ウマ娘たちがレース後にステージへ立つことにはならない。

必要なもの。

僕は箇条書きにする。

レース場。

音響。

ステージ。

出走後の体調確認。

参加するウマ娘の同意。

練習時間。

観客の導線。

安全管理。

関係者の理解。

学園やレース主催側の協力。

書けば書くほど、現実が見えてきた。

一人では無理だ。

そんなことは、最初からわかっていたはずだった。

それでも、初配信が終わった後、改めてその大きさを思い知った。

ウィニングライブは、僕一人で作れるものじゃない。

僕が歌って終わるものではない。

ウマ娘たちが立つ場所なのだから、ウマ娘たちを支える人たちと話さなければならない。

けれど、どうやって。

僕はただの個人配信者だ。

トレーナーではない。

学園の関係者でもない。

レース場にステージを作りたいです、なんて突然言っても、普通は相手にされない。

いや、この世界では男性というだけで、変に話が通ってしまう可能性もあるのかもしれない。

でも、それは嫌だった。

男性だから通るのではなく、ウマ娘たちにとって必要だと認められて、初めて進めるべきだと思った。

ノートに手を置いたまま、僕はしばらく考え込んだ。

次に何をすべきだろう。

誰に話すべきだろう。

どうすれば、ウマ娘たち自身の場所へ近づけるだろう。

その時、配信用の連絡窓口に通知が入った。

また感想だろうか。

そう思いながら画面を見る。

差出人の名前を見た瞬間、僕は思わず背筋を伸ばした。

トレセン学園。

そして、送信者名。

駿川たづな。

その名前を、僕は知っている。

前世のアプリで、何度も見た名前だった。

緑の制服姿で、いつもプレイヤーを導いてくれた人。

チュートリアル。

案内。

育成。

サポート。

でも、それは前世の記憶だ。

ここは現実で、目の前のメッセージを送ってきた駿川たづなさんは、ゲームの案内役ではない。

この世界で働いて、この世界のウマ娘たちを支えている、一人の人だ。

だから、知っているつもりになってはいけない。

僕はそう自分に言い聞かせながら、メッセージを開いた。

文面は、とても丁寧だった。

突然の連絡への謝罪。

僕の配信活動と初配信を拝見したこと。

ウマ娘たちに少なからず影響が出ていること。

その件について、トレセン学園として一度話をする機会をもらえないか、という依頼。

こちらの都合を最優先すること。

オンラインでも構わないこと。

負担にならない範囲で構わないこと。

文面は隅々まで整っていた。

丁寧なメールだな、と思った。

たづなさんは、この世界でも真面目な人なんだな。

少し失礼かもしれない感想が浮かんで、僕は小さく苦笑した。

でも、トレセン学園から連絡が来た。

その事実に、心臓が少し速くなった。

トレセン学園。

ウマ娘たちが夢を追う場所。

この世界で、最も多くのウマ娘がレースへ向かっていく場所。

いつか関わらなければならないと思っていた場所。

そこから、向こうから連絡が来た。

断る理由はなかった。

僕はすぐに返信を書いた。

ご連絡ありがとうございます。

ぜひお話しさせてください。

日時や場所は学園側の都合に合わせます。

僕の方で特別な希望はありません。

何度か読み返して、失礼がないか確認する。

少し堅すぎるだろうか。

でも、相手はトレセン学園だ。

これくらいでいいはず。

僕は送信ボタンを押した。

送ってから、しばらく画面を見つめていた。

「……送った」

声に出すと、急に実感が湧いてきた。

トレセン学園と、話をする。

スピカとして。

ウィニングライブを、少しでも前に進めるために。

僕はノートを閉じた。

その表紙を、そっと撫でる。

昔の僕が書いた、歪んだ文字。

何年も抱えてきた夢。

それが、初めて外の世界と繋がろうとしていた。

同じ頃。

トレセン学園の理事長室では、駿川たづなが受信画面を見つめていた。

返信は、想定よりずっと早かった。

そして、内容は想定よりずっと簡潔だった。

条件はない。

要求もない。

場所も日時も、学園側に合わせると書いてある。

たづなは、少しだけ瞬きをした。

「……二つ返事、ですね」

応接机の向こうで、小柄な理事長が扇子を開いた。

秋川やよい。

トレセン学園の理事長であり、誰よりもウマ娘たちのことを考えている人物。

頭の上では、いつものように猫が丸くなっている。

「即答ッ! 実に良い返事ではないか!」

その声はいつも通り大きい。

けれど、たづなは知っている。

理事長は、男性と関わる会談ではいつもより少し声を張る。

背筋を伸ばす。

扇子の動きを大きくする。

小柄な体を、立場と声で大きく見せようとする。

