外伝07:理事長、業務上の確認ッ!(真V6・スピカ4DXスーパーデラックス)


── 資料が届いた ──

駿川たづなは、書類を見ていた。

机の上には、報告書。署名一覧。安全基準案。そして、問題の設備に関する概要資料。

資料の表紙には、なぜか堂々とこう書かれていた。

真・最強メンタル計画V6

スピカ4DXスーパーデラックス

たづなは、しばらくその文字を見つめていた。

そして、そっと目を閉じた。

「……名前から、もう危険ですね」

隣で秋川やよい理事長が、きらきらした目で資料を覗き込んでいる。

「画期ッ! 小規模没入型ライブ視聴設備! 疲労したウマ娘たちの心を癒やし、休養中の者にも非日常体験を届ける! 実に素晴らしい発想だッ!」

「目的は、否定しません」

たづなは言った。その声は静かだった。静かだったが、圧があった。

「ですが、現状のまま運用することは絶対に認められません」

「む、無論ッ! 安全第一であるッ!」

「本当ですね?」

「当然ッ!」

「理事長」

たづなは、資料の一部を指で押さえた。

「こちらの初期試験版には、投げキッス演出が含まれていたそうです」

「…………」

「理事長」

「……投げ、キッス」

「反応しないでください」

「していないッ!」

「今、耳が動きました」

「気のせいであるッ!」

「尻尾もです」

「気のせいであるッ!」


たづなは、深く息を吐いた。

そして、赤いペンで安全基準案に追記していく。

投げキッス演出:削除。

至近距離ファンサ:削除。

表情アップ:制限。

立体音響の包囲感:弱化。

香り演出:原則なし。

途中停止機能:必須。

監視役:必須。

理事長による単独利用:禁止。

「なぜ私の名前がここに……!」

「前例があるからです」

「む……」

「真V2で被弾されましたよね?」

「……うむ」

「真V3でシルエットに油断されましたよね?」

「……うむ」

「真V4で試食されましたよね?」

「……うむ」

「真V5でハンドクリームを嗅ごうとされましたよね?」

「今回はまだ何もしていないッ!」

「今回は、です」

たづなは、静かに資料を閉じた。

「私はこれから会議に出ます。戻るまで、この件には触らないでください」

「無論ッ!」

「資料もです」

「無論ッ!」

「タキオンさんのところにも行かないでください」

「無論ッ!」

「理事長」

「なんだッ!」

「本当に、お願いします」

その声は、いつもの秘書としての確認ではなかった。かなり切実だった。

理事長は、胸を張る。

「安心せよ、たづな! 私はトレセン学園の理事長である! 職責をわきまえ、軽率な行動は慎むッ!」

「……信じます」

たづなは、少しだけ疑いの目を残しながらも、会議室へ向かった。


── 確認、である ──

扉が閉まる。

理事長室に、静寂が落ちた。

理事長は、しばらく動かなかった。

腕を組み、机の前で堂々と立っている。

さすが理事長。見事な自制心。完璧な威厳。揺るがぬ職責。

「…………」

十秒後。

理事長の視線が、資料へ向いた。

表紙には、あの名前。

スピカ4DXスーパーデラックス

「……確認」

理事長は、ぽつりと呟いた。

「そう、確認である」

誰もいない理事長室で、理事長は一人頷いた。

「たづなは危険だと言った。ならば、学園の長たる私が、危険性を正しく把握する必要があるのではないか?」

理屈は、立っているようで立っていない。

「生徒たちが体験を望んでいる。安全版を求める声も多い。ならば、どこが危険で、どこを削るべきかを、実際に把握することもまた責務……!」

だんだん声に力が入ってきた。

「これは私欲ではない」

理事長の耳がぴこりと動く。

「断じて、私欲ではないッ!」

尻尾も動く。

「業務上の確認ッ!」

言った。言ってしまった。

そして、この言葉を口にした時点で、理事長はだいたい負けている。


── タキオン、待機中 ──

「ふふ。来ると思っていたよ」

アグネスタキオンは、研究室で笑っていた。

まるで待っていたようだった。というより、実際待っていた。机の上には、すでに小型の制御端末と、チェックリストのようなものが置かれている。

理事長は、胸を張った。

「タキオン君。これは業務上の確認であるッ!」

「もちろんだとも」

「私は私欲で来たわけではないッ!」

「当然だねぇ」

「生徒たちの安全のため、現状の危険性を把握し、安全版への改修点を洗い出す必要がある!」

「実に理事長らしい責任感だ」

「そうであろうッ!」

タキオンは楽しそうに頷いた。あまりにも話が早い。

理事長は、少しだけ安心した。やはりこれは業務である。専門家もそう言っている。その専門家がアグネスタキオンであることに目をつぶれば。

「ただし、たづな君には止められているのでは?」

「……安全確認のための事前確認である」

「なるほど。確認の確認だねぇ」

「そうだッ!」

「では、記録を取ろう。後で安全化の参考にできる」

「記録ッ! それは大事である!」

「もちろん、危険があれば私が止める」

「頼もしいッ!」

