幕間・最強引き継ぎ計画(合宿に行く側と行かない側の嵐)
▼ 買い出し中の隙間
「先輩、来月から合宿行くんですね……」
雨の音が、窓の向こうで静かに続いていた。
六月の雨は、春のそれより少し重い。
窓ガラスを伝う雫をぼんやり眺めながら、後輩ちゃんはぽつりと呟いた。
部屋には、二人しかいない。
同室の親友は、今日は買い出しに出ている。
いつもなら、机に広げられたノートを見て。
「はいそこまで」
と赤ペンを構えてくれる親友がいる。
いつもなら、後輩ちゃんが目を輝かせた瞬間に。
「それ、たぶん危ない方向に進んでるよ」
と止めてくれる声がある。
けれど、今日はない。
雨音だけがある。
「ん……」
最強メンタル計画ちゃんは、少しだけ寂しそうに返事をした。
普段なら、新しい発想を思いついた瞬間に跳ねる耳も、今日は少し下がっている。
来月から、二ヶ月間の合宿。
海。砂浜。坂路。プール。強化トレーニング。
それ自体は、少し楽しみだった。
去年の先輩たちが、帰ってきたときには真っ黒に日焼けして、疲れ切った顔をしながらも、どこか誇らしげに笑っていたのを覚えている。
きっと自分も、少しは強くなれる。もっと走れるようになる。もっと、前に進める。
それは楽しみだった。
けれど。
「……先輩」
「ん?」
「合宿に行ってる間も、連絡していいですか?」
後輩ちゃんは、少しだけ遠慮がちに聞いた。スマホを胸の前で握りしめている。その仕草が、なんだかとても小さく見えた。
最強メンタル計画ちゃんは、一瞬きょとんとして、それからこくりと頷いた。
「ん……いいよ」
「本当ですか?」
「うん」
「迷惑じゃないですか?」
「全然」
「毎日でも?」
「ん。大丈夫」
「朝でも?」
「たぶん」
「夜でも?」
「寝てたら朝返す」
「……えへへ」
後輩ちゃんの表情が、ぱっと明るくなった。それを見て、最強メンタル計画ちゃんの胸も少し温かくなる。
この子は、いい子だ。素直で、まっすぐで。少し危ういところはあるけれど、それは自分を慕ってくれているからで。
自分が作ったものに救われたと言ってくれた。自分のことを、先輩と呼んでくれる。自分の後ろを、目を輝かせながらついてきてくれる。
二ヶ月。短いようで、長い。
その二ヶ月のあいだ、この子が寂しそうにしているのは、なんだか嫌だった。
▼ 繋がってはいけない式
「……」
最強メンタル計画ちゃんは考えた。
寂しくさせたくない。どうすればいい?
連絡する。それはする。でも、連絡だけで足りるだろうか。
合宿中は自分も忙しい。すぐ返せない日もあるかもしれない。後輩ちゃんが一人で寂しくなる時間があるかもしれない。
では、寂しくならないためには?
