第26話 理事長室の禁忌音源

事件報告は、昼過ぎに理事長室へ届いた。

件名は、こうである。

寮内における非公式音声編集ファイルの作成および使用による一時的意識喪失事案について

秋川やよい理事長は、その報告書を見て、まず眉を上げた。

「一時的意識喪失……?」

ただ事ではない。

トレセン学園の生徒が関わる事案である以上、理事長として即座に内容を確認する必要がある。

理事長は背筋を伸ばし、扇子を机の上に置いた。

頭の上の猫が、報告書の紙端を前足でつつく。

「待て。これは重要書類だ」

猫は、にゃ、と鳴いた。

理事長は報告書を読み進める。

寮生の一名が、スピカの配信アーカイブから音声を切り抜き、メンタルトレーニング用ASMR音源を作成。

同日夕方、同室の生徒が、該当生徒をヘッドホン装着状態で発見。

音声再生中、該当生徒は覚醒と意識喪失を繰り返していた。

ヘッドホン取り外し時、無意識下で抵抗あり。

ファイル群は寮長により確保。

暫定的に封印

理事長は、ゆっくりと報告書を下ろした。

「……スピカ君の、ASMR?」

言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

ASMR。

囁きや環境音を用いて、聞く者を落ち着かせる音声。

それ自体は、世間にも存在する。

メンタルトレーニングや睡眠導入に使う者もいる。

しかし、スピカの声。

それも、切り抜き。

報告書の別紙には、ファイル一覧が添付されていた。

封印_spica_mental_training_ASMR_level2_test.wav

封印_spica_mental_training_ASMR_level3_test.wav

封印_spica_mental_training_ASMR_level4_final.wav

封印_spica_mental_training_ASMR_extra_superhard_loop.wav

理事長の目が止まった。

「……extra superhard」

なぜ英語なのか。

なぜそこだけ急に難易度表記が激しくなるのか。

そして、なぜループなのか。

報告書にはさらに、作成者のメモが添付されていた。

初級:労い系

お疲れさまでした。

無理はしないでください。

寝てから走ってください。

中級:好き系

好きです。

走る姿が好きです。

前を向く姿が好きです。

上級:個別認識系

あなたの走りを見ていたい。

本当にすごいと思います。

ちゃんと届いています。

超上級:複合囁き・左右同時再生・低音調整・マイクテスト音混入版

※本番前使用禁止。

※ループ再生注意。

※耐性確認後に使用。

理事長は、深く息を吸った。

「本番とは何だ」

猫が、にゃ、と鳴く。

理事長は真剣だった。

これは、学園内で発生した危険音源事案である。

内容を把握しなければならない。

再発防止のため、何が危険なのか確認する必要がある。

生徒たちを守るためだ。

決して、好奇心ではない。

決して、スピカ君の声を聞いてみたいなどという理由ではない。

危険物であるなら、学園責任者として確認せねばならん」

理事長は、厳かに呟いた。

理事長室には、今、たづなはいない。

別件の会議で席を外している。

通常なら、こうした事案はたづなと一緒に確認する。

しかし、緊急性がある。

報告は来たばかり。

たづなが戻るまで待つという選択肢もある。

あるにはある。

しかし。

「未確認の危険物を放置するわけにはいかん」

理事長は立ち上がった。

そして、寮長から回収され、厳重な注意書きとともに添付された音声ファイルを、学園内の隔離端末で開いた。

もちろん、ネットワークからは切り離している。

音量も小さめ。

ヘッドホンも、理事長室備え付けの業務用。

準備は万全である。

画面には、ファイル名が表示されている。

封印_spica_mental_training_ASMR_extra_superhard_loop.wav

