最強メンタル&フィジカル計画V5

――五感分散型・全身運動対応VR鬼ごっこシステム――


旅行から帰ってきた私は、充実していた。

心も身体も、かなり元気だった。

温泉。

おいしい料理。

友達との会話。

そして、旅館での少しだけ危険な気絶。

……いや、あれは事故だった。

花の香りがするゼリーがおいしすぎただけである。

少なくとも、私はそう整理していた。

私は今、寮の自室で机に向かっていた。

今日はトレーニングではなく、学園の課題を片づける日だった。

同室の親友は、ゴールデンウィークの残りを使って帰省している。明後日くらいに帰ってくる予定だ。

つまり今、部屋には私しかいない。

――はずだった。

「先輩、ここ教えてください」

気づけば、後輩がいた。

最近、部屋にいることがあまりにも自然になってきた後輩である。

扉をノックして、入ってきて、机の横に座って、参考書を広げる。

その一連の流れが、もう日常の風景になりつつあった。

同室の親友がいれば、きっと赤ペンを片手に言っただろう。

――まず、何をするにも報告。

――そして、危険な単語が出たら即停止。

――あと、後輩ちゃん。あなたも止める側になって。

だが今日は、いない。

赤ペン先生はいない。

私は普通くらいの成績である。

決して成績上位ではない。

ただ、後輩が今やっている内容は一年前に通ったところだったので、わかる範囲なら教えられた。

「ここはね、最初に式を変形して……」

「なるほど……!」

「で、ここでこの条件を使うと……」

「先輩、すごいです!」

「えへへ」

褒められた。

照れた。

勉強は、無事に一区切りついた。

私は小さく伸びをして、後輩と一緒に砂糖入りのコーヒーを飲んだ。

苦みの中に甘さがあって、頭を使った後にはちょうどいい。

穏やかな時間だった。

とても、穏やかな時間だった。

そのはずだった。

「先輩」

「ん?」

「以前、4DX作ってましたよね」

コーヒーカップを持つ手が止まった。

「……うん」

「あと、4DXスーパーデラックスも作ってましたよね」

「……うん」

「あれって、味覚以外は入ってますけど」

「うん」

「味覚を入れたバージョンは作らないんですか?」

衝撃が走った。

悪い方向に。

私の脳内で、何かがつながってしまった。

旧4DX。

4DXスーパーデラックス。

視覚。

聴覚。

嗅覚。

触覚。

確かに、味覚はなかった。

つまり。

もしかして。

あの失敗は。

「……味覚が足りなかったから……?」

「え?」

「分散が甘かった……?」

私はゆっくりと立ち上がった。

後輩が、ぱちぱちと瞬きをする。

「そうだよ……!」

「先輩?」

「味覚がなかったから、四感に集中してたんだよ! だから強すぎた! 五感に散らせば……一つあたりの負荷が五分の一!」

「五分の一……!」

「しかも今の私、フィジカルも鍛えなきゃいけないんだよ!」

「つまり……!」

「五感分散型、全身運動対応トレーニング!」

後輩の目が輝いた。

「天才的発想です、先輩!」

「後輩ちゃんこそ天才だよ!」

「えへへ……!」

なぜ、ブレーキ役がいない時に限って、話がここまで滑らかに進むのか。

それは誰にもわからなかった。

少なくとも、この部屋にいる二人にはわからなかった。


私たちはすぐにノートを広げた。

まず、旧4DXの失敗を再分析する。

視覚と聴覚は、VRで処理できる。

嗅覚は、前回のアイマッサージャーでフレグランス噴射の知見がある。

触覚は、小型ファンによる風、そして軽い刺激。

味覚は、補給食に組み込む。

「ん…座って映像を見るだけだと、フィジカルトレーニングじゃない…」

「そうですね」

「走る必要がある」

「体育館とか、広い場所が必要ですね」

「うん。でも外だと危ないし……」

私は部屋を見回した。

机。

ノート。

工具箱。

以前作った機材たち。

そして、VRゴーグル。

目が合った。

私は叫んだ。

「これだあああああ!」

後輩が拍手した。

「VRですか!」

「そう! VR空間で鬼ごっこをする!」

「鬼ごっこ!」

「走る、避ける、捕まえる、方向転換する。瞬発力、持久力、判断力。全部使う!」

「フィジカルですね!」

「匂いと風も出せば、本当にその場にいるみたい!」

「すごいです!」

「さらに、鬼に捕まった時だけ軽く刺激を入れる。痛くない範囲で、びりっとするくらい。これで緊張感も出る!」

「触覚ですね!」

「味覚は……」

私は少し考えた。

味覚。

しかし、食べ物で危険物を作るわけにはいかない。

食べ物は安全第一である。