それは理事長としての癖であり、鎧でもあった。

この世界では、男性が少ない。

だから大切にされる。

だからこそ、時に無遠慮な要求を通す男性もいる。

トレセン学園は、ウマ娘たちを守る場所だ。

理事長はその先頭に立つ者として、決して軽く見られるわけにはいかなかった。

たづな自身も、男性相手の対応には慎重だった。

もちろん、すべての男性が横暴なわけではない。

しかし、過去に嫌な対応がなかったわけではない。

こちらが丁寧に出るほど、さらに要求を重ねられる。

学園側の都合を軽く扱われる。

ウマ娘たちのことを、数字や人気や話題性としてしか見ない。

そういう経験は、一度や二度ではなかった。

だから今回も、かなり慎重に文面を作った。

スピカ。

初配信で、全国のウマ娘たちに衝撃を与えた男性配信者。

本人がどれだけ穏やかに見えても、実際に会うまではわからない。

配信の姿が演技ではない保証もない。

ウマ娘たちのために歌っているように見えて、その影響力をどう使うつもりなのかもわからない。

だから、会う必要があった。

警戒もある。

期待もある。

そして、感謝もあった。

実際、学園内でも変化は起きていた。

眠れるようになった子がいる。

負けたレースの話を少しだけできるようになった子がいる。

朝練へ向かう足取りが軽くなった子がいる。

もちろん、熱狂しすぎている子もいる。

配信を見て倒れかけた子もいる。

夜中に走りに行こうとして、寮長に連れ戻された子もいる。

良い影響だけではない。

それでも、無視できない変化だった。

「理事長」

たづなは静かに言った。

「お返事は、とても丁寧です」

「うむ。礼節ッ!」

「ですが、実際にお会いするまでは、判断を急がない方がよろしいかと」

「当然ッ! 私は理事長だ。生徒たちのことを第一に考える」

やよい理事長は扇子を閉じた。

その表情は、いつもの豪快さを残しながらも、どこか真剣だった。

「彼の言葉で救われた子がいる。それは事実だ」

「はい」

「しかし、彼の言葉に影響を受けすぎている子がいるのも事実だ」

「はい」

「ならば、会わねばならん」

理事長の頭の上で、猫が小さく鳴いた。

「確認ッ! 彼が本当に、ウマ娘たちを見ている者なのかどうかを」

たづなは頷いた。

スピカの配信を、彼女も見ていた。

仕事として。

学園への影響を確認するために。

そのつもりだった。

けれど、あの配信の最後、メイクデビューが流れた時。

たづなは少しだけ、息を忘れた。

まだ何者でもない子が、それでも夢へ走り出すための歌。

それは、生徒たちのための歌だった。

そして同時に、かつて走っていたかもしれない誰かの胸にも、ほんの少し触れるような歌だった。

たづなは、その感覚をすぐに胸の奥へしまった。

今は秘書として動く時だ。

感情より、実務。

安全。

確認。

調整。

「それと、面談についてですが」

たづなは資料を一枚めくった。

「生徒たちには伏せた方がよろしいかと」

「秘匿ッ! 理由は?」

「まず、まだ何も決まっていません。交渉が不成立となる可能性もあります」

「うむ」

「もし事前に知られれば、生徒たちに過度な期待を持たせてしまいます。失敗した時の落胆も大きいでしょう」

「当然ッ!」

「また、スピカ様が学園を訪れると知られれば、校内が混乱する可能性があります」

やよい理事長は、ほんの少しだけ遠い目をした。

「……否定できんな」

初配信後の寮内報告は、すでにいくつも上がっている。

泣いた。

眠れた。

走りに行こうとした。

倒れかけた。

アーカイブを何度も見ている。

その本人が学園に来ると知れたら、どうなるか。

想像は難しくなかった。

「したがって、面談は人目につきにくい時間帯に。正門ではなく関係者用入口を使用し、私が直接お迎えいたします」

「警備は?」

「最低限、目立たない形で配置します。スピカ様が男性であることもありますが、それ以上に生徒たちの混乱を避けるためです」

「承知ッ! その方向で進めよう」

「はい」

たづなは返信文を作成し始めた。

トレセン学園として、正式にスピカを招く。

ただし、秘密裏に。

生徒たちへ期待を持たせすぎないように。

交渉がどう転ぶかわからない以上、軽々しく知らせるわけにはいかない。

それが、学園側の判断だった。

数日後。

僕はトレセン学園の関係者用入口の前に立っていた。

時間は、通常の登校やトレーニングの移動が少ない時間帯に指定されていた。

正門ではない。

案内された場所は、目立たない入口だった。

最初は少し不思議に思ったが、すぐに納得した。

男性が学園内を歩くだけでも目立つのだろう。

