幕間・雨の日の紫陽花
六月初頭。
梅雨入りしたばかりのトレセン学園は、朝からしとしとと雨が降っていた。
グラウンドは使えない。
芝もダートも、水を含んでいつもより重たそうに見える。
今日は屋内施設でのプールトレーニング。
水の抵抗を使って、脚に負担をかけすぎず、けれど確実に体を追い込む。
アスリートとしてはとても大事なメニューである。
そして。
「つ、つかれた……」
更衣を終えた最強メンタル計画ちゃんは、休憩スペースの椅子に沈み込むように座っていた。
髪はまだ少し湿っている。
肩も脚も重い。
普段なら、疲労回復について何かを思いつきそうなところだが、今日はさすがに体が休息を求めていた。
少し離れたところで、同室の親友がタオルを畳んでいる。
「今日はよく頑張ったね」
「うん……水って、すごいね……」
「今さら?」
「走るのとは別方向に、すごい……」
最強メンタル計画ちゃんは、椅子の背にもたれながら、ぼんやりと窓の外を見た。
雨。
灰色の空。
濡れた石畳。
その向こうに、植え込みの紫陽花が咲いていた。
青い花だった。
雨粒をまとって、静かに光っている。
派手ではない。
けれど、雨の中でこそ綺麗に見える色。
青。
淡い青。
少しだけ紫を含んだような、やさしい青。
最強メンタル計画ちゃんは、じっとそれを見つめた。
「……綺麗」
同室の親友が顔を上げる。
「紫陽花?」
「うん」
「この時期、綺麗だよね」
「雨の日に咲いてるの、すごくいいね」
「うん」
「なんか……」
最強メンタル計画ちゃんは、ぽつりと言った。
「スピカさんみたい」
同室の親友の手が止まった。
この言葉の時点で、少しだけ嫌な予感がした。
いや、まだ大丈夫。
綺麗なものを見てスピカさんを連想する。
それ自体は、トレセン学園ではよくあることだ。
青空を見てスピカさん。
星を見てスピカさん。
風を感じてスピカさん。
レース後の汗を拭くタオルの柔らかさでスピカさん。
だいぶ末期ではあるが、まだ日常の範囲内である。
最強メンタル計画ちゃんは、窓の外の紫陽花を見つめ続けていた。
「雨の日でも、ちゃんと綺麗で」
「うん」
「静かで」
「うん」
「でも、見てると元気になる感じがして」
「うん」
「青くて」
「うん」
「スピカさんのイメージカラーっぽくて」
「うん」
同室の親友は、相槌を打ちながらも、ゆっくりと距離を詰めていた。
まだ。
まだ止めるほどではない。
ここで急に止めたら、逆に刺激する可能性がある。
最強メンタル計画ちゃんは続ける。
「紫陽花って、土で色が変わるんだよね」
同室の親友の表情が少し固まった。
「……そうだね」
「環境によって色が変わる」
「うん」
「つまり、環境に溶け込む」
「うん?」
「雨の日に自然に存在して、見るだけで心が落ち着いて、でもスピカさんを感じられて、しかも季節限定で特別感がある」
「うん??」
「さらに、紫陽花は群生する」
「うん???」
最強メンタル計画ちゃんの瞳に、いつもの光が宿った。
危険な光だった。
疲労で沈んでいたはずの体が、ゆっくりと起き上がる。
同室の親友は、その瞬間を見逃さなかった。
あ、これは駄目なやつだ。
最強メンタル計画ちゃんは、椅子から勢いよく立ち上がった。
「次は紫陽花!」
その瞬間。
がしっ。
両肩を掴まれた。
「やめようね?」
同室の親友だった。
声は優しい。
表情も優しい。
しかし、手には逃がさないという強い意志があった。
「えっ、でも」
「やめようね?」
「まだ何も言ってないよ?」
「言ったよ。今、次は紫陽花って言ったよ」
「でも紫陽花は綺麗だし」
「綺麗だね」
「雨の日にぴったりだし」
「ぴったりだね」
「スピカさんみたいだし」
「その発想がもう危ないね」