理事長は、一度だけ唾を飲み込んだ。

「業務上の確認ッ」

自分に言い聞かせるように言う。

猫が机の上から、疑わしそうに見ていた。

理事長は再生ボタンを押した。

最初に流れたのは、静かな環境音だった。

夜の芝を思わせる風の音。

遠くに残る観客席のざわめき。

ほんのわずかな衣擦れ。

そして、短い無音。

次の瞬間、ヘッドホンの奥で、低く真剣な声がした。

『……あの曲は』

理事長の背筋が、びしりと伸びた。

菊花賞特番で聞いた、あの時の声。

怒声ではない。

荒げた声でもない。

だが、普段の柔らかい声とは明らかに違う。

静かで、低くて、譲らない声。

『……ウマ娘たちへ』

理事長の意識が、冴える。

「む……!」

覚醒した。

これは危険だ。

甘さではない。

囁きでもない。

しかし、奥にある熱が強すぎる。

理事長は、かろうじて椅子に座っていた。

「な、なるほど……低音部による覚醒効果……」

業務上の分析だった。

まだ耐えている。

音声はそこで一度途切れた。

そして、別の配信から切り出されたらしい、柔らかい声が重なる。

『……好きです』

「む」

理事長の指が震えた。

低い声で覚醒した意識に、急に甘く柔らかい声が落ちてくる。

危険だった。

落差が危険だった。

さらに、低く真剣な声が続く。

『……捧げます』

理事長の扇子が、机から落ちた。

からん、と乾いた音がした。

元の文脈を知っていれば、それが健全な言葉の切り貼りだとわかる。

あの曲は、ウマ娘たちへ捧げるために歌った曲。

僕は、ウマ娘の走りが好きです。

前を向く姿が好きです。

そのはずだった。

だが、ヘッドホンの中では違った。

低く真剣な声と、柔らかく甘い声がつなぎ合わされ、まるで聞いている一人へ向けて囁かれているように聞こえる。

『……あなたに』

声が近くなる。

『……好きを』

左右から、少しずれて重なる。

『……捧げます』

「……これは、編集が悪質すぎる」

理事長は、そこまで言った。

次に、マイクテストらしき音声が入った。

『……聞こえていますか』

近い。

妙に近い。

たぶん、マイクの距離を確認していた時の音声だ。

その後、ほんの小さな息が入る。

ふ、と。

マイクに息を吹きかけるような音。

ただのテスト音。

意味のある言葉ですらない。

だが、ヘッドホンの中では、それが耳元に直接触れたように聞こえた。

理事長は、静かに机へ沈んだ。

猫が、にゃ、と鳴いた。

数十秒後。

理事長は、うっすらと目を開けた。

「……危険性は、理解した」

声はかすれていた。

ヘッドホンは、まだついている。

ファイルは、ループ設定だった。

環境音が戻る。

夜の芝。

遠くの観客席。

短い無音。

『……あの曲は』

「むっ」

低い声で、意識が戻される。

『……ウマ娘たちへ』

「覚醒作用が……強い……!」

理事長は立て直そうとした。

その瞬間、甘い声が差し込まれる。

『……好きです』

「うむ……」

低音で覚醒させられた直後に、甘い声で防御を崩される。

そして、魔改造された言葉が来る。

『……あなたに』

『……好きを』

『……捧げます』

理事長の目が潤んだ。

「これは……文脈が……」

理解している。

元の文脈は違う。

これは、切り抜きと合成による編集だ。

スピカ本人は何も悪くない。

むしろ、このような編集を知れば困るだろう。

わかっている。

わかっているのだが。

最後に、ふ、と息が吹きかかる音。

理事長は再び沈んだ。

それは、最終兵器だった。

低い声で意識を覚醒させる。

甘い声でぎりぎりまで耐久を削る。

魔改造された言葉で判断力を崩す。

そして、息吹きかけ音で落とす。

しかも、ループ再生。

目覚めても逃げられない。

意識が戻った瞬間には、次の低い声が来る。

危険性を理解した瞬間には、甘い声が来る。

逃げようとした瞬間には、息音が来る。

理事長室は静かだった。

