第24話 スピカきゅんASMR事件
菊花賞が近づいていた。
世間は、ミホノブルボンの三冠で持ちきりだった。
ライスシャワーの名前も、少しずつ聞かれるようになっている。特番でスピカが触れた影響もあったのだろう。
出走予定のウマ娘たちも、どこか空気が変わっていた。
レースの熱が、日を追うごとに高まっていく。
けれど、トレセン学園の日常がすべて重く沈んでいたわけではない。
重い空気の中にも、日常はある。
朝練があり、授業があり、食堂の行列があり、寮の消灯時間があり、廊下で誰かが叱られる。
そして時々、どうしようもなく馬鹿なことを思いつく者もいる。
昼下がりの寮室に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
授業は午前で終わり、午後のトレーニングまでは少し時間がある。
本来なら、昼寝をするか、軽くストレッチをするか、次のトレーニングメニューを確認する時間だった。
けれど、そのウマ娘は机に向かっていた。
画面には、音声編集ソフトが開かれている。
いくつもの波形。
切り取られた短い音声。
左右に振り分けられたトラック。
細かく調整された音量。
そして、メモ欄にはいくつかの文字が並んでいた。
初級。
中級。
上級。
超上級。
耐性。
メンタルトレーニング。
彼女は真剣だった。
ふざけているつもりはなかった。
最近、彼女は思っていた。
自分には精神力が足りない。
併走で相手が前に出ると、焦る。
最後の直線で差が詰まらないと、心が折れそうになる。
レース前に観客席の声が聞こえると、耳がそちらへ向いてしまう。
もっと強くならなければならない。
もっと、揺れない心が必要だ。
鋼の精神。
そのための訓練が必要だった。
呼吸法は試した。
瞑想も試した。
自己暗示も試した。
けれど、まだ足りない。
もっと強い刺激に耐えられるようになれば、本番でも揺れなくなるのではないか。
そう考えた結果、彼女は一つの結論に至った。
スピカの言葉を聞いても動揺しない精神を作れば、どんな状況でも耐えられるのではないか。
理屈は、間違っていないように見えた。
少なくとも本人にはそう見えた。
実際には、出発点から間違っていた。
しかし、彼女は真剣だった。
画面の中で、最後の音声ファイルが書き出される。
進捗バーが右端まで進む。
完了。
彼女は、深く息を吐いた。
「……ついにできた」
その声には、達成感があった。
勝負服を初めて受け取った時のような。
新しいシューズを履いた時のような。
大きなレースへ向かう前日のような。
そんな、真剣な達成感だった。
彼女はファイル名を確認する。
spica_mental_training_ASMR_level2_test.wav
満足げに頷く。
中級確認テスト。
いきなり上を試してはいけない。
まずは初級を確認し、次に中級。
そこで耐性がつけば、上級へ進む。
最終的には超上級にも耐えられる鋼の精神を作る。
そうすれば、レース前にどんな歓声があっても揺れない。
スピカの配信を見ても動揺しない。
最後の直線でも心が折れない。
完璧な計画だった。
本人の中では。
彼女は机の横に置いていたヘッドホンへ手を伸ばした。
「まずは、中級確認」
そして、再生ボタンを押した。
夕方。
同室のウマ娘が部屋へ戻ると、ベッドの上で友人が倒れていた。
「え」
倒れている。
いや、寝ている?
違う。
ヘッドホンをつけたまま、仰向けになっている。
表情は、妙に幸せそうだった。
口元が緩んでいる。
耳は力なく倒れている。
尻尾もぺたりとベッドの端に垂れている。
なのに、両手だけはしっかりとヘッドホンの左右を押さえていた。
「ちょっと、大丈夫!?」
同室の子は鞄を放り出して駆け寄った。
肩を揺らす。
「ねえ! 起きて!」
すると、友人はうっすら目を開けた。
焦点が合っていない。
目は潤んでいる。
けれど、表情はとても穏やかだった。
「……スピカ、さん……」
「は?」
次の瞬間、ヘッドホンから小さく声が漏れた。
『今日も、本当にお疲れさまでした』
友人の表情が、ふわりと緩む。
「……はい」
耐えた。
少なくとも、そこでは耐えた。
同室の子は、ほんの一瞬だけそう思った。
だが、次の音声が流れた。
右耳側から、少しだけ音量を落としたスピカの声が囁くように入る。
『……好きです』
友人の耳が、ぴんと立った。
「え」
同室の子も固まった。
続けて、左耳側から別の切り抜きが重なる。
『……走る姿が、好きです』
友人の目が潤んだ。
『……前を向く姿が、好きです』
「待って待って待って」
『……本当に、好きです』
友人は、幸せそうに気絶した。
「編集が悪質!」
同室の子は叫んだ。
元の言葉は、きっと健全だったはずだ。
スピカがいつもの配信で、ウマ娘の走りについて真面目に語っていた部分だろう。
僕は、ウマ娘の走りが好きです。
最後の直線で、苦しそうなのに前を向く姿が好きです。
そういう文脈だったはずだ。
だが、今ヘッドホンから漏れている音声は違った。
切り抜かれている。
囁くように配置されている。
左右から来る。
間がある。
余韻がある。
破壊力だけが抽出されている。
「何を作ったの、これ……」
同室の子は、恐る恐る画面を見た。
音声編集ソフトが開いたままになっている。
ファイル名は、