ここは市販品を使うべきだ。

「市販のグミ」

「グミ」

「休憩のタイミングでグミを食べる。補給にもなるし、爽やかな味だし」

「健康的です!」

「そう! 今回は健康管理も入れる。脈拍を測って、疲れてきたらアナウンスが出る!」

「安全設計ですね!」

「安全設計!」

完璧だった。

完璧な気がした。

少なくとも、企画書の表紙に書く分には完璧だった。

私は勢いよくタイトルを書いた。

『最強メンタル&フィジカル計画V5

五感分散型・全身運動対応VR鬼ごっこシステム』

強い。

タイトルが強い。

後輩も隣で目を輝かせている。

「先輩、これ絶対楽しいです」

「でしょ?」

「私も手伝います!」

「ありがとう!」


私たちは企画書を書いた。

今回は、前回までの反省を活かしている。

安全面。

休憩機能。

健康管理。

体育館使用申請。

壁との接触防止。

EMS刺激は低出力。

フレグランスは薄め。

風量も弱め。

グミは市販品。

どこから見ても、安全な企画書だった。

……少なくとも、企画書だけは。

私たちは完成した企画書を持って、学園の申請窓口へ向かった。

その途中だった。

「おや」

廊下の向こうから、白衣が歩いてきた。

アグネスタキオン先輩だった。

「随分と楽しそうな顔をしているじゃないか」

「あ、タキオン先輩」

「その手にあるものは?」

「企画書です!」

「ほう」

タキオン先輩の目が、わずかに細くなった。

興味を持たれた。

私は企画書を差し出す。

タキオン先輩は、ぱらぱらとページをめくった。

「五感分散型……全身運動……VR鬼ごっこ……健康管理……ふむ」

「どうでしょうか」

「実に興味深い」

タキオン先輩は笑った。

「これは私が出しておいてあげよう」

「いいんですか?」

「ああ。少しだけ、必要な表現を整えておこう。申請というものは、見せ方が重要だからね」

「助かります!」

「ついでに体育館の申請もしておこう。広い場所が必要なのだろう?」

「はい!」

「任せたまえ」

私は素直に企画書を渡した。

後輩もぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます、タキオン先輩!」

「なに、将来有望な実験……いや、訓練企画の芽を摘むのは惜しいからね」

今、実験と言いかけなかっただろうか。

だが、その時の私は気にしなかった。

なぜなら、モノづくりが始まったからである。


そこからの数日は早かった。

VRゴーグルの外付けユニットを作る。

小型ファン。

フレグランス噴射機構。

安全センサー。

脈拍計測。

EMSパッド。

空間認識。

体育館の壁とVR空間の壁をリンクさせる機能。

後輩は横でメモを取ったり、部品を並べたり、簡単な組み立てを手伝ってくれたりした。

「先輩、ここの配線はこれでいいですか?」

「うん、そこは大丈夫。こっちはセンサー系、間違えないようにね」

「はい!」

「あと、この香りは森エリア用。こっちは草原。こっちは水辺」

「水辺の香りまであるんですか?」

「雰囲気は大事だからね!」

「すごいです!」

褒められた。

作業が進んだ。

作業が進むたび、後輩は楽しそうにしていた。

私も楽しかった。

たぶん、危険なことをしているつもりはなかった。

むしろ、今回は本当に安全のために作っていた。

EMS刺激は最低限。

壁衝突防止もある。

フレグランスは薄い。

風も弱い。

疲労管理もする。

補給も促す。

旧4DXより、ずっと健全。

スーパーデラックスより、ずっと安全。

そう思っていた。


そして、完成した。

指定された日。

体育館に、二人分の機材が並んでいた。

広い床。

しっかり片づけられた空間。

壁際にはクッション材。

中央には開始位置のマーカー。

そして、二つのVRゴーグル。

私は息を呑んだ。

「できた……」

「すごいです、先輩……!」

後輩も目を輝かせている。

機材は少し大きい。

でも、背負える範囲だ。

ゴーグルに外付けされた小型ユニットが、妙に本格的に見える。

私は機材を装着した。

後輩も装着した。

心拍センサー。

EMSパッド。

腕と脚の安全バンド。

小型ファンユニット。

フレグランスカートリッジ。

そしてVRゴーグル。

「準備いい?」

「はい!」

「じゃあ、起動するね」

私はスイッチを入れた。

視界が暗くなる。

次の瞬間、世界が変わった。

「おお……」

言葉が漏れた。

そこは森だった。

木々が並び、木漏れ日が差している。

足元には草が揺れ、遠くには小川の音が聞こえる。