書類は整っている。

扇子は床に落ちている。

猫は机の上で、諦めたように毛づくろいを始めた。


夕方。

駿川たづなが理事長室へ戻ると、まず扇子が床に落ちていることに気づいた。

次に、机に突っ伏している理事長を見た。

ヘッドホンをつけている。

表情は、妙に幸せそうだった。

たづなは、すべてを理解した。

机の上には、報告書。

画面には、音声ファイル。

封印_spica_mental_training_ASMR_extra_superhard_loop.wav

たづなは、静かに目を閉じた。

そして、開いた。

「理事長」

理事長が、うっすら目を開ける。

「……た、たづな」

「何をされていますか」

「業務上の、確認を……」

ヘッドホンから、かすかに低い声が漏れた。

『……あの曲は』

理事長の背筋が反射的に伸びる。

『……ウマ娘たちへ』

「む……」

続けて、甘い声。

『……好きです』

「うむ……」

魔改造された声が重なる。

『……あなたに』

『……好きを』

『……捧げます』

「業務、上……」

最後に、ふ、と息音。

理事長は再び机へ沈んだ。

たづなは、無言でヘッドホンへ手を伸ばした。

外す。

それだけの動作だった。

しかし。

「……待て……」

机に突っ伏していた理事長の手が、ぴくりと動いた。

意識はほとんど戻っていない。

目も半分閉じている。

それなのに、両手だけがヘッドホンを押さえた。

「まだ、業務上の……確認を……」

たづなは、少しだけ眉を下げた。

「理事長」

危険性の、把握を……」

ヘッドホンから、かすかに音が漏れる。

『……あなたに』

『……好きを』

『……捧げます』

理事長の手に、わずかに力が入った。

無意識の抵抗だった。

理性ではなく、本能だった。

スピカの声を、まだ聞こうとしている。

たづなは、それ以上何も言わなかった。

理事長の手首にそっと指を添え、力の向きを外す。

同時に、もう片方の手でヘッドホンを持ち上げる。

無理に引き剥がすのではなく、抵抗が抜ける角度を作って、すっと外した。

普段から、暴走しかけた理事長を止めることに慣れている秘書の動きだった。

ヘッドホンが外れる。

音が止まる。

理事長の体から、ふっと力が抜けた。

「……たづな」

「はい」

「……業務上の確認は」

「終了です」

たづなはヘッドホンを机の反対側へ置いた。

「それと、理事長」

「うむ……」

「意識がはっきりしない状態で、危険物を守ろうとしないでください」

「……反省ッ」

猫が、机の上で小さく鳴いた。

たづなは、画面のファイル名を見た。

extra_superhard。

loop。

報告書にあった、誰も聴いたことのない禁忌音源。

それを、理事長が一人で聞いた。

しかもループ再生で。

「理事長」

「はい」

「中級で生徒が気絶ループを起こしたと報告にありました」

「はい」

「なぜ、extra_superhardを再生したのですか」

「……危険性の上限を知るため」

「上限を理事長が身をもって確認する必要はありません」

「……反省ッ」

たづなは、こめかみを押さえた。

胃のあたりが、じわりと痛い。

フラワーカップ。

理事長発案ミニイベント。

そして今度は禁忌音源。

スピカ本人は何も悪くない。

悪くないのだが、スピカ関連事案はなぜこうも胃に来るのか。

「このファイルは削除します」

たづなは端末へ向かった。

理屈としては、それが正しい。

非公式に切り抜かれ、文脈を変えられ、危険な形に編集された音源。

生徒に影響を与えた以上、残しておくべきではない。

削除ボタンに、指を置く。

けれど、そこで一瞬だけ止まった。

これは、データだ。

ただの音声ファイルだ。

本人の意図を離れて、悪質に編集されたものだ。

それでも。

そこに入っているのは、スピカの声だった。

ウマ娘たちへ向けてくれた言葉の欠片だった。

たとえ危険物でも。

たとえ歪められたものでも。

