幕間・合宿前、雨の日の親友と新しいノート
▼ 六月の雨
外は雨だった。
六月の雨は、しとしとというより、世界の輪郭を少しずつ溶かしていくみたいに降っていた。
窓ガラスには細い水の筋がいくつも流れていて、寮の部屋の中まで、少しだけ湿った匂いが入り込んでくる。
トレーニングは今日は軽め。
雨の日用のメニューを終えたあと、私と同室の親友は、部屋でそれぞれくつろいでいた。
私は机に向かっていた。
親友はベッドの端に座って、濡れた髪をタオルで拭いている。
「そういえばさ」
「ん?」
親友が何気ない声で話しかけてきた。
「来月から、合宿始まるね」
その言葉に、私は顔を上げた。
「合宿」
「うん。二ヶ月間」
そう。
トレセン学園では、二年生から夏の時期に長期合宿がある。
例年通りなら、場所は海沿いの施設。
普段の学園とは違う環境で、走り込み、坂路、砂浜、プール、筋力、栄養、休息。
心身を鍛えるための、大事な期間。
私は少しだけ目を輝かせた。
「海……!」
「うん、海」
「砂浜トレーニング……!」
「そこなんだ」
「波の音を聞きながら走るの、ちょっと楽しみ」
「それはわかる」
親友が少し笑った。
その笑顔を見て、私も自然と笑う。
去年までは、合宿という言葉を聞いても、ただ大変そうだなと思っていた。
でも今は少し違う。
レースで勝った。負けもした。たくさん考えた。たくさん作った。たくさん叱られた。たくさん封印された。
でも、少しずつ、前よりも強くなれている気がする。
だから合宿も、ちゃんと頑張りたい。
「……でも」
私はふと、窓の雨を見た。
「後輩ちゃんは一年生だから、参加できないんだよね」
「そうだね。一年生は通常メニュー」
「二ヶ月……」
「寂しい?」
「ちょっと」
正直に言うと、かなり寂しい。
あの子は素直で、まっすぐで、目をきらきらさせながら私の話を聞いてくれる。時々、私の考えを肯定しすぎるところがある。いや、時々じゃないかもしれない。
けれど。
私が作ったものに救われたと言ってくれた子。私のことを先輩と呼んで、憧れてくれる子。
しばらく会えないと思うと、胸の奥が少しだけきゅっとした。
「まあ、連絡は取れるでしょ」
親友が言った。
「それに、帰ってきたらまた会えるよ」
「うん」
「合宿中は私も一緒だし」
その言葉に、私はぱっと親友を見た。
「うん!」
そうだ。
後輩ちゃんにはしばらく会えない。それは寂しい。
でも、親友は一緒だ。
ずっと同じ部屋で、ずっと私を見てくれて、ずっと赤ペンを入れてくれて、ずっと止めてくれて、ずっと隣にいてくれた親友。
「一緒に頑張ろうね!」
私がそう言うと、親友は少し照れたように視線をそらした。
「うん。頑張ろうね」
雨の音が、少しだけやさしく聞こえた。
▼ 新品のノートと赤ペンの先回り
私は机の引き出しを開ける。
「だから」
「うん?」
私は新品の、まっさらなノートを取り出した。
表紙はまだ何も書かれていない。折り目もない。赤ペンの跡もない。失敗の記録も、改善案も、封印判定もない。
真っ白な未来のかたまり。
親友が固まった。
タオルを持つ手が止まる。
「……待って」
私はペンを持った。
「合宿に向けて、ちゃんと準備しないと」
「待って」
「二ヶ月間、海。普段と違う環境。後輩ちゃんもいない。つまり、自分自身と向き合う大事な期間」
「待ってって言ってる」
私はノートを開く。一ページ目。まっさらな白い紙。
そこへ、大きくタイトルを書いた。
最強合宿計画
親友の顔から、すっと色が引いた。
「始まった……」
私は首を傾げた。
「うん。始めるよ?」
「始めないでほしかったな……」
「でも、合宿だよ? 夏だよ? 海だよ? 心身を鍛える絶好の機会だよ?」
「言ってることは全部正しいのに、どうしてこんなに怖いんだろう」
私はさらに書き込む。
目的。
一、夏合宿を安全に乗り切る。
二、フィジカルを強化する。
三、メンタルを強化する。
四、親友と一緒に頑張る。
五、後輩ちゃんにも胸を張って成長を報告する。
六、スピカさんに応援されても倒れないくらい――
横から赤ペンが伸びてきた。
しゃっ。
六番が二重線で消された。
私は親友を見た。親友は真顔だった。
「最初から危なかった」
「まだ構想段階なのに」
「構想段階だから止めてるの」
私は少し考えた。そして六番を書き直す。
六、スピカさんの応援を心の中で大切にしながら、健全に頑張る。
親友は赤ペンを構えたまま、じっと見た。
「……健全に、が入ってるなら一旦保留」
「やった」
「喜ぶところじゃない」