「でも、見るだけなら安全じゃない?」
「前にも聞いた」
「香りをつけるわけじゃないよ?」
「前にも聞いた」
「食べ物にするわけでもないよ?」
「前にも聞いた」
「音も出さないし」
「前にも聞いた」
「VRでもないし」
「前にも聞いた」
「じゃあ安全では?」
「今までの全部、その入り口だったよ」
最強メンタル計画ちゃんは、きょとんとした顔をした。
本当に悪気がない顔だった。
だからこそ怖い。
同室の親友は、深く息を吸った。
そして、丁寧に言い聞かせる。
「紫陽花はね、見るだけで綺麗なの」
「うん」
「だから、何もしなくていいの」
「でも」
「何もしなくていいの」
「でも、スピカさんっぽい紫陽花を――」
「作らない」
「スピカさんをイメージした――」
「作らない」
「雨の日でも心を支える――」
「作らない」
「季節限定メンタルケア――」
「作らない」
「まだ企画名しか」
「企画名を出さない」
最強メンタル計画ちゃんは、しゅんとした。
「……ちょっとだけ、ノートに書くのも?」
「今日は書かない」
「タイトルだけ」
「書かない」
「紫陽花計画、仮」
「仮でも駄目」
「じゃあ、見るだけ」
「そう。見るだけ」
「……見るだけなら、いい?」
同室の親友は、少しだけ表情を和らげた。
「うん。見るだけならいいよ」
二人は並んで窓の外を見た。
雨に濡れた青い紫陽花。
静かで、綺麗で、少しだけ寂しくて。
でも、見ていると胸の奥が落ち着くような花。
最強メンタル計画ちゃんは、小さく呟いた。
「本当に綺麗だね」
「うん」
「スピカさんが見たら、綺麗って言ってくれるかな」
「言ってくれると思うよ」
「そっか」
彼女は少しだけ笑った。
それは、危険物を思いついた時の笑顔ではなく。
ただ、綺麗なものを綺麗だと思っている笑顔だった。
同室の親友も、ほっと息を吐く。
今日は守れた。
世界は守られた。
大袈裟ではない。
たぶん。
【速報】プール休憩所で紫陽花計画が未遂に終わった件【世界は守られた】
レス 1〜50
雨の日のプールトレーニング終わりに休憩所で休んでたんだけどさ。
聞いちゃった。
やめろ。
この入り方はだいたい例の子。
雨の日
プール
休憩所
例の子
もう嫌な予感しかしない。
例の最強メンタル計画ちゃんが窓の外見てたの。
紫陽花咲いてるじゃん。青いやつ。
それを見て「綺麗」って言ってて。
かわいい。
平和。
このまま終わって。
そしたら「スピカさんみたい」って。
あっ。
その子の「スピカさんみたい」は危険物指定ワードなんよ。
青い紫陽花を見てスピカさんみたいって言うのは分かる。
分かるけど、その子が言うと別の意味になる。
で、しばらく紫陽花見ながら言ってた。
「雨の日でも綺麗」
「静か」
「見てると元気になる」
「青くてスピカさんっぽい」
詩的じゃん。
普通にいい感性してるんだよなぁ。
この子、入口はいつも優しいんだよ。
出口が国家機密なだけで。
そのあと急に
「紫陽花って、土で色が変わるんだよね」
って言い出した。
あっ。
終わった。
環境という単語が出た瞬間に警戒レベル上げろ。
毎回言ってる気がする。
グミは悪くない。
花は悪くない。
寝具は悪くない。
紫陽花は悪くない。
悪いのは発想のアクセル。
いや本人も悪いわけではない。
善意100%。
善意100%で世界を揺らすな。
続き。
例の子、目がキラッてなった。
疲れてた。
椅子に沈んでた。
でも閃いた瞬間に立った。
スタミナ回復演出やめろ。
スピカさん連想で疲労回復するな。
そして例の子が勢いよく立って、
「次は紫陽花!」
って言った。
アウト。
企画始動の掛け声じゃん。
紫陽花逃げて。
紫陽花は逃げられないんだよ。
で、その瞬間、同室の子が肩掴んだ。
赤ペン先生!!!