まして、初配信の後だ。

自分で言うのも変だけれど、余計な騒ぎにならないように配慮してくれたのだと思う。

トレセン学園の敷地は、外から見るだけでも広かった。

テレビや記事で何度も見た場所。

前世のアプリでも、何度も名前を見た場所。

けれど、目の前にあるそれは、画面の中の背景ではない。

現実の学園だった。

この中で、ウマ娘たちが走っている。

夢を追っている。

勝って、負けて、悩んで、それでもまたゲートに立とうとしている。

僕は小さく息を吸った。

手には、鞄。

中には、何冊かのノートを入れてきた。

全部ではない。

ウィニングライブについて書いた全冊を持ってくるわけにはいかなかった。

けれど、曲の一覧は入れてある。

レース後イベントの案。

相談配信の案。

ウィニングライブについての簡単な説明をまとめたノート。

必要になりそうなものだけを、鞄に詰めてきた。

何を話せばいいのか、何度も考えた。

僕はトレーナーではない。

ウマ娘たちを勝たせることはできない。

トレーニングの専門知識もない。

僕にできるのは、歌うことと、踊ることと、レース後に彼女たちが光の中へ立てる場所を考えることだけだ。

それを、どう伝えればいいのか。

緊張で、手が少し汗ばんでいた。

「スピカ様でしょうか」

声をかけられて顔を上げる。

そこに、緑の制服姿の女性が立っていた。

駿川たづなさん。

前世の記憶と重なる姿。

でも、目の前にいるのは現実の人だ。

僕は深く頭を下げた。

「はい。活動名、スピカです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

たづなさんが、ほんの少し目を瞬かせた。

それは本当にわずかな変化だったけれど、僕には少し意外そうに見えた。

すぐに彼女は、柔らかく微笑む。

「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。理事長がお待ちです。ご案内いたします」

「よろしくお願いします」

僕は関係者用入口をくぐった。

廊下は静かだった。

遠くから、走る音が聞こえる。

掛け声。

トレーニング用具の音。

けれど、生徒の姿はほとんど見えない。

たづなさんは、できるだけ人目につかない通路を選んでくれているようだった。

その配慮に、僕は内心で頭を下げる。

やがて、理事長室の前に着いた。

「こちらです」

扉がノックされる。

「理事長、スピカ様をお連れしました」

「入室ッ!」

中から、勢いのある声が返ってきた。

僕は背筋を伸ばす。

扉が開く。

理事長室。

その中央で、小柄な女性が扇子を手に立っていた。

頭の上には猫。

秋川やよい理事長。

前世で知っている名前。

けれど、やはりここにいるのは現実の人だった。

彼女は小柄だった。

でも、その声と立ち姿は、部屋の中で少しも小さく見えなかった。

「歓迎ッ! よく来てくれた、スピカ君!」

僕は深く頭を下げた。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます。秋川理事長」

扇子を構えていた理事長の手が、ほんの少し止まった。

たづなさんも、横でわずかに目を細めた。

僕は気づかなかった。

ただ、失礼がないように言葉を続ける。

「トレセン学園の皆さんと直接お話しできる機会をいただけて、とてもありがたいです」

「う、うむ。礼節ッ!」

理事長は大きく頷いた。

けれど、その声にはほんの少しだけ、いつもの勢いとは違うものが混じっていた。

警戒が解けた、というほどではない。

でも、予想していた反応と違った。

そんな空気だった。

たづなさんが席を勧める。

「どうぞ、おかけください」

「失礼します」

応接テーブルを挟んで、僕は席についた。

向かいには、やよい理事長とたづなさん。

いよいよだ。

僕は鞄の中のノートに、そっと手を触れた。

子どもの頃に始まった夢が、今、トレセン学園の理事長室まで来ている。

うまく話せるだろうか。

伝わるだろうか。

わからない。

でも、話さなければ始まらない。

たづなさんが資料を整え、静かに口を開いた。

「本日は、スピカ様の配信活動について、いくつかお話を伺えればと思っております」

やよい理事長が、力強く頷く。

「確認ッ! そして相談ッ!」

僕は姿勢を正した。

「はい。僕で答えられることなら、何でもお話しします」

その返事に、二人がほんの少しだけ沈黙した。

僕には、その沈黙の意味がわからなかった。

けれど、たづなさんはすぐに微笑みを戻す。

「ありがとうございます」

そして、初めての会合が始まった。