鼻先に、淡い草の香りが届いた。

頬に、そよ風が当たった。

体育館にいるはずなのに、森の中に立っているようだった。

「先輩! すごいです!」

後輩の声が聞こえる。

振り返ると、VR空間の中に後輩のアバターがいた。

ちゃんと位置も合っている。

「よし、最初は後輩ちゃんが鬼ね」

「はい!」

アナウンスが流れた。

『これより、鬼ごっこトレーニングを開始します』

その声は、普通の機械音声だった。

そう。

ここまでは普通だった。

『逃走側は、制限時間内に鬼から逃げ切ってください。鬼側は、逃走側を捕まえてください。安全のため、周囲の壁と障害物は仮想空間内に反映されています』

「安全!」

「完璧です!」

『三、二、一――開始』


後輩が走り出した。

私も走る。

体育館の床を蹴っているのに、視界は森の道を駆け抜けている。

木々の間を抜ける。

横から風が吹く。

草の匂いがふわっと広がる。

「楽しい!」

思わず声が出た。

これは楽しい。

ただのトレーニングではない。

遊びながら走っている感覚だ。

後輩も笑っている。

「先輩、待ってくださーい!」

「待たないよ!」

右へ曲がる。

仮想空間の木を避ける。

実際には何もないはずなのに、センサーが壁や距離を管理しているので危なくない。

すごい。

我ながら、かなりすごい。

後輩が近づいてくる。

私は加速した。

しかし、少し油断した。

小川を模したエリアに入った瞬間、足元の視覚変化に気を取られた。

「あっ」

「捕まえました!」

後輩の手が、私の肩に触れた。

その瞬間。

ぴりっ。

肩のEMSパッドに、軽い刺激が走った。

「おお、機能してる!」

「痛くないですか?」

「全然。びっくりするくらい」

ちょうどいい。

これならゲーム性もあるし、危険ではない。

すると、アナウンスが流れた。

『交代時間です。エネルギーを補給してください』

視界の端に、休憩表示が出る。

私はゴーグルを少し上げた。

現実の体育館に戻る。

目の前には、補給用のグミが置かれていた。

市販の爽やかな味のグミ。

今回の味覚担当である。

「味覚フェーズだね」

「はい!」

私は一粒取った。

後輩も取った。

口に入れる。

爽やかな甘みが広がる。

運動後の身体に、ちょうどいい。

「おいしい」

「おいしいです」

完璧だった。

五感分散。

運動。

補給。

安全。

今回はいける。

いける気がした。

そして、交代のアナウンスが流れた。

『次は、あなたが鬼の番です』

その声は。

スピカさんの声だった。

私たちは、グミを口に入れたまま固まった。

爽やかな味。

運動後の高揚。

森の余韻。

身体に残る風の感覚。

薄い草の香り。

そして、耳元に響くスピカさんの声。

『無理はしないでくださいね』

身体から力が抜けた。

後輩の膝も折れた。

『ちゃんと休んで、また走りましょう』

ああ。

だめだ。

これは。

安全設計が。

安全すぎた。

優しすぎた。

『頑張るあなたを、僕は応援しています』

私たちは、同時に気絶した。

グミは、口の中で爽やかだった。

視界がゆっくり暗くなっていく中で、私は思った。

失敗ではない。

機能はしていた。

ただ。

最後のアナウンス音声が。

強すぎただけで。

そして体育館には、VRゴーグルをつけたまま倒れる二人と、妙に完成度の高い五感対応トレーニング機材だけが残された。


しばらくして。

体育館の扉が開いた。

「やあ、経過観察に来たよ」

アグネスタキオン先輩だった。

タキオン先輩は、倒れている二人を見た。

機材を見た。

ログを見た。

そして、楽しそうに笑った。

「ふむ。運動負荷、心拍、空間同期、五感分散、休憩誘導……どれも正常」

タキオン先輩は、床に落ちていた企画書を拾った。

「問題は、音声刺激の一点集中か」

ぱらり、とページをめくる。

そこには、タキオン先輩が添削した痕跡があった。

健康管理アナウンス音声。

利用者のモチベーション向上のため、親しみやすい応援音声を採用。

タキオン先輩は口元に手を当てた。

「いやはや、実に興味深い結果だ」

その声は、どこか満足げだった。


しばらくして、救護担当が呼ばれた。

私たちは安全に回収された。

意識を取り戻した時、私は体育館の端で座らされていた。

後輩も隣で、幸せそうな顔をしている。

「先輩……」

「うん……」

「すごかったですね……」

「うん……」

「でも、楽しかったです……」

「うん……」

そこへ、タキオン先輩が歩いてきた。

「二人とも、目覚めたようだね」

「タキオン先輩……」