救世主。
世界線が分岐する瞬間。
肩掴んで一言。
「やめようね?」
やさしいのに絶対逃がさないやつ。
赤ペン先生の制止、だんだん熟練してきてない?
昔なら企画書半分くらいできてから止めてた。
今は「次は」で止める。
成長してる。
成長していいのか悪いのか分からない成長。
最強メンタル計画ちゃん
→発想が速くなる
同室の子
→制止が速くなる
軍拡競争やめろ。
なお本人は本当に不思議そうな顔をしていた模様。
悪意がないから怖い。
見るだけなら安全
→静止画V3
聞くだけなら安全
→音声V1
香るだけなら安全
→V5
食べるだけなら安全
→グミ
寝るだけなら安全
→V6
一覧にするとひどい。
安全という言葉の信用が死んでる。
でも例の子、たぶん本気で紫陽花をもっと良くしたかっただけなんだよね。
レス 51〜100
だから止めるんだよ。
良くするな。
そのままでいい。
雨の日限定、見るだけで心が落ち着くスピカさんイメージ紫陽花。
やめろ。
普通に欲しい説明するな。
危険物の説明文、いつも最初だけ魅力的なのやめて。
だいたい「メンタルケア」「みんなを元気に」「日常に溶け込む」って言う。
聞こえはいい。
結果は気絶。
しかも幸せそうに。
幸せそうなのが厄介なんだよ。
しゅんとしてた。
でも最後は二人で紫陽花見てた。
例の子が「見るだけならいい?」って聞いて、同室の子が「見るだけならいいよ」って。
尊い。
未遂で終わるとこんなに綺麗なんだ。
未遂で終わったから綺麗なんだよ。
雨音
紫陽花
スピカさんイメージ
安眠
繋がったわ。
繋げるな。
V6.3じゃん。
後輩ちゃん「先輩!雨の日でもみんなが安心して眠れる紫陽花クッション、素敵だと思います!」
やめて。
善意と善意を混ぜるな。
爆発する。
赤ペン先生がいて本当によかった。
雨の日はまだ続くんだよね。
梅雨入りしたばかりだね。
紫陽花はこれから見頃だね。
プールトレーニングも増えるね。
つまりチャンスが多い。
チャンスって言うな。
でも本人もなんだかんだ一緒に紫陽花見てたの良い。
あの二人、止める側と止められる側だけど、ちゃんと親友なんだよね。
そこが好き。
最強メンタル計画ちゃん、危険物作るけど、綺麗なものを綺麗って言える子なんだよな。
分かる。
発想が明後日へウマ娘の脚力で走っていくだけで、根っこは本当にいい子。
明後日へウマ娘の脚力で走っていく、表現として正確すぎる。
なお追いつけるのは赤ペン先生だけ。
最近、赤ペン先生も脚力上がってそう。
制止トレーニング。
今回は世界が守られた。
でも、雨の日に二人で紫陽花見てるところは本当に良かったよ。
例の子も「スピカさんが見たら綺麗って言ってくれるかな」って言ってた。
浄化。
スピカきゅんなら絶対言う。
「雨の中でも綺麗に咲いていて、すごいですね」とか言いそう。
その言葉を聞いた例の子がまた閃くところまで見えた。
やめろ。
スピカきゅんが紫陽花を褒める
↓
例の子が「やっぱり紫陽花は正しかった」と確信する
↓
企画再始動
最悪の導線。
でも「次は紫陽花と言いかけました」って報告されるたづなさんの気持ち。
頭抱えるやつ。
たづなさん「紫陽花……?」
レス 101〜150
理事長「風流ッ!」
理事長は黙ってて。
結論。
紫陽花は綺麗。
最強メンタル計画ちゃんも感性は綺麗。
赤ペン先生は偉大。
そして世界は守られた。
ただし梅雨は始まったばかり。
不穏な締めやめろ。