何かに集中していればいい。何か楽しいことがあればいい。
楽しいこと。最近、後輩ちゃんが一番楽しそうだったこと。
一緒にノートを広げていたとき。一緒に企画を考えていたとき。一緒に開発していたとき。
つまり。
「……!」
最強メンタル計画ちゃんの耳が、ぴんと立った。
繋がってはいけない式が、頭の中で完成した。
寂しくさせない。イコール。何かやっていれば集中できる。イコール。一緒に開発していると楽しかった。イコール。合宿中は開発を任せればいい。
「先輩?」
後輩ちゃんが首を傾げた。
最強メンタル計画ちゃんは、無言で机の引き出しを開けた。そこから、新品のノートを取り出す。
まだ一度も開かれていない、真っ白なノート。表紙は落ち着いた紺色。
同室の親友が見たら、その時点で赤ペンを構える種類の物体だった。
「……」
最強メンタル計画ちゃんはペンを握った。
そして、凄まじい勢いで書き始めた。
さらさら、ではない。
*ざざざざざざざざざざざざざざざざ。*
雨音よりも強い筆音が、部屋に響く。
後輩ちゃんは、きょとんとした顔でそれを見ていた。
「先輩?」
返事はない。
「先輩、何を書いてるんですか?」
返事はない。
「もしかして、私にお手紙ですか?」
返事はない。
ただし耳が少し赤くなった。
後輩ちゃんは、それだけで嬉しくなった。
先輩が、自分のために何かを書いてくれている。それだけで胸がいっぱいになる。
ノートのページが、次々に埋まっていく。一ページ。二ページ。三ページ。
途中で図が入る。矢印が入る。フローチャートが入る。
「安全確認」「小規模試験」「寮内利用想定」「スピカ成分混入防止」「ただし応援要素は必要」「寂しさ対策」「先輩不在時メンタル維持」「自律開発」「報告ルート」「赤ペン先生不在時の判断基準」「でも後輩ちゃんはいい子なので大丈夫」
危険な文字列が、善意に包まれてページを埋めていく。
後輩ちゃんは、難しそうな図や文字を見ながら、ほわあ、と目を輝かせていた。
先輩が、自分のために。自分が寂しくならないように。こんなにたくさん考えてくれている。
なんて優しいのだろう。
十五分ほど経ったころ。最強メンタル計画ちゃんは、ようやくペンを止めた。
ノートの半分近くが埋まっていた。
「……できた」
「できたんですか?」
「ん」
最強メンタル計画ちゃんは、少し照れたようにノートを閉じた。
そして、後輩ちゃんに差し出す。
「寂しくなったら、これ見て」
「……!」
後輩ちゃんは、両手でそれを受け取った。
まるで宝物のように。まるで表彰状のように。まるで、自分だけに託された秘密の使命のように。
胸にぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうございます、先輩……!」
声が震えていた。目には、うっすら涙まで浮かんでいる。
「大事にします」「毎日読みます」「ちゃんと考えます」「先輩が帰ってくるまでに、少しでも成長して待ってます」
「……ん」
最強メンタル計画ちゃんは、少し照れくさそうに視線をそらした。
雨音が優しく響く。窓の外では紫陽花が揺れている。
先輩と後輩。受け継がれる想い。離れていても繋がる心。憧れの人から託された一冊のノート。
それは、どこからどう見ても、美しい青春の一幕だった。
そう。
ノートの表紙に、力強い文字で。
最強引き継ぎ計画
と書かれていなければ。
「……先輩」
「ん?」
「これ、私が持っていていいんですか?」
「うん。後輩ちゃんに任せる」
「任せる……!」
その言葉で、後輩ちゃんの耳がぴんと立った。
「任せる……!」
尻尾が揺れた。
「私に……!」
瞳が輝いた。
「先輩の計画を……!」
その瞬間。
部屋のどこかで、見えない赤ペン先生が悲鳴を上げた気がした。
しかし、本人はいない。買い出し中である。
たづなさんへの報告も、まだ必要ない。なぜなら、何かを作ったわけではないから。ただ、ノートを渡しただけ。ただ、寂しがる後輩を励ましただけ。ただ、合宿中も前向きに過ごせるよう、少しだけ課題を渡しただけ。
そう。何も問題は起きていない。
この時点では。
「先輩」
「ん?」
「私、頑張ります」
「ん。無理はしないで」
「はい!」
「危ないことはしないで」
「はい!」
「ちゃんと考えて」
「はい!」
「困ったら相談して」
「はい!」
「……私たちに、ね」
「はい!」
返事だけは完璧だった。
▼ 赤ペン先生、帰宅
そして、数十分後。