私は次の項目へ進む。
「海合宿だから、まずは環境への適応だよね」
「まあ、そうだね」
「砂浜、波音、潮風、日差し、夜の海、星空」
「うん」
「全部を活かした総合トレーニング」
「うん」
「つまり、自然環境型メンタル&フィジカル強化――」
赤ペンが机を叩いた。
とん。
「名前を長くしない」
「まだ装置は作ってないよ?」
「作る気だった?」
「……」
「目をそらさない」
雨の音が強くなった。窓の外で、ざあっと水が弾ける。
私はノートに小さく書いた。
*※装置を作る場合は事前相談。*
親友はそれを見て、深く息を吐いた。
「相談じゃなくて許可制」
*※装置を作る場合は事前許可制。*
「あと、たづなさんにも提出」
*※装置を作る場合は事前許可制。たづなさん提出必須。*
「理事長単独承認は禁止」
*※理事長単独承認は禁止。*
「後輩ちゃんへの遠隔相談も禁止」
「えっ」
「禁止」
「でも後輩ちゃん、寂しがるかも」
「寂しがるのと、計画に加担するのは別」
私は少しだけしゅんとした。
でも、親友の言うことはわかる。後輩ちゃんはいい子だ。本当にいい子だ。だからこそ、私の案を肯定して、さらに目を輝かせて、斜め上へ加速してくれる可能性がある。
私は書いた。
*※後輩ちゃんへの共有は、たづなさん確認後。危険物は送らない。*
親友はようやく赤ペンを下ろした。
「よし」
「親友、頼もしいね」
「頼もしくならざるを得なかったんだよ」
私はにこにこした。親友は頭を抱えた。
▼ 海と貝殻と先回り
「でも、今回は大丈夫だよ」
「根拠は?」
「海だから」
「海だから?」
「自然が相手なら、さすがに変なものは作れないと思う」
親友が黙った。そして、とてもゆっくり言った。
「……海水を改造しようとか思わないよね?」
「しないよ」
「砂を何かに使おうとか」
「しないよ」
「貝殻に音声を仕込もうとか」
「……」
「今、間があった」
私は急いでノートに書いた。
*※貝殻に音声を仕込まない。*
親友の赤ペンが震えていた。
「思いついてたんだね」
「今ちょっとだけ」
「危ない。今もう危なかった」
「でも昔から貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるって言うし、そこに応援音声をほんの少し――」
しゃっ。
親友の赤ペンが走った。私は口を閉じた。
「合宿前から封印候補を出さない」
「はい」
「あと、海辺でスピカさん概念を混ぜない」
「概念……」
「混ぜない」
*※海辺にスピカさん概念を混ぜない。*
「砂浜に巨大文字を書かない」
*※砂浜に巨大文字を書かない。*
「潮風に香りを乗せようとしない」
*※潮風に香りを乗せようとしない。*
「波音にリズムを合わせて応援音声を錯覚させない」
私は手を止めた。
「親友、発想がすごいね」
「あなたの思考を予測してるだけだよ」
「それ、計画に使えそう」
「使わない」
しゃっ。
何も書いていない空白に、先回りの赤ペンが入った。
私は感心した。
赤ペン先生は、さらに進化していた。
▼ 赤ペンの入らなかった一行
外では雨が降っている。
来月から、二ヶ月間の合宿。
海。砂浜。波音。潮風。新しい環境。
後輩ちゃんとはしばらく会えない。それは寂しい。
でも、親友は一緒。一緒に頑張れる。
私は胸の中が少し熱くなるのを感じながら、ノートの端に小さく書いた。
目標:親友と一緒に、ちゃんと強くなる。
親友はそれを見て、少しだけ表情をやわらげた。
「……それは、いいと思う」
「ほんと?」
「うん。それは赤ペン入れない」
私は嬉しくなった。
「じゃあ、まずは合宿用の安全なしおりを作ろう」
「うん。それならいいね」
「タイトルは――」
親友が赤ペンを構えた。
私は少し考えてから、丁寧に書いた。
夏合宿で安全に強くなるためのしおり
親友は頷いた。
「いいじゃん」
「副題は」
「副題?」
私は書いた。
〜スピカさんの応援を胸に、海と心と身体を鍛える二ヶ月〜
しゃっ。
「長い」
「そこ?」
「そこから崩れる気がした」
私はしゅんとした。
でも、すぐに笑った。
雨はまだ降っている。けれど、少し先には夏がある。合宿がある。海がある。新しいノートがある。
そして、赤ペンを持った親友がいる。
何かが始まろうとしていた。
たぶん。
今度こそ、安全に。
……たぶん。
▼ 学園BBS:【悲報】夏合宿前、始まってしまったらしい【ノートは置いてけ】
レス 1〜50
雨の日の寮で見た。
例の子が新品のノート出してた。
終わった。
始まった、ではなく?