こうして、理事長はアグネスタキオンの協力のもと、こっそりとスピカ4DXスーパーデラックスの体験へ向かった。

こっそりの時点で、もう駄目だった。


── LV4、選択 ──

離れの小型シアターは、静かだった。

灯りは落とされ、設備は停止している。だが、そこには確かに、異様な存在感があった。

小規模ながら本格的なスクリーン。複数の可動座席。壁面の音響装置。天井の風圧ノズル。足元の振動ユニット。香り拡散装置。照明制御。そして制御室。

「これは……想像以上に本格的であるな」

「私も少し力が入ってしまってねぇ」

「少し?」

「少しだとも」

理事長は、シアター内の座席を見つめた。座席は、以前の旧V6のような怪しい椅子ではない。きちんとしたシアター用の可動座席に見える。

「理事長、どのレベルで試す?」

「レベル?」

「安全化前の初期試験版にも、一応段階を設けてある。LV1は遠景ライブ。LV2は中距離。LV3は最前列感。LV4は完全没入型だ」

「完全没入型……」

理事長の耳が動いた。

「ちなみに、初回で例の子が気絶したのは?」

「LV3相当だねぇ」

「LV3……」

理事長は考える。

学園の長として、危険性を把握しなければならない。最低限だけ試すならLV1で十分だ。だが、危険性を把握するには、ある程度強い設定も確認しなければならないのではないか。例の子はLV3で気絶した。つまり、LV3の危険性はすでにわかっている。ならば、理事長として確認すべきは何か。

そう。

最悪の危険度である。

「……LV4で」

「ほう」

タキオンの目が輝いた。

「良いのかい?」

危険性の最大値を把握せねば、安全基準は作れぬッ!」

「実に立派な姿勢だ」


理事長は、座席に座った。ベルトを締める。小柄な体が、座席にすっぽり収まる。

「では、開始するよ」

「うむッ!」


暗転。

そして、音が生まれた。

最初は、遠い歓声だった。会場のざわめき。誰かの期待。足元に伝わる、低い振動。

理事長の耳が、ぴくりと反応する。

まだ大丈夫。これくらいなら、何度も現地で経験している。

そして、ステージの照明が上がった。

スクリーンの中に、スピカが現れた。

「…………」

理事長の背筋が伸びた。

想像より、大きい。想像より、近い。いや、まだ遠いはずだ。スクリーンの中だ。映像だ。本人ではない。わかっている。わかっているのに。

「……なるほど」

理事長は、かろうじて理性を保った。

「これは、没入感が強い。確かに安全化が必要であるな」

まだ業務上のコメントが出ている。まだ大丈夫。

スピカが歌い始めた。

立体音響が、理事長を包んだ。

「っ」

理事長の尻尾が跳ねた。正面から聞こえるだけではない。左右から。後ろから。上から。音が空間全体に広がっている。まるで、スピカの歌がシアターそのものになったようだった。

低音。足元から胸へ響く。風。ステージの熱気を再現するように、柔らかく頬を撫でる。照明。スクリーンと同期し、視界の端で揺れる。

「……見事」

理事長は、震える声で言った。

「見事な、再現度である……」

まだ耐えている。さすがトレセン学園の長。数多の危険物を経験し、たづなに叱られ、金庫送りを見届けてきた者。

だが、LV4はここからだった。


曲が進む。サビが近づく。座席の揺れが、ほんの少し強くなる。

それは乱暴な揺れではない。むしろ心地よい。ライブ会場の熱と一体になるような揺れ。自分の心拍と、曲のリズムが揃っていくような感覚。

「これは……生徒たちが望むのも、無理は……」

スピカが、画面の中で笑った。

理事長の言葉が止まった。

LV4は、完全没入型。スピカが、こちらを見た。正確には、カメラ目線の映像である。ただ、それを認識する理性を、4DXの演出が全力で削ってくる。

視線が合った。そう錯覚する。

風が、ふわりと前から吹く。照明が柔らかくなり、周囲の音が一瞬だけ引く。スピカの歌声が、少しだけ近く感じる。

「……近」

口から漏れたのは、もはや業務報告ではなかった。

制御室のタキオンは、記録を取りながら楽しそうに頷く。

「反応良好、と」


サビ。スピカの歌声が広がる。座席が浮遊感を作る。足元から響く振動。背中を支えるわずかな温かさ。横から抜ける風。

理事長は、まだ耐えている。

目は潤んでいる。頬も赤い。尻尾は忙しい。だが、まだ意識はある。

「耐えるねぇ」

タキオンが、楽しそうに呟く。

「さすが理事長だ」

その時。映像の中のスピカが、こちらへ向けて手を振った。

理事長の呼吸が止まった。

まだ落ちない。耐えている。

しかし、次の瞬間。

スピカがステージの中央で、ふっと微笑む。照明が寄る。音が一瞬引く。

そして。

投げキッス演出。

「――」

理事長は、声にならない声を出した。

たづなによって削除指定された、危険演出。安全版では絶対に消される予定の、最大級の火力。それが、LV4では真正面から来た。

画面の中の演出に合わせて、ふわりと風が届く。頬に触れるような錯覚。座席が、ほんの一瞬だけ柔らかく揺れる。音響が、スピカの声の余韻を包む。さらに香り。強くはない。むしろ中立に近い。けれど、その瞬間に合わせて流れたことで、脳が勝手に意味を補完した。

