最強メンタル&フィジカル計画V2
── 疲労回復クッション編 ──
トレセン学園のトレーニングは、基本的に安全である。
もちろん、ウマ娘の身体能力を前提にしている以上、一般的な運動とは比べものにならないほどの負荷はかかる。だが、そこには必ずトレーナーの指示があり、メニュー管理があり、休息の時間があり、けがを防ぐための配慮がある。
鍛える。休む。食べる。眠る。
その繰り返しこそが、強くなるための王道である。
だから、今日の彼女も普通にトレーニングをしていた。
あの、数々の危険物を生み出してきた最強メンタル計画ちゃんであっても、フィジカルを鍛えるとなれば、いきなり謎の装置を作ったりはしない。トレーナーに相談し、メニューを組んでもらい、ランニング、筋力トレーニング、体幹トレーニング、フォーム確認、クールダウンまできちんと行った。
常識は守られていた。
少なくとも、その時点では。
「うぅ……身体が……身体がばらばらになりそう……」
トレーニング終了後。彼女は学生用スパ施設の一角にあるマッサージルームで、マッサージチェアに沈み込んでいた。
背中。肩。腰。脚。全身が重い。ただ痛いというより、身体の奥に疲労がみっちり詰まっている感じだった。
だが、マッサージチェアが動き始めると、その硬さが少しずつほぐれていく。
「はぁぁぁ……」
思わず声が漏れた。気持ちいい。とても気持ちいい。
「あぁ……文明……」
彼女はぐったりしながら、そんなことを呟いた。
フィジカルを強くするためには、鍛えるだけでは駄目なのだ。回復もまた、立派なトレーニングである。
彼女は目を閉じながら考えた。
もっと疲労回復にいいものはないだろうか。
すでに危険な思想だった。
「栄養ドリンク……」
一瞬、頭に浮かぶ。だが、すぐに首を横に振った。トレーナーさんに怒られる。
「睡眠……」
これは大事。しっかり寝る。あたりまえ。常識。
彼女は真面目な顔で頷いた。
なお、過去に自分が作った音声ファイルやVRソフトや危険物の数々で、何人もの睡眠を別方向に破壊しかけたことについては、今は棚の奥にしまわれている。
身体をほぐす。疲れを取る。心も落ち着ける。
身体と心の両方から回復できれば、もっと効果が上がるのではないか。
身体はマッサージチェアが担当してくれる。では、心は?
心を癒やすもの。安心するもの。元気が出るもの。
彼女の脳内に、一人の男性の声が再生された。
『今日もお疲れ様です』
「…………」
彼女の目が開いた。
「これだ」
危険物の産声だった。
身体はマッサージチェアでほぐす。心はスピカさんの声で癒やす。つまり、身体と心を同時に回復させる。
しかも、使うのは公式動画である。勝手な切り抜き編集ではない。魔改造音声でもない。囁き合成でもない。
公式動画をラジオのように流すだけ。
安全。健全。完璧。
「……やってみよう」
彼女はマッサージチェアから飛び起きた。
自室に戻った彼女は、机に向かう。ノートを開き、丁寧な文字で追記する。
『V2 疲労回復サポートクッション』
目的:トレーニング後の疲労回復効率向上。
手段:マッサージ中に、公式動画の音声を流して心身のリラックスを促す。
使用機材:薄型スピーカー内蔵クッション。
重要事項:スピカさんの画像は使用しない。
彼女はここを二重線で強調した。
以前、スピカさんクッションの案を出したことがある。だが、その時は同室の子に赤ペンで止められた。スピカさんの姿を印刷したクッションは危険。抱きしめる用途になる危険。枕元に置く危険。朝起きて見る危険。総合的に危険。
だから、今回は違う。これはただのクッションである。中に薄いスピーカーが入っているだけ。スピカさんの絵も写真もない。見た目は普通。つまり安全。
「安全ヨシ」
彼女は満足げに頷いた。
以前の計画で培った音響知識。VRライブ制作で得た小型機材の扱い。危険物を封印されるたびに増えていった、なぜか実用的な加工技術。それらが無駄に活かされた。
クッションの中に薄型スピーカーを仕込む。音漏れしすぎないように調整する。首元に置いた時、耳に直接届きすぎないよう角度をつける。スマホからBluetoothで接続できるようにする。音量は控えめ。