始まった時点でだいたい終わるから同じ。
ノートは置いてけ。
ノートは置いてけ。
今ならまだ間に合う。
新品のノートってことは新章じゃん。
やめろ。
新章って言うな。
あの子は本当に章立てする。
タイトル何?
聞いた話だと「最強合宿計画」らしい。
もうダメじゃん。
まだ「最強メンタル&フィジカル計画」よりは短いから……
短ければ安全理論やめろ。
しかも夏合宿でしょ?
新しい環境。
新しい刺激。
海。砂浜。波音。潮風。夜の星空。
発想の宝庫じゃん。
やめろ。
言うな。
本人が読む前にスレ民が危険ワード出すの本当にやめろ。
でも合宿って機材持ち込み制限あるよね?
さすがに大丈夫では?
お前は今まで何を見てきた?
機材がないなら作る。
やめろ。
言うなって。
でも現地にあるものって限られてるし。
砂、貝殻、海水、木材、タオル、浮き輪、トレーニング器具、厨房、宿舎、スピーカー、照明、空調……
多いな。
思ったより多いな。
今すぐ全部隠せ。
砂浜に巨大魔法陣みたいなトレーニングサークル描く可能性ない?
ある。
ありすぎる。
本人は「足運び矯正用の砂浜ラダーです!」って言う。
普通にトレーニングとしてはありそうなのが怖い。
そこにスピカきゅん要素が入ると終わる。
砂浜にスピカきゅんのシルエットを描いて、その周りを走ることで集中力を――
やめろ。
やめろって言っただろ。
でも機材は置いてくから大丈夫じゃない?
機材を置いていく。
素材は現地にある。
手は二本ある。
ノートはある。
結論:大丈夫ではない。
最悪、機材なしでも危険物作るからなあの子。
危険物っていうか概念兵器。
貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるじゃん?
やめろ。
そこにスピカきゅんの応援ボイスをですね。
やめろって。
言うなって。
「波音に紛れるくらいの小さな音量なら安全です!」って言いそう。
真V1で聞いた。
聞こえるか聞こえないかくらいが一番危ないって学んだだろ!
学んだのは赤ペン先生だけ定期。
レス 51〜100
本人は「前回は囁きだったのが問題。今回は自然音なので安全」とか言う。
自然音なら安全という謎理論。
自然は時に牙を剥くんだぞ。
牙を剥いてるのは自然じゃなくて本人の発想。
後輩ちゃんは一年だから合宿不参加なんだよね?
それは朗報。
でも寂しがって遠隔で相談する可能性がある。
通信機器没収。
いや普通に連絡はさせてあげて。
でも「先輩! 海なら波のリズムを活用できますね!」って返してきそう。
善意100%のアクセル。
後輩ちゃんは悪くない。
悪くないけど、ブースターとして性能が高すぎる。
赤ペン先生が一緒なのが救い。
赤ペン先生も合宿行くんだよね?