「……業務、上……」

まだ言おうとした。

「確認……」

言い切れなかった。

理事長は、幸せそうに気絶した。


制御室で、タキオンは記録を見た。

「LV4、投げキッス演出到達時点で意識喪失。理事長クラスでも耐性限界。生理的数値は安定。表情は極めて幸福。尻尾反応は継続。なるほど、貴重なデータだ」

ガラスの向こうで、理事長は座席に身を預け、幸せそうに眠っている。

ライブは続いていた。なぜなら、初期試験版はライブ終了まで止まらない仕様だからである。

「まあ、最後まで流した方が、回復過程の観察もできるだろう」

完全に研究者の顔だった。


── たづな、戻る ──

会議から戻ったたづなは、まず理事長室を確認した。

いない。

次に廊下。いない。

次に応接室。いない。

そして、嫌な予感とともに、離れへ向かった。

扉の前に立つと、中から微かに音が聞こえた。

音楽。歓声。低音。

たづなは、静かに扉を開けた。

制御室には、タキオンがいた。楽しそうにモニターを見ている。

「お帰り、たづな君」

「……理事長はどちらに?」

たづなの視線が、シアター内へ向く。

座席に収まり、幸せそうに気絶している秋川やよい理事長。

たづなは、しばらく無言だった。

無言が、一番怖かった。

「……理事長」

たづなが歩み寄る。

「……すーーパー……」

たづなの眉が、わずかに動いた。

「理事長」

「……業務上の……」

「理事長」

「……確認……」

「理事長」

声が、一段低くなった。

理事長の耳が、びくっと動いた。意識が少し戻ったらしい。

「……はっ」

理事長が、ゆっくり目を開ける。まず目に映ったのは、たづなの顔だった。

完璧な笑顔。しかし、背後に般若が見えるタイプの笑顔。

「た、たづな……?」

「はい」

「これは、その……」

「はい」

「業務上の、確認で……」

「はい」

「生徒たちの安全を思い……」

「はい」

「最大危険度を把握する必要が……」

「なぜLV4を体験されたのですか?」

「……最大危険度を」

「なぜLV4を?」

「…………」

理事長は、小さくなった。

「……危険であった」

「でしょうね」

「非常に、危険であった」

「でしょうね」

「だが……その……癒し効果も……」

「理事長」

「はい」

「投げキッス演出は削除と申し上げましたよね?」

「……はい」

「至近距離ファンサも削除と申し上げましたよね?」

「……はい」

「理事長の単独利用は禁止と書きましたよね?」

「……はい」


── 封印と、追加項目 ──

たづなは、ゆっくりと立ち上がった。

タキオンへ視線を向ける。

「タキオンさん」

「なんだい?」

「今回の記録は提出してください」

「もちろんだとも。有用なデータが取れたからねぇ」

「ありがとうございます。なお、今後の無断利用は、設備ごと完全封印になります」

「……それは困るねぇ」

「困ってください」

たづなは、安全基準案を取り出した。

赤ペンで、新しい項目を追記する。

LV3以上:たづな同席のみ可

LV4:現状は実験データとして保管のみ。一般利用不可

タキオン単独操作:禁止

理事長単独体験:永久禁止(前科5回)

「前科が増えましたね、理事長」

「……むう」

「次回は、正式手続きを踏んでください」

「……わかった」

理事長は、本当に珍しく、神妙な顔をしていた。

「ただ、たづな」

「なんでしょう」

「あの設備は……本当によくできておった」

「……知っています」

「癒し効果は、本物だ」

「……わかっています」

「スピカの、あの……」

「理事長」

「むっ」

「安全版で楽しみにしてください」

たづなは、静かに言った。

「安全版は、作ります。必ず作ります。ただし、スピカさん要素は大幅に調整します。投げキッスは消します。理事長は同席監督のみです」

「……同席、監督」

「体験ではありません」

理事長は、しばらく黙った。

「……承知した」

その声は、珍しく素直だった。

たづなは、深く息を吐いた。

前科5回。次は6回目にならないよう、祈るしかない。


離れを出る時、たづなはふと空を見た。

今日も学園は平和だった。

平和……であることに、なっている。

少なくとも、部屋は封鎖されていない。外に被害は出ていない。生徒は誰も傷ついていない。理事長も幸せそうに気絶しただけで、身体は無事だ。

たづなは、手帳を取り出した。

危険物管理項目追記:スピカ4DXスーパーデラックス(初期試験版)』

『分類:大型複合施設型(F)』

『現状:安全化作業中。完全封印ではなく改修対応』

『注意事項:理事長単独体験、永久禁止』

最後の一行を書いた時、たづなは小さくため息をついた。

「……前科、何回になるんでしょうね」

答えてくれる人は、誰もいなかった。

空だけが、静かに広がっていた。