「結論から言えば、システム自体はかなり優秀だ。五感刺激の分散、運動誘導、補給タイミング、空間同期。どれも実用域に近い」

「本当ですか!」

「ああ。ただし」

タキオン先輩は、にやりと笑った。

「スピカ君の音声は、補給直後のリラックス状態に流すべきではない」

「……はい」

「加えて、運動後の高揚状態、軽度疲労、味覚刺激、嗅覚刺激、達成感が重なったところに応援音声を流すと、君たちのような被験者には過剰な幸福反応が出る」

「過剰な幸福反応……」

「簡単に言えば、幸せで落ちる」

「はい……」

否定できなかった。

後輩が、ぽつりと言った。

「でも先輩」

「うん?」

「これ、スピカさん音声じゃなければ、普通にすごくないですか?」

私は顔を上げた。

たしかに。

システムは動いた。

楽しかった。

安全だった。

運動にもなった。

補給もできた。

スピカさん音声以外は。

「……そうだね」

「成功ですね!」

「成功……!」

私は拳を握った。

やった。

成功だ。

今回は成功に近い。

限りなく成功に近い失敗。

いや、失敗に見える成功。

成功である。

タキオン先輩は、それを聞いてくつくつと笑った。

「では、改良版を作るといい。もちろん、提出は忘れずに」

「はい!」

「音声は?」

「普通の機械音声に戻します!」

「よろしい」

私は立ち上がった。

足元が少しふらついた。

後輩が支えてくれた。

「先輩、大丈夫ですか?」

「大丈夫。ちょっと幸せだっただけ」

「私もです」

二人で笑った。


その時、体育館の入口に人影が見えた。

私は振り向いた。

そこにいたのは、たづなさんだった。

にこりと笑っていた。

ただし、目は笑っていなかった。

「……お話、聞かせてもらえますか?」

私と後輩は固まった。

タキオン先輩は、すっと視線を逸らした。

たづなさんの手には、企画書の控えがあった。

赤ペンで、いくつものチェックが入っていた。

特に大きく丸がつけられていた箇所がある。

『利用者のモチベーション向上のため、親しみやすい応援音声を採用』

たづなさんは、穏やかな声で言った。

「誰が、どの音声を使う許可を出したんでしょうか?」

静寂。

体育館に、静寂が満ちた。

私はゆっくりとタキオン先輩を見た。

タキオン先輩は、にこやかに言った。

「私は、少し表現を整えただけだよ」

たづなさんの笑顔が深くなった。

「そうですか」

「うむ」

「では、皆さんで一緒に確認しましょうね」

その声は、とても優しかった。

とても優しいのに、逃げ道がなかった。

後輩が小さく震えた。

私は思った。

同室の親友。

早く帰ってきて。

あなたがいないと、世界はこうなる。


そうして、最強メンタル&フィジカル計画V5は幕を閉じた。

なお、後日。

同室の親友が帰ってきて、赤ペンだらけになったV5企画書を見た瞬間。

「私がいない二日で何を増やしてるの」

と、静かに頭を抱えた。

そして、企画書の最後に一文を書き足した。

『スピカさんの声を、運動後・補給中・休憩中・就寝前・起床時・その他あらゆる無防備なタイミングで流さないこと』

その赤文字は、今までで一番太かった。


後日談

――グミだけで落ちた日――

数日後。

私は、自室の机に向かっていた。

最強メンタル&フィジカル計画V5の反省点をまとめている。

問題点は明確だった。

スピカさん音声。

運動後。

補給タイミング。

五感刺激の残響。

この四つが重なったことで、過剰な幸福反応が起きた。

つまり、グミ自体に問題はない。

グミは市販品である。

安全である。

おいしいだけである。

「……うん」

私は確認のため、机の上に置いていた同じグミの袋を開けた。

一粒つまむ。

口に入れる。

爽やかな味が広がった。

その瞬間。

森の匂いが脳裏によみがえった。

頬に当たる風。

体育館の床を蹴る感覚。

後輩の楽しそうな声。

そして――

『ちゃんと休んで、また走りましょう』

幻聴。

完全に幻聴。

でもスピカさんの声だった。

「……あ」

幸せだった。

とても幸せだった。

私は椅子から、すとんと崩れ落ちた。


数分後。

部屋に戻ってきた同室の親友が、床で幸せそうに気絶している私と、机の上の市販グミを見た。

「……市販品だよね?」

後輩が隣で震える声を出した。

「はい……普通のグミです……」

同室の親友は、深く息を吸った。

そして赤ペンを取り出し、反省ノートに一行足した。

『条件反射が成立した食品は、安全な市販品でも危険物扱いとする』

私は夢の中で、まだ爽やかな森を走っていた。