完成したクッションは、見た目だけなら本当に普通だった。淡い色のシンプルな首元用クッション。触り心地もいい。危険物特有の禍々しさはない。
過去を知らない者が見れば、ただの便利グッズだと思うだろう。
過去を知っている者なら、まずノートを取り上げる。
彼女はクッションを抱えて、再びマッサージルームへ向かった。先ほど使っていたチェアに座る。クッションを首元に設置する。スマホを操作して、公式配信のアーカイブを開く。
流すのは、スピカが日常的な雑談をしていた回。レースの話。トレーニングの話。ウマ娘の走る姿が好きだという話。そして時折、視聴者を気遣うような言葉が入る。
「安全ヨシ」
もう一度言った。
マッサージチェアのスイッチを入れる。低い駆動音。背中に圧がかかる。肩が揉まれる。足がじんわり温められる。
その背後から、音楽が流れた。
公式動画のBGM。そして、スピカの声。
『皆さん、今日も見に来てくれてありがとうございます』
「おお……」
効いた。これは効く。
身体はマッサージチェアでほぐされる。耳にはスピカの声。心が落ち着く。脳が喜ぶ。疲労がすーっと抜けていくような気がする。
「これは……成功なのでは……?」
彼女は目を閉じた。背中がほぐされる。足がほぐされる。肩がほぐされる。声が聞こえる。
『無理はしすぎないでくださいね』
「はい……」
返事をした。誰も聞いていない。
『頑張ることは素敵ですけど、休むことも大事ですから』
「はい……」
肩がリズムよく叩かれる。とん、とん、とん。
そのタイミングで、スピカの声が重なる。
『今日もお疲れ様です』
とん。
『今日も』
とん。
『お疲れ様です』
とん。
「…………」
彼女の意識が一瞬でほどけた。
肩たたき。今日もお疲れ様。スピカさんの声。身体がほぐれる。心がほぐれる。脳が溶ける。
「ふぁ……」
幸せそうな吐息をひとつ残して、彼女は気絶した。
マッサージチェアはその後もしばらく動いていた。公式動画も流れていた。クッションは淡々と音を届けていた。
見た目だけなら、ただ疲れた学生がマッサージチェアで寝落ちしているだけである。
問題は、表情があまりにも幸せそうだったことだった。
── 救出 ──
夕方。
「つ、疲れた……」
同室の子が、へろへろになりながらスパ施設へやって来た。脚が重い。肩も凝っている。
「今日はマッサージして帰ろ……」
マッサージルームの扉を開ける。中は静かだった。
その一台に、見慣れた姿があった。
「あ」
あの子だ。たぶん疲れて、そのままマッサージチェアで休んでいるのだろう。珍しく普通だ。普通に疲れて、普通にマッサージチェアで休んでいる。
「今日は平和だなぁ」
そう呟いて、隣のチェアに座ろうとした。その時、ふと横を見る。
最強メンタル計画ちゃんは、幸せそうな顔で気絶していた。
「…………」
首元には、見慣れないクッション。そこから、小さく音楽が流れている。
そして聞こえた。
『頑張った後は、ちゃんと休んでくださいね』
スピカの声だった。
「…………」
同室の子は、すべてを察した。
まただ。また何か作った。しかし今回は、規模が小さい。機械も大きくない。暴走していない。匂いもない。VRもない。壁紙でもない。天井でもない。
クッションである。クッションから音が流れているだけ。被害者は本人だけ。周囲への被害なし。救出難度、低め。
「……よかった。今回はまだマシ」
同室の子は、心からそう思った。
基準は完全に壊れていた。
彼女はまずスマホを止めた。次にクッションをそっと外す。
最強メンタル計画ちゃんは、今回は抵抗しなかった。無意識にしがみつくこともない。ヘッドホンを守ろうとすることもない。ただ、ふにゃっと幸せそうに眠っているだけだった。
「ほんと、今回は救出が楽……」
そのまま肩を軽く揺する。
「起きてー」
「ん……」
「起きて。マッサージルームで寝落ちしてるよ」
「ふぁ……?」
最強メンタル計画ちゃんが、ゆっくり目を開けた。しばらくぼんやりしている。
「あれ……私……」
「気絶してた」