それを、自分の手で消す。

そのことに、たづなはほんの一瞬、抵抗を覚えてしまった。

「待て、たづな!」

その隙を逃さず、理事長が声を上げた。

危険物であればこそ、再発防止のため資料として保管を――」

「理事長」

「同様の切り抜き被害が発生した場合、サンプルがなければ分析ができん!」

「……」

理屈は通っている。

通ってしまっている。

ただし、理事長の目が少しだけ輝いていた。

それは、再発防止に燃える教育者の目だけではなかった。

明らかに、もう一度確認したい者の目でもあった。

「理事長」

「業務上だ」

「まだ何も言っていません」

「業務上だ」

たづなは、深く息を吐いた。

そして、削除ボタンから指を離した。

「……再生は厳禁です」

理事長の顔が、少し明るくなる。

「保管ッ!」

「再生は厳禁です」

「承知ッ!」

「理事長も再生禁止です」

「……承知」

「本当に?」

「承知」

たづなは信用しきれない目で理事長を見た。

その後、ファイル名は変更された。

絶対再生禁止_業務資料_スピカASMR_extra_superhard_loop.wav

フォルダ名も変更された。

禁忌音源_再生禁止_金庫保管

端末からは削除。

暗号化した記録媒体に移し、理事長室の金庫へ。

鍵は、たづな管理。

さらに、金庫の扉に紙が貼られた。

業務上の理由がない限り開封禁止。理事長単独確認禁止。

理事長は、その紙を見て少しだけ不満そうにした。

「たづな」

「はい」

「その鍵は、どこに保管するのだ?」

「理事長」

「確認しただけだ」

「理事長」

「……反省ッ」

猫が、にゃ、と鳴いた。


その夜。

トレセン学園の職員用連絡板には、短い業務連絡が流れた。

【業務連絡】非公式ASMR音源に関する注意喚起

レス 1〜50
001:駿川たづな

本日確認された非公式ASMR音源について、当面の間、作成・共有を停止してください。

スピカ様の配信音声を無断で切り抜き、文脈を変えて編集する行為は、本人の意図を損なう可能性があります。

また、生徒の心身に強い影響を与える恐れがあります。

該当ファイルは学園管理下で厳重に封印しました。

再生・複製・共有は禁止です。今後の扱いは、今回の事案整理後に別途確認します。

002:職員A

了解しました。

003:職員B

了解です。

004:職員C

該当ファイルの危険度は?

005:駿川たづな

極めて高いです。

006:職員D

確認したのですか?

007:駿川たづな

確認済みです。

008:職員E

誰が?

009:駿川たづな

回答の必要はありません。

010:職員F

了解しました。

011:職員G

理事長は無事ですか?

012:駿川たづな

業務に支障はありません。

013:職員H

無事とは言っていない。

014:職員A

黙って。

015:職員B

封印場所は?

016:駿川たづな

非公開です。

017:職員C

再生禁止、了解しました。

018:職員D

アップロード希望などの声が出た場合は?

019:駿川たづな

即時制止してください。

020:職員E

理事長が確認したいと言った場合は?

021:駿川たづな

私に通してください。

022:職員F

了解しました。

023:職員G

スピカ様本人には?

024:駿川たづな

現時点では不要です。

ご本人に余計な心労をかけるべきではありません。

025:職員H

了解しました。


こうして、スピカASMR extra_superhardは理事長室の金庫に封印された。

学園史に残る危険音源として。

再発防止資料として。

そして、理事長が二度と一人で「業務上の確認」をしないようにするための戒めとして。

なお、翌日。

やよい理事長は、たづなに聞いた。

「たづな」

「はい」

「金庫の鍵は」

「理事長」

「……確認しただけだ」

反省はしていた。

好奇心は、まだ生きていた。