spica_mental_training_ASMR_level2_test.wav
だった。
「レベル、ツー……?」
嫌な予感がした。
画面の横には、メモが残っている。
スピカさんの言葉を聞いても動揺しない鋼の精神を作る。
段階的に刺激を上げ、耐性をつける。
その下に、分類表があった。
初級:労い系
お疲れさまでした。
無理はしないでください。
寝てから走ってください。
中級:好き系
好きです。
走る姿が好きです。
前を向く姿が好きです。
上級:個別認識系
あなたの走りを見ていたい。
本当にすごいと思います。
ちゃんと届いています。
超上級:複合囁き・左右同時再生・低音調整版
※本番前使用禁止。
「本番って何!?」
同室の子は叫んだ。
ベッドの上では、友人が幸せそうに気絶している。
しかも、今再生されていたのは中級確認テストだった。
中級。
まだ上に、上級と超上級がある。
「中級で死んでるのに!?」
その声に反応したのか、友人がうっすら目を開けた。
「……上級、まだ……」
「やらない!」
「耐性……」
「ついてない! むしろ溶けてる!」
ヘッドホンから、再び声が漏れた。
『……好きです』
「ぁ……」
友人が落ちた。
「だから中級で死んでる!」
同室の子は、反射的にヘッドホンへ手を伸ばした。
外さなければならない。
本能がそう告げていた。
これは危険なものだ。
少なくとも、今この友人に聞かせ続けてはいけない。
「外すよ!」
ヘッドホンを掴む。
しかし、倒れているはずの友人の手が、ぎゅっとヘッドホンを押さえた。
「え、力強っ」
気絶しているはずなのに、抵抗がある。
しかも強い。
現役のウマ娘の握力である。
「離して! それ危ないやつ!」
「……まだ、聞く……」
「本能で守るな!」
ヘッドホンから、再び声が漏れる。
『……前を向く姿が、好きです』
「ひゃ……」
友人の尻尾が、ぱたりと落ちた。
完全に気絶している。
なのに、ヘッドホンだけは離さない。
「怖い怖い怖い!」
同室の子は、両手でヘッドホンを掴んだ。
友人は気絶している。
だから本来なら、簡単に外せるはずだった。
しかし、なぜか手だけが動く。
ヘッドホンを押さえる。
守る。
離さない。
まるで、走る本能とは別の何かが発動しているようだった。
ウマ娘の本能は走ること。
しかし今、この子の本能は、スピカの声を守る方向へ全力で働いていた。
「そんな本能、聞いたことない!」
『無理はしないでください』
「無理してるのはこっち!」
『寝てから走ってください』
「そこだけ冷静!」
数分の格闘の末、ようやくヘッドホンが外れた。
部屋に静寂が戻る。
友人は、すやすやと眠っていた。
表情は穏やかだった。
とても幸せそうだった。
ただし、危険物から切り離された後の安らぎである。
同室の子は、息を切らしながらヘッドホンを机の上へ置いた。
「……何を作ってるの、本当に」
画面に残った音声編集ソフトを見る。
波形がいくつも並んでいる。
右耳用。
左耳用。
囁き。
低音。
少し間を開けた「好きです」。
左右交互の「好きです」。
最後に小さく重なる「本当に、好きです」。
そして、フォルダの中には、まだ再生されていないファイルがあった。
spica_mental_training_ASMR_level3_test.wav
spica_mental_training_ASMR_level4_final.wav
spica_mental_training_ASMR_extra_superhard.wav
「増えてる……」
同室の子の声が震えた。
中級でこれだ。
上級。
超上級。
そして、extra_superhard。
開いてはいけない。
本能がそう告げていた。
彼女は全ファイル名の先頭に、迷わず文字を追加した。
封印_spica_mental_training_ASMR_level2_test.wav
封印_spica_mental_training_ASMR_level3_test.wav
封印_spica_mental_training_ASMR_level4_final.wav
封印_spica_mental_training_ASMR_extra_superhard.wav
それでも不安だったので、フォルダ名を変えた。
開くな_封印済み_スピカASMR
さらに、それでも不安だったので、寮長へ報告した。
その後、しばらくして目を覚ました友人は、ぼんやりした顔でこう言った。
「……もう一回だけ聞けば、耐性がつくかも」
「つかない!」
「でも、次は中級まで耐えられるかも」
「中級で死んだの!」
「なら、初級から」
「封印!」
「上級は……?」
「存在を忘れて!」
「超上級……」
「その単語を口に出さない!」
同室の子はヘッドホンを抱えて後ずさった。
友人は少しだけ手を伸ばした。
だが、体力を使い果たしたのか、すぐに枕へ沈む。
「……スピカさんの声、すごかった」
「知ってる。だから封印したの」
「メンタルトレーニング……」
「危険物訓練になってる」
「でも、幸せだった」
「そこが一番怖い」
友人は、少しだけ笑って、また眠った。
今度はヘッドホンなしで。
同室の子は、机の上のファイル群を見た。
封印。
その二文字が、これほど頼もしく見えたことはなかった。
そして彼女は思った。
明日、絶対に掲示板で報告しよう。
これは一人で抱えるには重すぎる。