買い出しから帰ってきた同室の親友は。
部屋に入った瞬間、後輩ちゃんが大事そうに抱えている新品のノートを見て。
固まった。
「……それ、なに?」
後輩ちゃんは、満面の笑みで答えた。
「先輩からいただいた、最強引き継ぎ計画ノートです!」
親友の手から、買い物袋が落ちた。
中から転がったにんじんが、床をころころと転がっていく。
最強メンタル計画ちゃんは、少し誇らしげに頷いた。
「寂しくないように」
親友は、震える手で赤ペンを取り出した。
「今すぐ見せて」
「えっ」
「今すぐ」
「でもこれは、先輩から私に……」
「今すぐ」
その声は静かだった。
けれど、そこには確かに、これまで幾多の危険物を未然に防ぎ、あるいは事後処理し、学園の平和を守ってきた者だけが持つ圧があった。
後輩ちゃんは、少し迷った。
でも、先輩は言っていた。
*困ったら、相談して、と。私たちに、と。*
「……はい」
後輩ちゃんは、おずおずとノートを差し出した。
親友は受け取った。表紙を見る。
最強引き継ぎ計画
親友は目を閉じた。
深呼吸した。
開いた。一ページ目を見た。
「……」
次のページへ、手が動きかけた。
止まった。
表紙の文字を、もう一度見る。
最強引き継ぎ計画
タイトルは不穏だった。中身は確認したかった。でも。
これは後輩ちゃんのために書かれたものだ。
先輩が、後輩ちゃんだけのために、十五分かけて書いたものだ。
自分が先に全部読んでしまうのは、何か、違う気がした。
親友は、ゆっくりとノートを閉じた。
そして赤ペンを取り出した。
表紙の裏の白いページに、一行だけ書く。
*何かするときは、たづなさんに相談して。*
ノートを閉じる。後輩ちゃんに返す。
「……ここだけ、守って」
後輩ちゃんは、その一行を見て、こくりと頷いた。
「はい」
赤ペンのキャップが、静かに閉じられた。
▼ 学園BBS:【いい話?】例の後輩ちゃん、何か貰ったらしい【……いい話?】
レス 1〜50
例の後輩ちゃんと同じ教室なんだけどさ。
今日、時折ノートを両手で抱え込んで、すっごい幸せそうにしてた。
かわいい。
なにそれ微笑ましい。
あの子、基本いい子だからなぁ。
最近ちょっと先輩の影響が強いだけで。
「ちょっと」?
「先輩の影響」?
言葉を選んだんだよ。
で、何のノート?
わからん。
授業中はちゃんと授業受けてるんだけど、休み時間になると鞄から出して、表紙を見てにこにこしてる。
かわいい。
青春じゃん。
もしかして例の子からプレゼントもらったとか?
合宿前の励ましとか?
成長記録とか?
トレーニングのコツとか?
メンタルの保ち方とか?
メンタル?
やめろ。
その単語だけで少し警戒する体になってしまった。
でも今回は本当にいい話かもしれないじゃん。
後輩ちゃんが寂しがらないように、先輩が手書きで励ましの言葉を書いてくれたとか。
ありそう。
普通に泣ける。
あの子、方向性はおかしいけど優しいからな。
方向性がおかしい優しさが一番怖いんだよ。
まあまあ、まだ何も起きてないから。
今北。
例の後輩ちゃんが抱えてたノート、ちらっとタイトル見えた子がいるらしい。
お。
青春ノートかな?
交換日記?
タイトルなに?
「最強引き継ぎ計画」
は?
待って。
空気変わったな。
今なんて?
最強?
引き継ぎ?
計画?
三単語全部アウト。
単体でも警戒語なのに三連結するな。
最強
引き継ぎ
計画
分解しても怖い。
くっつけるともっと怖い。
誰だよいい話って言ったの。
私です。
撤回します。
後輩ちゃん、合宿に行けないんだよね。
赤ペン先生は一緒に行くんだよね。
詰んだ?
後輩ちゃん一人?
一人じゃない。
ノートがある。
最悪の回答やめろ。
後輩ちゃん、すごく大事そうにしてたんだけど。
そりゃ憧れの先輩からのプレゼントだもん。
レス 51〜100
その純粋さが怖い。
悪意がない。
善意しかない。
だから止まらない。
後輩ちゃん、授業中は真面目なんだよ。
ノートも取ってるし、先生の話もちゃんと聞いてる。
休み時間にだけ、例のノートを胸に抱いて幸せそうにしてる。
かわいいのに怖い。
いい子なのに怖い。
プレゼントなのに怖い。
ノートなのに怖い。
我々はノートに怯える生き物になってしまった。
昔はノートって勉強道具だったんだけどな。
今も勉強道具だよ。
問題は何を勉強するか。
最強を引き継ぐ勉強。
やめて。
そういえば後輩ちゃん、昼休みに何か書き足してた。
え?