「また!?」
「うん。また」
「でも今回はすごかったよ」
「何が?」
最強メンタル計画ちゃんは、自分の肩を回した。首を動かす。背中を伸ばす。
そして、ぱっと顔を輝かせた。
「ものすごく身体がやわらかくなった気がする!」
同室の子は、数秒黙った。それから、深く息を吐いた。
「いや、それは溶けてるだけだよ」
「溶けてる?」
「身体じゃなくて、たぶん脳が」
「でも疲れは取れた気がする!」
「幸せに気絶してる間にマッサージされてたからね」
「つまり成功?」
「成功じゃない」
「でも失敗でもない気が」
「失敗寄り」
「寄り?」
「かなり寄り」
最強メンタル計画ちゃんは、しょんぼりした。しかし、すぐにノートを取り出そうとする。
同室の子は無言でその手を掴んだ。
「今、改善案を書こうとしたでしょ」
「音量をもう少し下げれば」
「駄目」
「肩たたきと声が重ならないようにすれば」
「駄目」
「公式動画じゃなくて環境音だけに」
「それなら普通のリラクゼーショングッズでいいでしょ」
「スピカさん要素が……」
「そこが危険なんだよ!」
マッサージルームに、同室の子の声が響いた。
だが、怒鳴り声というより、もはや慣れたツッコミだった。
「でも……身体と心、両方から、回復できたら……と思って」
「考え方だけはね」
「だよね!」
「だからスピカさんを混ぜない」
「そこが一番大事なのに……」
「一番危険なの」
「うぅ……」
同室の子は額を押さえた。
今回も、発想自体は悪くない。トレーニング後の回復を大事にする。マッサージと音声リラックスを組み合わせる。公式動画を使う。無断で変な加工をしない。画像も使わない。
一歩ずつ、たしかに成長している。
だが、最後の最後でスピカを混ぜる。そして全部が危険になる。
「とりあえず、そのクッションは一回預かるね」
「えっ」
「預かるね」
「はい……」
最強メンタル計画ちゃんは、しょんぼりしながらクッションを差し出した。同室の子はそれを受け取り、念のため電源を切る。
それから、少しだけ柔らかい声で言った。
「疲労回復を考えたのは、いいと思うよ」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと身体を大事にしようとしてるのは、すごくいい」
「えへへ……」
「だから、次はまずトレーナーさんに相談しようね。あと、たづなさんにも。そして、スピカさんの声を使う前提で考えない」
「…………はい」
最後だけ返事が遅かった。
「今、別案考えたでしょ」
「考えてないよ」
「目が泳いでる」
「マッサージチェアにスピーカーを内蔵する案とか考えてないよ」
「考えてるじゃん!」
その日の夜。最強メンタル&フィジカル計画ノートのV2ページには、赤ペンで大きくこう書き込まれた。
マッサージ中のスピカさんボイスは禁止
その下に、少し小さく追記される。
特に肩たたきタイミングとの同期は絶対禁止
さらにその下。最強メンタル計画ちゃん本人の字で、控えめに書かれていた。
*同期しなければ可能性あり?*
即座に赤ペンで二重線が引かれた。
なし
V2は、こうして封印された。
ただし、本人の感想欄には最後までこう残っていた。
*疲労回復効果はかなり高かった気がする*
同室の子はそれを見て、深くため息をついた。
「だからそれ、身体じゃなくて脳が溶けてただけなんだってば……」
マッサージチェアは今日も平和に動いている。問題はいつも、そこに何を足すかである。
掲示板:【検証】マッサージチェアで気絶すると身体が柔らかくなる説【なお原因】
レス 1〜50
例の子、またやったらしい。
主語がないのに誰かわかるのやめろ。
マッサージチェア+スピカきゅん公式動画音声+内蔵スピーカークッション。
はい解散。
待って。今回は公式動画をそのまま流しただけらしい。
それが危険物になるんだよ。
スピカきゅんの声を「そのまま」扱うな。火薬を「そのまま」置いてるみたいなもんだぞ。
肩たたきタイミングで「今日もお疲れ様です」が重なったらしい。
あっ。
肩を叩かれながらスピカきゅんに労われるの?無理では?