行く。
同室だから一緒。
勝ったな。
フラグ立てるな。
赤ペン先生が海辺でノートに赤を入れてる姿、容易に想像できる。
砂浜で赤ペン先生が「貝殻に音声を仕込まない」って書いてるの想像した。
もう書いてそう。
なんなら昨日もう書かせてそう。
事前に危険案を潰していく赤ペン先生、完全に防災。
問題はあの子、防災マップを見て新しい避難経路じゃなくて新しい発想を見つけるタイプ。
やめろ。
的確すぎる。
合宿先のスタッフさんにも共有した方がいい。
「この子に工具を渡さないでください」
「この子に香料を渡さないでください」
「この子に録音機器を渡さないでください」
「この子に貝殻を渡さないでください」
最後だけ普通なら意味わからない注意書き。
この学園では意味がわかってしまう。
海なら匂い系は大丈夫でしょ。
潮の匂い強いし。
やめろ。
「潮風にスピカさん概念を乗せる」とか言い出すぞ。
概念を風に乗せるな。
でもあの子、前に香り再現してたよね。
V5な。
部屋が封印されたやつ。
海風で拡散したら規模がまずい。
合宿所一帯が幸せ気絶エリアになる。
災害じゃん。
幸せな災害。
なお救助側も倒れる。
最悪。
真面目な話、夏合宿って集中して鍛える場所だから、本人の「強くなりたい」とは相性いいんだよね。
そうなんだよ。
目的はいつもまっすぐなんだよ。
目的:強くなりたい
手段:なぜか文明を進める
結果:気絶
いつもの。
しかも最近フィジカル方面も混ざってるから、普通に成長はしてるんだよな。
レースでも結果出してるしね。
精神面も成長してる。
ただし対スピカ耐性だけは成長しない。
永久にLV1。
そこがかわいい。
かわいいけど危険。
レス 101〜150
合宿でスピカきゅん本人が応援に来たら?
やめろ。
公式応援動画が電波に乗ってきたら?
やめろ。
公式応援動画、素材扱いされがち問題。
スピカきゅんは悪くない。
毎回悪くない。
本人は普通に「合宿頑張ってください」って言うだけ。
その「頑張ってください」で倒れる子がいるんですよ。
主に例の子。
あと理事長。
あとたづなさんもギリ耐えライン。
たづなさんは耐える。
耐えるけど後で座り込む。
夏合宿前から胃薬必要そう。
今回、理事長はどう動くかな。
「奮起ッ! 夏合宿は成長の好機!」って言う。
そしてノートを見て目を輝かせる。
ダメ。
理事長に見せるな。
理事長単独承認は禁止って赤ペン入ってそう。
もう完全に制度化されてる。
たづなさん承認印がないと進まないの草。
草じゃない。命綱。
機材は置いていくとして、ノートは?
置いてけ。
ノートは置いてけ。
でもノートがないと頭の中だけで進むぞ。
それはもっと危ない。
たしかに。
ノートは持たせて、赤ペン先生が管理するしかない。
危険物ではなく封印具だったのか、ノート。
書かせることで現実改変を遅らせるアイテム。
赤ペン先生の赤字で結界張ってる。
「スピカさんの応援を――」
赤ペン「健全に」
「海の音を――」
赤ペン「録音しない」
「貝殻を――」
赤ペン「仕込まない」
毎回後手に見えて実は先回り。
反射で赤ペン構えるのもう達人の域。
居合かな?
赤ペン抜刀術。
奥義:先回り二重線。
強い。
最強メンタル計画ちゃん VS 赤ペン先生
夏の海、決戦編。
いや一緒に頑張る話だから。
そうだった。
親友だった。
そこがいいんだよ。
あの子が暴走しそうになるたびに止めるけど、ちゃんと頑張る気持ちは否定しないの好き。
「親友と一緒に、ちゃんと強くなる」って書いてたらしい。
いいじゃん。
そこは赤ペン入らなかったらしい。
泣いた。
そのまま行け。
レス 151〜200
そのまま安全に行け。
なお次の行で副題が長くなって赤ペン入った模様。
草。
やっぱり安心できない。
結論:ノートは持っていけ。
ただし赤ペン先生の監視下。
機材は置いてけ。
貝殻も置いてけ。
海水は置いてけない。
詰んだ。
砂も置いてけない。
潮風も置いてけない。
自然素材が全部危険候補。
終わらなさそう。
でもちょっと見たい。
わかる。
怖いもの見たさと応援したさが同居してる。
最強合宿計画、開幕。
開幕するな。
でももうノート開いてるんだよな。
じゃあせめて祈ろう。
赤ペン先生、頼みます。
たづなさん、胃薬多めに持っていってください。
理事長は勝手に承認しないでください。
後輩ちゃんは遠隔ブーストしないでください。
例の子はちゃんと寝て、食べて、走って、普通に強くなってください。
それが一番難しいんだよなあ。
夏が来る。
合宿が来る。
そして新しいノートがある。
本当に、始まってしまったらしい。