もう?
早い。
引き継ぎが始まっている。
内容見えた?
遠かったから全部は見えない。
でも「先輩不在時」「寂しさ軽減」「安全」「小型化」みたいな単語は見えた。
小型化。
小型化って何を?
知らない方が幸せな単語。
「安全」が入ってるから大丈夫では?
これまで何度「安全」と書かれた危険物が生まれたと思ってる。
安全確認済み
安全設計
安全版
全部最終的にどうなった?
封印。
全部封印。
赤ペン先生は?
赤ペン先生に連絡しよう。
合宿準備で忙しいらしい。
いや今すぐ呼んで。
赤ペン先生も買い出しから帰ってきてノートを見たらしい。
おお!
救世主!
どうなった?
表紙の裏に一行だけ書いて、返したらしい。
一行?
全部には赤ペン入れなかったの?
読まなかったらしい。
……読まなかったのか。
後輩ちゃんのためだけに書かれたやつだもんな。
先に自分が全部読むのは違う、ってこと?
たぶん。
なんか……泣けてきた。
不穏ノートなのに泣けてくるの、どういう感情?
ちなみに一行は何て書いたの?
「何かするときは、たづなさんに相談して」
一行で必要十分。
でも後輩ちゃんが「赤ペン先生の一文も入りました! 完全版です!」って言ってた。
強化されてる。
なんでそうなるの。
止めたつもりだったと思う。
でも後輩ちゃんの中では「安全に実行するための貴重な一行」になってる。
レス 101〜150
それもう企業が欲しがるやつじゃん。
企業板に流すなよ。
絶対流すなよ。
もう立ってる。
早い。
企業の嗅覚がウマ娘より鋭いのやめろ。
ちなみに後輩ちゃん、放課後に「先輩が安心して合宿に集中できるように、私も頑張ります」って言ってた。
泣ける。
泣けるけど怖い。
感情が二つある。
後輩ちゃんがノート抱えて幸せそうにしてるの、本当にかわいいんだよ。
わかる。
守りたい。
何から?
本人の発想から。
それは先輩にも言える。
一番守らなきゃいけないのは、たぶん学園の平穏。
平穏くん、最近ずっと瀕死じゃない?
まだ息はある。
あるかなぁ。
そういえば後輩ちゃん、ノートの最後の方に付箋貼ってた。
付箋?
「合宿中に先輩へ進捗報告」って書いてあった。
進捗。
進捗って何の?
だから知らない方が幸せな単語だって。
先輩、合宿中も連絡していいよって言ったんだよね?
言ったらしい。
つまり合宿先に進捗報告が届く。
合宿先で先輩が刺激を受ける。
先輩から追加案が返ってくる。
後輩ちゃんが学園で実行する。
通信型危険物開発体制。
言い方。
合宿と学園でリモート共同開発するな。
しかも同室の親友は合宿側にいるから、学園側の現物確認ができない。
赤ペン先生、遠隔添削になるの?
先輩、後輩ちゃん用にカスタムされてるのが一番怖い。
先輩、後輩ちゃんのことちゃんと考えて渡してるんだな。
いい話なんだよなぁ。
いい話と災害予報が同居してる。
最強引き継ぎ計画ちゃん爆誕?
増やすな。
名前を付けるな。
でももう付いた気がする。
やめろ。
後輩ちゃんがノート抱えて幸せそうにしてるだけなのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
過去の積み重ね。
信頼と実績。
封印物の山。
全部原因。
とりあえず合宿前に赤ペン先生とたづなさんに共有して。
共有した結果、たづなさんがしばらく天井を見つめてたらしい。
レス 151〜200
胃。
胃。
胃。
たづなさん、強く生きて。
後輩ちゃんも強く生きて。
学園も強く生きて。
そしてノートは置いてけ。
それができたら苦労しないんだよなぁ。