むしろ気絶だけで済んだの偉い。
本人曰く「ものすごく身体がやわらかくなった気がする」らしい。
それ身体が柔らかくなったんじゃなくて脳が溶けたんじゃないの?
同室の子もそう言ったらしい。
赤ペン先生さすが。
でもさ、実際、力抜けてマッサージチェアに完全に任せるのって効果あるんじゃない?
いや、真面目な話。マッサージって変に力入ってると効きづらいじゃん。気絶までは論外として、完全脱力状態ならほぐれやすい可能性はある。
最強メンタル計画ちゃんの事故は、ときどき変な方向から真理を殴ってくる。
過程が全部おかしいのに、着地点だけ「いや、なくはないか……?」になる時がある。
完全にリラックスして身体の力を抜く。
筋肉の緊張が減る。
マッサージの圧が入りやすくなる。
結果として柔らかく感じる。
文章だけ見ると普通に健康コラム。
なお手段。
スピカきゅん労いボイスで意識を刈り取る。
急に健康コラムから兵器開発に戻すな。
「効果はある」
「だから困る」
「安全ではない」
この三段論法。
でもマッサージチェアって寝落ちする人もいるし、気絶と睡眠の境界ってどこ?
幸せそうな顔で落ちてたら睡眠。スピカきゅん要素で落ちてたら気絶。
判定が雑だけどだいたい合ってる。
今回は抵抗しなかったって聞いた。ヘッドホン守ったり、ゴーグル掴んだりしなかったらしい。
救出難易度低いな。
我々の救出難易度基準が壊れている。
今回の問題点は、公式動画の中に普通に破壊力のある労いが入ってることだと思う。
普通の配信者なら「今日もお疲れ様です」は普通の挨拶。スピカきゅんの場合は特効。
しかもトレーニング後だぞ。身体疲れてる。心も少し弱ってる。そこへ優しい声。
落ちるわ。
筋肉より先に理性がほぐれる。
名言やめろ。
最強メンタル計画ちゃん、発想の根っこはわりと真面目なんだよな。
「疲労回復大事」
「身体と心を両方休める」
「公式動画をそのまま使う」
「画像は使わない」
成長してる。
最後にスピカきゅんを混ぜる。
そこで全部終わる。
今回の成果は、
・マッサージ中は脱力するとよい
・心身のリラックスは疲労回復に重要
・スピカきゅんの労いボイスは危険
・肩たたき同期は絶対禁止
最後が一番重要。
肩たたき同期って単語がもう危険物っぽい。
「今日も」トン
「お疲れ」トン
「様です」トン
やめろ。
文字だけで危ない。
今回の赤ペン先生の対応は?
ノートに
「マッサージ中のスピカさんボイスは禁止」
「特に肩たたきタイミングとの同期は絶対禁止」
って書いたらしい。
赤ペン先生、禁止事項が具体的になってきたな。
その下に本人が「同期しなければ可能性あり?」って書いて、即座に「なし」って二重線引かれたらしい。
レス 51〜100
赤ペンの速度が命を救う。
でも本人、たぶん次は「同期しないランダム再生なら」とか考えるぞ。
ランダムの方が危険では?
予測不能なタイミングで「お疲れ様です」が来るの怖すぎる。
マッサージチェア「肩をほぐします」
スピカきゅん「無理しないでくださいね」
ウマ娘「ふぁ……」
終了。
今回の結論。
マッサージチェアに身体を預けるのは良い。
脱力は大事。
一流アスリートは力を抜くのも上手い。
でもスピカきゅんの声で脱力させるな。
あと肩たたき同期禁止。
最強メンタル&フィジカル計画、実は同室の子が一番強くなる計画なのでは?
本人:危険物制作で技術力アップ
同室の子:救出と赤ペンで判断力アップ
たづなさん:胃痛耐性アップ
理事長:好奇心で気絶
最後だけ成長してない。
スピカきゅん要素は、足りないくらいでちょうどいい。
いや足りない。
お前、最強メンタル計画ちゃんだろ。
違います。
返事が遅いんだよ。
外伝: 本章の後日談として、理事長がV2クッションを「重量確認として」試みて同じ目に遭い、たづなさんに正座説教される様子は gaiden10_理事長・重量確認ということになっている に収録されています。